時刻は既に、外の風景が赤みの深く溶けた黄金色に染め上げられる頃。夕日の燃ゆる光など欠片も届くことのないラボに籠もり、スマホの画面上に重く澱む溜息を落とす。

「大変なことになってしまったわねぇ……」

アキラとウィルに祝福の言葉を送った後、激しい衝撃に頭を打たれてまだ茫然としている意識の中で、嘆かわしく独り言をこぼした。まさかあのような順位の変動が起きてしまうとは、あの会場にいた誰もが思わなかっただろう。
ノヴァと共にスタジアムを後にしたのは、【LOM】の結果が出揃うことによって会場の空気に激震が走った直後だった。幸い、ガストには会場に足を運んでいたことを伝えていない。この状況下で声をかけていいのかもわからないし、安易な同情や慰めは失礼にあたると思い、かけるべき言葉を見つけられずに足を遠ざけてしまった。
とはいえ、このまま知らない振りを続けるのも良心が痛む。せめて一言でも労いを送っておくべきかと後味の悪さに敗北し、一度眠ったスマホの画面を再び起動させる。と、同時にメッセージの着信が知らされた。

「あら?」

アキラから返事が来たらしい。内容を表示させると、祝福の言葉への礼に続いて何やら協力してほしいことがあるという依頼が綴られていた。アキラがそんなふうに頼ってくるなんて珍しい。不思議に思いながら了承を返すと、またしばらくして返事が届いた。

『たぶん直接話した方が早いと思うんだけど、今時間あるか?』

しかも、そこそこに急いでいる様子。一体何事だろう。思い当たる節がなく首を傾げるばかりだが、それこそ会って話を聞くのが一番早いのだろう。問題ないと返すと数分後、談話室に集合と返事が来た。
返事を打ちながら腰を上げ、ふらり不安定な足取りでラボを出ようとする。扉が開いた瞬間、スマホに集中した視界の端に誰かの脚を捉え、思わず顔を上げて驚きに足が固まった。

「あ……」
「アドラーさんっ?」

向こうもまさか扉が開くとは思っていなかったらしい、思いがけず焦った表情で狼狽えていた。

「いや、これはその、声かけるかどうか悩んでただけで、決してストーカーしてたとかじゃねぇからな!?」
「はぁ……」

何も疑ってなどいないのに一方的に弁解されてしまい、どう返したらいいのかわからず、適当に相槌を打ってしまった。

「えっと……声をかけようとしてくださっていたということは、私に何か用が?」
「あぁ。もし時間があるなら、ちょっとした愚痴に付き合ってもらおうかなって思ってたんだけど。その調子じゃ、今から用事だよな?」

ちょっとした愚痴というのは、今日のことだろうか。やんわりと疲労感を滲ませているようにも見える彼の姿を見ていると、そう思わずにはいられなかった。彼の話を聞いてあげたいという気持ちに強く引きずられつつ、先に約束をしたアキラを放っておくわけにもいかなくて迷いが生じる。

「ううん、用事といいますか……珍しく、アキラが何か協力してほしいと言ってきまして。直接話した方が早いからと、談話室に呼び出されてしまったのですけれど」
「アキラが?」

正直に話すと、彼は呆気に取られた様子で目を丸めた後、何やら決まりが悪そうに目を泳がし始めた。

「うーん……それってたぶん、俺のことだと思うんだよなぁ」
「アドラーさんの……?」
「アキラにもさっき色々喋っちまったからさ。あいつなりに気ィ回そうとしてくれてるのかもな」

彼の言い分から察するに、ガストとアキラ、わざわざどちらかを取捨選択する必要はなさそうだ。結局は本人に確認してみるのが手っ取り早いのだろうと判断し、ちょうど片手に持っているスマホに視線を落として親指で操る。

「少しお待ちくださいね」
「お、おぉ……?」

一言断りを入れて電話をかけると、数コールの後にアキラの声が耳に届いた。

『おう、セレーナ』
「あ、アキラ?」
『どうした? やっぱ都合悪くなったか?』

一瞬、言葉に迷って黙ってしまった。直接アキラから用件を聞いたわけでもないし、アキラの目論見が恐らくは当該人に知られていると伝えるのがいいことなのかもわからない。
おずおずとガストの顔を見上げ、呆然と注がれる視線を受けとめながら、ひとまず遠回しに今の状況を伝えて探ってみることにした。

「都合が悪くなったというか……今、アドラーさんが目の前にいるのだけれど」
『えっ、ガストが!? あー、じゃあいいや。この話はまた今度な!』
「えぇっ!? ちょっ、ちょっとアキラ?」

ばつが悪そうな声が慌てて一方的に話を切り上げてしまうと最後、耳元では通話の終了を知らせる機械音が鳴るのみ。こちらの思考はすっかり置き去りにされ、放心気味に小さく息を吐きながら、元の待受画面に戻るスマホを見つめた。

「まったく、相変わらずそそっかしいんだから……」
「その様子だと、俺の予感は当たったみてぇだな」
「どうやらそのようですね。とりあえず、用はなくなったということですので、どうぞゆっくりしていってください」
「おう。邪魔するぜ」

二人で顔を見合わせて苦笑い、今度こそ心置きなくガストを招き入れた。彼が中へ入ったのを確認して、扉にロックをかけておく。せっかく休息を求めに来てくれた彼のための、二人だけの大切な時間が中途半端になってしまうのは嫌だから。万が一緊急の用があれば、声をかけてくるだろう。
くるりと踵を返し、テーブルの傍らに備えている椅子に腰を下ろす彼にそっと近づいて顔色を窺う。

「よろしければ、何か飲まれますか?」
「いや、いいよ。あんまりゆっくり居座ると、あんたの仕事の邪魔になりそうだしな」
「あら、そんなの気にしなくて構いませんのに。今はまだ余裕がありますし、少しくらいアドラーさんに独り占めされても問題ありませんよ」
「えっ……」
「アドラーさんはいつも誰かのために頑張っているんだもの、ご自分ももっと人に甘えられては?」

どうか、こんな時まで気を遣わないでほしい。人を慮って遠慮しがちな彼の力を抜いてあげたい一心で柔らかく主張すると、呆気に取られた視線にじっと見つめられた。
はっと我に返る。これでは、彼のために何かしてあげたいという自分の気持ちを、一方的に押しつけているだけではないか。

「わ、私ったら、差し出がましいことを言ってしまいましたね。申し訳ございません」
「あぁ、いや…………あんた、やっぱ優しいよな」
「えっ」
「俺はあんたのそういうとこ、いいなって思ってる」

なのに、彼は至極温かで穏やかな表情に乗せて、好意的な言葉を向けてくれる。こちらを見上げる優しい緑の瞳に掴まれた胸の芯から、滲み出す熱がじわりと全身に纏わり付いてほのかな息苦しさを感じた。特に火が灯った顔は逆上せそうなくらいに熱くて、どうにか誤魔化さなくてはと焦りだす。

「あの、えと、せ、せめてお水くらいはお出ししておきますね! ちょうど今朝作り置きした果実水があるので、疲れた体への栄養補給にもよいかと思います!」
「あ、あぁ……なんか悪いな」

自然体を取り戻すことなどもう不可能で、あからさまに取り乱して冷蔵庫のある方へと逃げた。彼の口から苦々しくこぼれた詫びが気遣いに対してなのか、はたまた別の事象へのものなのかは定かではない。知ろうとするのも恥ずかしいので、このまま流しておくことにする。
何種類かのベリー系の果実をたっぷり漬け込んだ天然水の入ったボトルを、冷蔵庫の中から取り出してカップに注いでいく。いっそこの水を頭から被れば熱も冷めるだろうか。などと血迷ったことを一瞬でも考えてしまったが、当然ながらすぐに振り払った。まだ少し水の残ったボトルを冷蔵庫に戻し、彼の下へカップを運ぶ。

「えっと……今日の【LOM】、お疲れ様でした」

少しの躊躇いを覚えつつも労いの言葉と共にそれを差し出して置くと、自らも隣に座る。

「おぉ、ありがとう。ひょっとして、見に来てくれてた感じか?」
「じ、実は……」
「そっか。まあ、その……無様なところ、見せちまったよな」
「そんなことはっ……と言いたいところですが、正直なところ驚いてしまいました。特にノースセクターは、ずっと負け知らずでセクターランキングも一位でしたし……」

結局は気の利いた言葉など何も浮かばず、率直な感想を述べることしかできなくて心苦しさに声も消沈していった。
苦々しくも浮かべていた笑みが、いよいよ彼の口元から失われていく。かといって決して憤りを露わにするわけでも落ち込むわけでもなく、どこかやさぐれた空気を滲ませて淡々とぼやかれる。

「そうだよなぁ。それでもメンターどもは自分の考えを改める気はないらしいけど」

彼がそんなふうに他人への明確な不満を露わにする姿なんて、初めて目の当たりにしたのではないだろうか。どきりと胸を不穏に強張らせつつ、唖然とした目を瞬かせる。

「もちろん、俺の力不足だってことも認めてる。でもぶっちゃけ、今のチームの状況じゃいつかはこうなるだろうなって予感はしてたよ。どいつもこいつもチームワークなんて意識の欠片もねぇ連中ばかりだからな」
「そ、そういえば、パトロールも基本的に単独行動になっているとおっしゃっていましたよね。言われてみれば、ヴィクター博士もラボで研究に勤しんでいることが多いですし……あら? ヒーローとしてのお仕事、ちゃんとされているのでしょうか」
「ははは。ドクターがヒーローだってことも忘れるくらい、あんたにとっても研究者としてのイメージの方が強いってこった」
「そのようです……」

尊敬する大先輩のことでありながら、皮肉めいた笑いには同意せざるを得なかった。
ヴィクターがガストのチームのメンターであることは知っていたはずなのに、そもそもがヒーローだということをすっかり失念していて、彼とラボと頻繁に顔を合わせる日常に対して今まで何の疑問も抱かなかったのだ。その裏でガストが苦労していたと知ると、途端に申し訳なくなった。

「もう一人のメンターに至っては、やたらと俺たちに当たりがキツくてさ。人に教えを乞うのは恥ずべきことだとか、凡人には付き合ってられないだとか、挙げ句の果てにはメンターなんて望んでなったわけじゃないなんて言いやがるし。メンターとして全く機能してねぇ」

どちらかというとサブスタンス以外への関心が薄いだけのヴィクターよりも、こちらの問題の方が深刻なのかもしれない。ガストの表情もより険しくなり、綺麗にセットされた髪をくしゃりと乱して頭を抱えている。

「う〜ん、マリオンさんは確かに少々気難しいお方ですからねぇ。今でこそ慣れてしまいましたが、かつては私も苦手意識が強かったかと」

過去の記憶を脳裏に呼び起こし、当時の惨状に苦々しい気分が蘇る。どうも自分の態度や言動は彼の気に障ってしまうらしい。一時期は彼との接し方に悩んでいたが、それこそノヴァたちが間に入ってくれたおかげで、今はだいぶ打ち解けられた方だと思う。
思えば、以前のノースセクターはブラッドの存在もあって全体的に近寄り難さを感じていたが、今はガストのおかげでだいぶ身近に感じられている。

「あれ、セレーナってマリオンと知り合いなのか?」

懐かしい思い出に耽っていると、思いがけない疑問を投げられて我に返った。

「あら、そういえば言ってなかったでしょうか。マリオンさんとは、そうですね……以前からの顔馴染みといったところです。ノヴァ博士のラボでよく顔を合わせることもあるので」
「あぁ、そっか。つーかあいつ、あんたにもそんな態度なのかよ」
「ノヴァ博士やジャックたち以外には大体あのような感じかと。でも、私にも時々親切にしてくださることもありますし、決して悪い方ではないと思いますよ」
「親切に、ねぇ……俺たちには一切そんな素振り見せたことねぇんだけどな」
「そ、そうでしたか……」

あまりこれ以上に不信感を植えつけるのは得策ではないと思ってやんわりとフォローを試みたけれど、空振りに終わってしまった。
ヒーローとしての職務に関心がないメンターと、ルーキーに一切心を開こうとせず厳しく当たるメンター。改めて見つめてみると、想像以上に彼の置かれている状況は過酷だった。よくも今まであれだけ気丈に振る舞ってきたものだと尊敬すら抱く。

「同じチームの同期のヤツも、なかなか心開いてくれる様子ねぇし。チームワークが大事っていうから、俺なりにチームのヤツらとは仲良くしようと思って色々努力はしてきたけどさ。そろそろ疲れてきたっつーか、いい加減投げ出したくなっちまうよなぁ」
「アドラーさん……」

頬杖をついて深い溜息を吐き出す横顔は、取り繕うのをやめてどこか自棄のようなものすら感じさせる。あまりネガティブな言葉を吐くイメージのなかった彼がここまで曝け出してしまうとは、かなり追い詰められた状況であると見た。

「ううん、わたしも何かお手伝いできたらよいのですけれど……あのお二方は特にご自分の方針を曲げることは絶対にないでしょうし、私ごとき部外者が何を言っても流されてしまう予感しかしません」

彼の力になりたいのに、こうして労しく案じて見守ることしかできないもどかしさに胸を締め付けられ、視線が底へと沈んでいく。と、隣で皮肉の混じった笑い声が小さくこぼれた。

「そこでころっと態度が変わるようなヤツらなら、俺もこんなに苦労してねぇだろうからなぁ。そもそも俺は解決を求めてここに来てるわけじゃねぇんだから、あんたはそんなに気にすんなよ」
「ですが……」
「むしろ、あんたがそうやって真剣に俺のこと考えてくれてるってだけで、俺は救われてるからさ。いつもありがとな」
「い、いつも?」
「あぁ。あんたと話してるとどんな疲れも癒やされちまうし、また頑張ろうって思える。それってたぶん、あんたの傍が居心地良いからなんだろうな」

そう語る表情はとても安らかに和らいでいて、慈しむような声に優しく心を撫でられて思わず顔を上げた瞬間、熱く満たされた胸の奥が甘く締めつけられて息の仕方を忘れてしまった。彼がそんなふうに安寧を求めて心を委ねてくれていることに喜びを感じて、高ぶる想いに心臓の鼓動が激しく乱される。

「わ、私も……」
「ん?」
「私も、アドラーさんと一緒にいると、とっても元気を貰えるんです。それに、アドラーさんが頑張っているなら、私ももっと皆さんのために研究頑張らなくちゃって思えて……そういう意味でも、アドラーさんは私にとって魅力的なヒーローなんですよ」

強い衝動に背中を押されて、舞い上がった舌は気づけば夢中になって日頃秘めている感謝を紡いでいた。この想いが少しでも彼の糧になれるのなら、それだけで報われる。
彼は一瞬だけ面食らった顔をした後、またすぐに頬を柔らかく緩ませた。

「あんたにそう言われちゃ、まだまだ頑張らねぇとな」
「あっ、でも、あまり無理はなさらないようにしてくださいねっ」
「わかってるよ。疲れた時はまたあんたのところに来るさ」

気兼ねなくそう言ってもらえるのが嬉しくて、つい口元を綻ばせて頷いた。
ここが心休まる場所になるのなら、いくらだって差し出そう。大切な人の大好きな笑顔を守るためにできることなんて、それくらいしかないのだから。後は、彼の直面している問題が無事に解決へ向かうことをただ祈るばかり。






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