「そういえば……あの時のイヤリング、片耳だけにしたんだな」

青空を映す水面のような柔らかい髪の合間に覗く、右の耳元で揺らめく天使の羽と小さなエメラルドに気づいて指摘すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「はい。アドラーさんがいつも片耳だけピアスをしていらっしゃるので、今日はお揃いにしてしまいました」
「えっ」

エメラルドに軽く触れる指先に、この心まで弄ばれているような感覚になる。好意的に意識した口ぶりにどきりと恋心を掴まれ、一瞬思考が停止してしまった。すると何か誤解したらしい彼女は少し不安げに首を傾け、こちらの顔を覗き込んでくる。

「えっと……ちゃんと似合っている、でしょうか?」
「あ……あぁ、すごく似合ってる!」
「よかった。アドラーさんにそう言ってもらえると、自信がつきます」

慌てて頷いてやると、揺らめいていた不安はすぐ柔らかな笑みに溶けていった。また一つ、こちらを翻弄する言葉を紡ぎながら。

とある休日。まだ穏やかに青空を揺蕩っていた朝日が天に届き、眩しい昼の陽射しへと移り変わろうとする時刻。
同じ職場の同僚だとか、ヒーローと研究員だとか、そういった肩書は制服と一緒に全部脱ぎ捨てて。特別にお気に入りのコーディネートを選んだ私服姿の二人は、レッドサウスの街並みを歩く一般市民の中に溶け込んでいた。ただし清楚で上品な佇まいをしたセレーナの方は、この下町では少しだけ浮いているかもしれない。皮肉にも二人の出会いのきっかけとなった彼女とその甥がチンピラに狙われたのだって、大方その辺りの印象が原因だったと思われる。無論、彼女には決して非はない。
大通りに並ぶ雑貨屋やアパレルショップは、恐らく彼女の趣向とは離れているのだろう。いくつか立ち寄ってみると随分と興味深そうに店内を見て回るものだから、そんなキラキラとした姿を見ているだけで楽しさが溢れて、時間を忘れるくらいすっかり夢中になってしまった。

「昼メシは俺の好きなベーグルサンドの店があるんだけど、そこでいいか?」
「もちろん。今日はアドラーさんの好きなものをたくさん体験する日なんだもの、約束してからずっと楽しみにしてきたのですよ」

隣でこちらを見上げる眼差しは柔らかく細められ、純粋な煌めきを見せる。微笑を浮かべる唇から紡がれる軽やかに弾む声も、無邪気な期待を嬉々として伝えてこちらを安心させてくれる。それがとてつもなく嬉しくて、抗えずふやけた口元から軽快な笑みがこぼれた。

「俺も、すげー楽しみにしてたぜ。一時はどうなることかと思ったけど、無事に二人で出かけられてよかったな」
「そうですねぇ。私はともかく、アドラーさんはずっと大変そうでしたもの。今日は何かご褒美を差し上げられたらと思うのですけれど」

一緒に出かけようと最初に約束してから紆余曲折。彼女に避けられだしたのもそこそこに一大事ではあったが、何よりも前回の【LOM】からこれまでは激動の日々だった。問題は多々あったものの、おかげで散り散りだったチームの意識は多少なりとも同じ方向を向き始めた。次の【LOM】では絶対に一位を取り返すと、あのマリオンが指導に熱を入れ始めたくらいだ。必要以上に馴れ合うことがないのは相変わらずだが、ようやくチームと呼べるようにはなってきたと思う。
この間、嫌な顔一つせず愚痴を聞いて労り、見守っていてくれたセレーナには心から感謝している。今日はその礼も兼ねて、彼女を喜ばせようと密かに意気込んでいたのだが、互いに似たようなことを考えていたらしい。やっぱり気が合うのでは、なんて浮かれて口走りそうになるのを慌てて堪えつつ、笑いながらうっかり本音を漏らしてしまう。

「ご褒美なんて、今日一日あんたとデートできるってだけで十分嬉しいんだけどなぁ」
「で、デートって……でも、アドラーさんのオススメを紹介していただけるわけですし、むしろ私の方が恩恵を受けてしまっているような気がするのですけれど」

ただ幸いにも、デートという言葉に動揺を見せはすれど、セレーナには純粋な気遣いとして届いていたようで、恐縮してこちらの顔色を窺っている。
彼女こそ相変わらず謙虚に気遣ってくれるのはありがたいけれど、それでは礼にならない。むしろ、気兼ねなくこの一時に心を委ねてほしいくらいだというのに。

「そんなことないって。俺にとっちゃ、あんたが傍にいてくれるってだけで最高のご褒美になるんだからさ」

押しつけではなく、彼女を束縛する遠慮を優しく解いていったつもりだった。が、何故か彼女が硬直してぴたりと動きを停止するものだから、二歩進んだ先でそれに合わせて慌てて立ち止まった。
大きく見開かれた瞳に揺れる美しい海の煌めきと、熟れた果実の色に染まっていく頬。そして、恥じらいを堪えて固く引き締められる唇は微かに震えていて。しおらしい動揺を見せる姿を目の当たりにして、心臓が一際強く跳ねた。
正直なところ、自分の言葉がこうして彼女の心を動かす様を見るのは喜ばしくて、もしかしたらこちらの望む好意を抱いてくれているのではと浅はかにも期待してしまう。ただ、同時に彼女を困らせてしまっているのだと思うと、少なからず申し訳なさもあって。

「あ、えっと……」

どう声をかけていいのかわからず固まっていると、歩道をほぼ占拠するほどに広がって向かってくる若い男たちの集団が見えた。往来する通行人たちも迷惑そうな顔をして、端に寄って避けている。当の本人たちはすっかり話に夢中で周りに気を配る素振りも見せず、品のない笑い声を騒がしくあげている。恐らく、道を開けようという意思など欠片もないのだろう。
そんな男たちが、間もなくセレーナの背後に近づく。

「セレーナ」
「へっ?」

とっさに細い腕を道端へと引いて、傾く小さな体を抱き寄せた。慌てて逃げようとする肩を力強く掻き抱き、できるだけ身を寄せ合うようにして。
やがて、男たちは何事もなく通り過ぎていった。その中の一人は、あからさまにつまらなさそうな顔をしてこちらを一瞥していったが。

「あ……アドラーさんっ……?」

背に向けられた汚れた思惑など知る由もない彼女は、身を強張らせて小さく震えている。腕の中でか細く震える声に呼ばれて我に返った瞬間、ふわりと届く優しい匂いと触れ合う体温の柔らかさがこの体に沁み渡っていくのを感じて、彼女だけでなく自分自身にまで追い打ちをかけてしまった。

「ご、ごめん……その、今のヤツらとぶつかっちまうと思って」

決してでたらめではないのに己の言葉をやけに言い訳がましく思いながら、拒絶を恐れてそっと腕を退ける。心臓が今にも張り裂けそうなのに、温もりを手放すことにほのかな名残惜しさを感じていた。
一方、彼女はこちらの胸元にしがみついて、顔を埋めたまま動こうとしない。激しく異常を主張する胸の鼓動が伝わってしまうのではないかと気が気ではないが、それ以上に留まる温もりが強い刺激にすら感じて、だんだん頭が真っ白になってきた。

「いえ……守ってくださって、ありがとうございます」

やがて、消え入るような声が必死に応えた。ようやく離れた顔は、先程とは比べものにならないくらい真っ赤になっている。
なんとも言いがたい衝動に体が疼くのをぐっと堪え、これ以上留まれば人前だというのに何もかもなし崩しになってしまう気がして、どうにか平静を装った。

「あぁ、うん……と、とりあえず、怪我とかなかったならよかった」
「は、はい」
「あー、早くしねぇと昼過ぎちまうな。ちょっと急ごうぜ」
「そう、ですね──!?」

立ち竦む彼女を連れ出すために、無意識だった。小さくて滑らかな手を取って歩き出した瞬間にびくりと震えたのが伝わり、目的は空振りに終わる。

「あああのっ、アドラーさん!?」

顔を赤らめたまま慌てふためく彼女の反応から、了承も得ずに触れてしまうという己の失態にようやく気づき、焦りに急かされて振り返り際に謝罪を口にする。

「あ、い、嫌だったらごめん! でも、この方があんたをすぐに守れるし安心かなって思って……」
「え、えっと……その、嫌、というわけではないのですけれど」

一度掴んだ手は離すことができず、かといって恥じらう彼女も振り解くことはせず、繋がれたままで。悩ましげに吐き出される言葉も相まって、また淡い期待に心が染まっていく。

「セレーナ……と、アドラー?」

そこに水を差すような声が、セレーナの背後から突き刺さった。セレーナに対してはともかく、こちらには明らかな棘を向けられている。
セレーナは後ろを振り向いてこちらに近寄る制服姿の二人を認めると、普段の穏やかさを取り戻して肩の力を抜いた。

「あら、ウィル、アキラも。二人とも、パトロール中?」
「あぁ、まあな。それにしても、お前ら……」
「な、何だよ?」

アキラの視線が何か言いたげにじとりと纏わりつき、妙に居心地悪くなってたじろぐ。

「手なんか繋ぎやがって、やっと付き合い始めたのか?」
「えっ」

悪意なく包み隠さず曝け出された指摘に、二人の声が、そして視線が気まずく重なり合って。今更遅いだろうに繋がれた手がどちらからともなく離れ、誤解を解くべく二人して必死の弁解を試みる羽目になる。

「い、いや、これはなんつーか、成り行きでっ!」
「そ、そうよ! 大体、つ、付き合うだなんてそんなことあるわけないじゃない! 勝手にそんなこと言ったらアドラーさんに迷惑がかかるでしょうっ?」
「えっ。いや、それは……」
「お前ら、まだそんな感じなのかよ……」

きっぱり否定するセレーナの凄みに押し負け、そんなこともないんだけど。と続ける勇気もなく途絶えていると、アキラの哀れみの情が虚しく刺さる。アキラには普段からよくセレーナのことを聞き出しているせいか、いつの間にか好意がばれているらしかった。
一方、ウィルはというと優しいからこそセレーナのことを尊重して、結果、また違った方へと誤解して警戒心を露わに詰め寄ってくる。

「成り行きってことは……お前、まさかその気もないのにセレーナを誑かそうとして」
「いやいやいや、そういうことじゃなくて!」
「だ、大丈夫よ、ウィル。アドラーさんは私が人にぶつかりそうになったところを守ってくれただけで、そんな汚れた下心なんかでこうなったわけではないわ」
「よ、汚れた下心……」

彼女は善意で庇ってウィルを宥めてくれたわけだが、さり気ない一言が鋭く良心に突き刺さり、いたたまれずに嘆いてしまった。下心が全くなかったといえば嘘になるのだが、そんなことは一切口にできなくなってしまった。

「セレーナがそう言うのなら、信じるけど……」

おかげで不信感を拭い切ることはできずともお咎めはなくなったのだが、代償に何か大切なものを失った気がする。アキラの同情の眼がなおも注がれている辺り、余計に虚しさを感じている。

「ウィルはいつも私のことを心配してくれるわね。とてもありがたいけれど、私もさすがに少しは自分で問題を対処できるようになったのだし、そこまで気を揉むこともないのよ?」
「セレーナは昔から妙なヤツに狙われやすいから、どうしても心配してしまうんだ」
「それは確かに言えてるな。ちょっと見てない隙によくチンピラどもに声かけられてたもんなぁ、お前」
「そ、それは昔の話でしょう? 今は大丈夫よ、アドラーさんが一緒だもの」
「へっ……?」

やはり二人から見てもセレーナはそういう印象なのか。だとか、まるで気を許した友達のような親しさを持って接している二人がちょっとだけ羨ましい。だなんて思いながら、彼らのやりとりをぼんやりと眺めていると、急に名を呼ばれて我に返った。
すると、彼女も自らの発言を省みてか、慌てて口を手のひらで塞ぎだした。

「あっ……ご、ごめんなさい。私、つい当たり前のように」
「いや、あんたにそうやって頼ってもらえるのは嬉しいよ。俺はあんたのヒーローでもあるしな」
「アドラーさん……」
「ま、確かに。ここらじゃ、どんなヤツもガストの顔見ただけで逃げ出しちまうだろうしな。コイツ、マジですげーんだぜ」
「お、お前な、このタイミングでその話はやめろよ……」
「アドラー、くれぐれも不良のケンカにセレーナを巻き込むなよ」
「わ、わかってる! つか、俺はもうそういうのに首突っ込む気もねぇから!」

せっかくセレーナの心が信頼に傾いたと思ったところでまた水を差され、がくりと肩を落とす。不良時代の話なんて、特にセレーナとウィルの前ではしないようにしているのに。現に、またウィルの不信感を煽ってしまっている。
すっかり参って隣をちらりと見ると、彼女は何やら少々ぎこちなく顔を歪めてアキラたち──ではなく、その向こう側を見ている。

「あの……それはそうと、こんなところでいつまでも喋っていていいの? あそこでメンターリーダーさんたちが、とても怖い顔でこちらを睨みつけているような気がするのだけれど」

そして恐々と指をさした先、そこそこに遠く離れた場所で二人の男たちが明らかにこちらを見ていた。遠目に見ても、その厳格な雰囲気はよく伝わり、さらには特にブラッドの方はかなり険しく顔を顰めているように見える。

「げっ、ブラッド! オスカー!」
「あはは、これは俺も怒られちゃうかなぁ」

アキラはあちらを振り向くなりわかりやすく肩を揺らし、ウィルも控えめに肩を竦めている。

「早く行けよ、お前ら。俺たちのせいで怒られたとか言うなよ?」
「お、おう。二人とも、邪魔して悪かったな! 行くぞ、ウィル!」
「あぁ。それじゃあ、セレーナ……それから、アドラーも」
「おぉ……」

二人は嵐のように慌ただしくブラッドの方たちの下へと駆けだしていった。ウィルの方は、最後に何か言いたげな視線を置き土産として残していってしまったが。

「まったく、ウィルはともかく、アキラは相変わらず落ち着きがないわねぇ」

遠ざかっていく二人の背中を眺め、セレーナは可笑しそうに笑っている。とても和やかに、優しく。

「さてと、私たちもそろそろ行きましょう」
「あぁ、そうだな」

すっかり時間を食ってしまった気がする。結局、繋いだ手は離れたまま有耶無耶に、再び結ぶきっかけすら見つからない。振り出しに戻って、ただ二人並んで歩きだした。

「……なぁ、セレーナ」
「はい、何でしょう?」

先程から渦巻く靄のかかった感情を、胸の内に留めておくことは叶わず。何もわかっていない彼女にそれをぶつけてしまうことに躊躇いを覚えつつ、それでも吐き出さずにはいられなかった。

「あのさ、これは俺のちょっとした我儘なんだけど……」
「はい」
「俺たち、結構仲良くなれてるんじゃねぇかなって思ってるんだけど……アキラたちみたいに、俺のこともそろそろ名前で呼んでほしいなぁって……思ったりして……」
「は……はいっ?」
「いや、ほら、マリオンとか、ノヴァ博士とか、ドクターのことだって名前で呼んでるのに、俺だけまだ呼んでくれないのが気になってさ。それに俺たち同い年なのに、アキラたちと違ってまだ他人行儀に感じるっていうか……」

いっそもっと親しみを持って接してほしいときっぱり言いきってしまえばいいものを、情けなくも歯切れ悪く欲をこぼしていくと、彼女の顔がみるみるうちに困惑に染まった。

「そ……それは……少し、考えさせてください」
「え」

後ろめたそうに返ってきたのは拒否に取れる言葉で、さすがに深く落ち込んでしまいそうになった。が、続く言葉は決まりが悪そうに、やけに上擦っていって。

「その、もっとお近づきになりたいという気持ちはあるのですけれど……なんだか今の感じで慣れてしまって……特にお名前を呼ぼうとすると、とても照れてしまうので……」

ほんのり色づく頬に片手を添え、悩ましげにそうこぼす姿はとても愛らしくて、我ながら単純なもので昂る想いが呆気なく許してしまう。

「ま、まぁ、今すぐじゃなくていいからさ」
「はい……その……努力は、してみます……」
「あぁ。ありがとな」

難しいといいつつ精いっぱい応えようとしてくれる、その姿勢だけで今は満足だ。顔を少し歪めて弱々しく唸る横顔を微笑ましく眺め、小さな幸せを噛み締めた。



結局、ベーグルサンドの店に着く頃にはとうにランチタイムを過ぎてしまったが、おかげで混雑もなくスムーズに席を確保することができた。セレーナには一応何が食べたいか問うてみたものの、案の定「アドラーさんのオススメがいいです」と返ってきたので、一番の好物を二人分オーダーすることになった。
鮮やかな赤色をして引き締まったサーモンの身が数切れ、たっぷりの野菜と共に焼きたてのベーグルに挟まれている。テーブルに並ぶそれは、時間が経つあまり忘れかけていた空腹を容赦なく刺激する。向かい側に座る彼女にそれとなく視線を移すと、何故か圧倒された様子で目を丸くして、それをまじまじと見つめていた。

「これは……なかなかボリュームがあるのですね……」
「ん、そうか? って、セレーナは少食なんだったな」

知っている店の中では比較的ヘルシー志向であるし、女性客も多いので、セレーナでも問題なく食べられるのではないかと判断したつもりだったのだが。想定以上に彼女の胃袋は小さかったらしい。どうりであんなにも軽いわけだ。と、眠る彼女を持ち上げた時のことを思い出して、そのまま口走りそうになるのをとっさに噤む。セクハラになりかねない。

「キツかったら無理して全部食わなくてもいいんだぞ」
「いえ……せっかく奢っていただいたのですから、それはできません。残すのももったいないですし」

遠慮しがちな彼女のことだからと先手を打ってやんわり気遣ってみたが、やはり受け入れてはもらえなかった。律儀なところはセレーナの長所でもあるけれど、自分を追い詰めてまで押し通そうとするのはさすがに看過できず、どうにか言い聞かせようと試みる。

「でも、無茶して後から動けなくなっても困るだろ?」
「うぅっ、それはそうなのですけれど……」
「食べきれなかった分は俺が貰うからさ。それなら文句ないだろ?」
「あ……は、はいっ。それなら安心です」

悩ましげに泳いでいた目が、希望を見出したような光を帯びてこちらへ向けられた。やはり、彼女の瞳には曇り一つない澄んだ輝きが似合う。満足に眺めながら、口元を緩ませる。

「よし、じゃあこれで問題解決。ってことで、早く食べようぜ。実は俺、かなり腹ぺこなんだよな」
「ふふ、すっかり遅くなってしまいましたものね。では、いただきます」
「ん、いただきまーす」

表情を和らげた彼女が包み紙に包まれたベーグルサンドを両手に取るのを見届けてから、自らも目の前のそれを片手で掴んで思いきり齧りついた。ふっくらした焼きたてのベーグルに絡む、レタスや玉ねぎの瑞々しさとサーモンの旨味をじっくり噛み締めて、空きっ腹に放り込む。

「ん〜、やっぱここのベーグルサンドが一番美味いんだよなぁ」

満ちていく至福に浸りつつ、そっと向かい側の様子を窺う。と、控えめながらも熱心にこちらを見つめる視線と重なり合い、思わずどきりとした。

「ど、どうした……?」
「はっ」

何やらベーグルを口元に構えたまま固まっていたようだが、声をかけるとすぐに我に返った。何やら少し狼狽えているように見える。

「い、いえ……その……」
「ん?」
「何でも、ありません」

逃げるように逸らされた眼差しは、どこかいたたまれなさを帯びて細められる。未だその真意を探り損ねているうちに、セレーナはようやく一口目を勢い良く齧りついた。かと思えば唇は上のベーグルを掠め、下のベーグルと具材の端切れを小さく食むに留まった。

「んんっ」

そのせいで細やかに刻まれた野菜たちがトレーの上にぽろぽろとこぼれ落ち、中のソースも垂れて手を伝っていく。やや落ち込み気味にまだほとんど欠けていないそれを置き、いそいそとウエットティッシュで手を拭く様を、眺めていてようやく察した。慣れていないのだと。

「そっか、口が小さいと大変なんだな。こういうの、あんまり食ったことねぇ感じか?」
「うぅ、ごめんなさい。お見苦しいところを晒してしまいました」
「いや、それは大丈夫だけど。むしろなんかこう、一生懸命食べてるのが小動物みたいで可愛いっていうか、応援したくなっちまう、みたいな」
「は、はい……!?」

恥じる彼女への励ましのつもりだったのに、つい余計なことまでこぼして羞恥心をますます刺激してしまった。戸惑い大きく見開く瞳にその真意を問い詰められ、慌ててはぐらかそうとする。

「あぁ、いや、ええっと……ほら、こうやって手で押し潰すようにすれば、ちょっとは食べやすくなると思うぞ」
「な、なるほど……」

実践して見せると、セレーナは腑に落ちたように頷きながら、真似してベーグルサンドを手のひらで圧迫し始めた。すっかり意識はそちらに集中し、今し方の失言のことなど忘れているようだ。
内心助かったと胸を撫でおろしていると、彼女は再びそれを口に運んで一齧りした。変わらず一口はとても小さいが、それでも先程のような惨劇になることはなく。喜びを疼かせつつ一欠片をじっくり噛み締めていき、やがて飲み下した。

「ん……とっても美味しいです。アドラーさんのアドバイスのおかげでさっきよりも上手く食べられるようになりましたし、これなら全部食べられるかもしれません」

よほど嬉しかったらしい。それはもう無邪気に伝えてくる姿に心を擽られ、きゅっと胸の奥が引き締まった。気を緩めてしまえばきっとまた秘めたる本心を漏らしてしまいそうで、喉に力を込めて込み上げてくる感情を飲み込んだ。

「お……おぉ、気に入ってもらえたならよかったよ。でも、くれぐれも無理はするなよ? 食べるのもゆっくりでいいからな」
「え、えぇ……」

気を回す素振りを見せて誤魔化そうとしたが、少し必死すぎたかもしれない。一歩引いた視線を浴びて決まりが悪くなり、気を紛らわせようと片手にしたままのベーグルサンドを大きく齧った。
不意に、セレーナがくすりと小さく笑う。

「アドラーさん、なんだかお兄ちゃんみたいね」
「んんっ!?」
「だ、大丈夫ですかっ?」
「ん……だ、大丈夫、だけど……」

思わぬ指摘に動揺した勢いでベーグルの欠片を飲み込み、軽く噎せてしまった。涙目になりながらコーラで流し込むことで事なきを得たが、それよりも彼女の発言の方が気になって仕方ない。自分のことは異性として意識してほしいのに、お兄ちゃんだなんて言われてしまっては、まるで脈がないみたいではないか。
おろおろと見つめる視線が、どこか不安げにこちらの顔色を窺っている。

「えっと、気を悪くしてしまったならごめんなさい。でも、アドラーさんは面倒見が良くて、いつもよく気を配ってくださるので、お兄さんみたいに感じてしまって……確か、実際に妹さんもいらっしゃるのでしたよね」
「う、うん……そう、なんだけど……」

せっかく好意的な言葉を向けられているのに複雑な心境で受けとめることしかできず、もやもやとした感情を胸に渦巻かせる。

「アドラーさんが家族だったら、きっと毎日が楽しいのでしょうね。少しだけ、妹さんが羨ましいと思ってしまいます」
「家族…………」

なのにそんな気も知らない彼女は、愛おしげな微笑を浮かべて羨望を口にした。家族──都合の良いように受け取れる言葉に触発されて、思わず自らも夢想する。
もしも自分たちが同じ家庭にいられたなら、きっと心穏やかで幸せな日々が過ごせるのだろう。まだ始まりにすら立てていないにも関わらず、色鮮やかに思い描くことができてしまって、我ながら浮かれたものだと反省した。だからといってそれを捨てることもできず、胸に蟠るもどかしさに駆られて一歩踏み込んだ言葉を呟く。

「別に兄妹じゃなくても、家族にはなれると思うけど……」
「えっ?」
「い、いや…………何でもない」

一歩踏み込んだつもりだったが、きょとんとする彼女を目の前にばつが悪くなってまた引っ込んだ。いっそ男として見てほしいと真っすぐに言ってしまえば手っ取り早いのだろうが、今の関係を掻き乱す勇気もなく視線を彷徨わせて沈黙に逃げてしまった。
何やら微妙な空気が漂い始めた気がする。セレーナもこちらの真意を捉えかねて、曖昧な言葉に揺らいでいるようだ。ここは強引にでも話題転換してしまわなければと焦りに急かされ、ベーグルサンドを食べ進めながら思考を働かせる。

「あー、ええっとぉ……あぁそうだ、この後なんだけど、俺の行きつけのダーツバーに付き合ってくれないか?」
「えっ。ダーツ、ですか? 私、全く経験がないのですけれど、大丈夫でしょうか」
「それなら問題ねぇさ、ちゃんと俺が教えてやるからな。きっとセレーナにも楽しんでもらえるはずだ」
「アドラーさんがそう言うのなら、安心ですね」

少しばかり怖気づいていたセレーナだったが、熱を入れて説得を試みるとやがて安堵の笑みを見せてくれた。信頼してくれているのだろうと思うと嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。
それから他愛ない会話を交わしつつ、極限まで腹を空かせていたおかげもあり、あっという間に完食してしまった。すっかり満たされた気分でコーラを飲みながら、セレーナの様子を見守ることにしたのだが。彼女にとっては残り二、三口分ほど。もう一頑張りといったところで、進みが完全に止まっているようだった。

「そろそろキツくなってきたか?」
「あ、あともう少しなのですけれど……」
「ははは、セレーナにしてはだいぶ頑張った方なんじゃねぇか? ほら、無理すんなよ」
「ううぅ……では、お言葉に甘えて」

ほのかに悔しさを滲ませて顔を歪める彼女に手を差し出すと、素直に包み紙の中に入った残りの欠片を受け渡された。これくらいなら一口で済むし、余裕で胃袋に入るだろう。中身を摘んでそのまま口に放り込もうとすると、何かに気づいた彼女が慌てて制止しようと手を伸ばす。

「あ、でも待ってくださっ」
「ん?」
「あっ……」

しかし、制止の意図を掴み損ねた指先は既に欠片を手放した後で、それは味わって間もなく胃の中に収まっていった。彼女の手は諦めたように虚しく墜落し、ちらりとこちらを窺うような視線は何故だかとても後ろめたそうに揺らいでいる。

「な、なんだ……?」
「いえ……私が食べかけたものをそのまま差し上げてしまって、はしたなくなかったかしらと……気になってしまって……」
「えっ……あっ……」

か細く消えゆく懺悔を受けてようやく事態を把握し、無性に気まずさを覚え始めた。確かにこれは、所謂間接キスのようなものになってしまうのではないかと。それまで全く気にしていなかったが、一度意識しだすと異常なまでに心臓が落ち着かなくなる。なんだか顔まで熱くなってきた。これはまずい。

「いや……俺は全然大丈夫っていうか、あんただから気にしてなかったんだけど……」

本当は別の意味で大丈夫ではないけれど、つい見栄を張った。動揺を露骨に見せてしまえば、きっと彼女は深く気にしてしまうだろうから。

「そ、それならよかったです……」

ぎこちなく笑うセレーナは小さく震える手でまだ半分ほど残ったアイスティーのグラスを手に取り、また視線を他へと漂わせながらストローをくわえた。ほんのり頬が赤くなっているのも、きっと気のせいではない。
互いに熱が冷めるまでその場から動くことはできず、ダーツはもうしばしお預けになってしまった。





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