木の扉を開けると、カラン、カランとベルが小気味良く音を立てた。
暗い店内を滲むように灯すオレンジがかった照明が、落ち着いた空間を装う。店の奥の方まで伸びるカウンターを隔てた先には様々なグラスやボトルが並んでいて、マスターらしき男性が一人で切り盛りしている姿が見受けられた。店内はそれほど広くはないが、カウンターの後ろにはボックス席もいくつか並んでいて、一組の若い男性のグループ客が既に賑わいを見せていた。
つい先日にリリーとジェイに連れられたバーとはまた違った印象だ。客層も少しこちらの方が若いのかもしれない。どちらにせよ一人では決して訪れないであろう空間であることは間違いなく、場違いなのではないかと身を竦めてしまう。店に入った瞬間、男性客たちの好奇の視線を浴びた気がしたのは、杞憂であると信じたい。

「お、この時間帯だとまだ空いてるなぁ。これならゆっくり教えてやれそうだな」
「えっ」

店内をゆっくり進んでいると、隣で軽やかに呟いたガストに固まった肩を突然抱き寄せられ、勢い良く彼の方へと傾く体をびくりと震わせた。大きな手の力強さを肩に感じて、胸の奥が忙しなく熱くなる。

「あ、あのっ」
「悪いけど、ちょっとの間だけ我慢してくれ」
「はいっ?」

耳元で囁くように吹き込まれる声は、どこか焦っているようだった。顔を上げると視線は横へ向けられており、おずおずとそれを辿るとボックス席であからさまに目を逸らす男たちの姿が見られた。
また守ってくれたのだと、遅れて理解して。それなら少しだけ甘えてしまおうと、自らも触れ合う温もりに寄り添って距離を埋める。と、今度はガストの体が小さく揺らいだ。

「セレーナっ?」
「えと、この方がより親密感が出ると思ったのですけれど。もしかして、余計、だったでしょうか……?」
「い、いや、そんなことはねぇけど…………」

羞恥心を飲み込んで喉を震わせると、彼もまた静かなる動揺を露わにして声を震わせた。ふと視線が間近で重なり合い、慌てて逸らす。なんだか気まずさに責め立てられて、やはり余計なことをしてしまったかもしれないと反省した。

「えっと……と、とりあえず、まずは一回投げてみるか?」
「は、はい!」

ぎこちなくも促してくれたおかげで、行き詰まった空気から抜け出すことができたけれど。とっさに頷くとようやく二人の体は離れ、ガストはカウンターの中でグラスを拭いているマスターに遠慮なく声をかけに行った。
行きつけと言っていたし、親しい間柄なのだろう。ガストと一緒だからという安心感もあるが、マスター自身もとても優しそうな人で、男性といえどそれほど恐怖心は感じなかった。二人が何やら楽しそうに言葉を交わしているのを後ろでぼんやりと眺めていると、不意にマスターがこちらに柔らかな眼差しを向けて微笑んだので慌てて会釈した。
するとガストが振り返り、にっと唇を大きく緩めて笑った。右手には三本の矢が収められている。

「マスターがあんたの分はサービスしてくれるってさ。よし、じゃあ早速トライしてみようぜ」
「えっ……あっ、はい、ありがとうございます!」

そんな気前の良いことを。恐縮して礼を伝えると、マスターは人の善い笑みを浮かべて応えてくれた。
ガストに力強く手を掴まれ、店の奥へと連れられる。どきりと心臓が騒いだが、きっと先程の延長なのだと自分に言い聞かせて平然を装う。たとえ彼が単にダーツを心待ちにするばかりで、特に深く考えていないように見えたとしても、過剰に意識してはいけない。
奥の壁にはダーツのボードが三つほど並んでいた。今は誰も使っていないようだ。

「初心者はこっちで練習した方がいいかもな」

そう言ってその中の一つを彼は選んだわけだけれど、隣のボードと確かに違うところは見受けられるものの何が何だかわからない。とりあえず大人しく従うに限る。

「こ、ここから投げるのっ……?」

床の線を見て、戸惑いが口を突いて出た。そこそこに離れているように見えるが、こんなところから投げて届くのかと不安になってしまった。
早速怖じ気づいていると、軽快な笑い声が隣で優しく響いた。

「大丈夫、コツさえ覚えたらちゃんと届くようになるから」
「だといいのですけれど……」
「俺を信じてくれ。えっと、まずは……これをこう、ペンを持つ感じで持ってみてくれ」
「は、はい」

矢を一本渡され、言われるがままに持つ。思っていたよりも小さくて、先端はプラスチックになっているらしい。本当にこんなものがあの板に刺さるのだろうかと、まだ半信半疑だった。

「で、立ち方はこんな感じ」
「はい」
「あとはしっかり前を見て、目線の高さに合わせて狙いを定めて……っと」

ボードの前に立つ彼を隣で真似て姿勢を正していると、横で矢が真っすぐに空を切り、ものの見事に円の中心に突き刺さった。純粋に感動して、自分のことのようにはしゃいでしまった。

「すごい! あんな中心に……」
「今日は調子が良いみたいだ。ほら、あんたも投げてみろよ」
「や、やってみます」

上機嫌に笑うガストに立ち位置を譲られ、少しの緊張感を纏いながら構えてみる。まともに標的を絞ってもどうせ当たらないだろうから、せめてボードのどこかに当たれば、という気持ちだったのだけれど。投げた矢は弧を描き、虚しくも円盤に届くことなく床へ墜落した。

「あら……?」
「まぁ、初めのうちはそんなモンだろ。ほら、もう一回」
「つ、次こそは」

快く慰められながら次の一本を渡され、気を取り直して目の前の的に集中する。今のは投げる力が弱かったのかもしれない。今度は力を込めることを意識して投げてみたら、矢は勢い良く狙いを外してやはり下へと落ちていった。これはさすがに心が折れてしまう。

「…………私、向いていないのかもしれません」
「はは、諦めるのはまだ早いって」

励ましの笑みも次第に苦々しさを帯びて、ますます心苦しくなった。落胆してその場に立ち尽くしている隙に、ガストは的に刺さった矢を抜きに行ったついでに床に落ちた矢を拾いあげてくれた。

「投げ方にもちょっとしたコツがあるんだ。えっと……ちょっといいか?」
「えっ?」

矢を纏めて受け取った後、背後へと回り込む彼をおろおろと目で追っていると、一本の矢を持つ手の上に彼の大きな手が重ねられて目線の高さまで導かれる。

「このまま肘を動かさないようにして。これくらいまで手を引き寄せて、投げる時は力を入れずにこうやって優しく投げるんだ。投げた後は腕を真っすぐ伸ばすんだぞ」

もう片方の腕で肘をしっかりと固定され、重ねられた手に誘導されて実際の動きを教え込まれる。そこそこに至近距離で声が聞こえている気がするが、そんなことも大して気にならないくらい互いに集中していた。

「じゃ、今言ったことを意識してもう一回投げてみてくれ」
「は、はいっ」

支えてくれていた手が離れた瞬間にほのかな不安に襲われたが、すぐさま振り払って目の前の的を真剣に見据える。せっかくこうして熱心に指導してくれているのだから、きちんと結果を出さなければ。教えを忠実に守るように意識して、少し臆しながらも投げてみると。

「あっ」
「お。惜しいじゃねぇか、もうちょっとだ」

ようやく矢が的に届いたかと思えば、上手く刺さらずに落ちてしまった。的にすら届かなかったこれまでのことを考えると、大進歩だと思う。ガストの声にも期待が潜んでいる。

「も、もう一回……」

この調子なら上手くいくかもしれない。希望を見出し、逸る気持ちを静めて矢を片手に構える。体の力を抜いて、今度は思いきり投げてみようと試みて、そして──

「わぁっ……!」

円のやや端寄りではあるが矢がしっかり刺さっているのを認めると、嬉しさのあまり僅かに震える声をため息と共に吐き出した。
がしりと力強く肩を掴まれ、大きな喜びが耳元で弾ける。

「おぉ、やったじゃねぇか!」
「はいっ、アドラーさんのおかげで上手くいっ──」

最後の一つ、持っていた矢が力を失った手からこぼれ落ちた。
その距離を失念して、夢中になって振り返ったのがいけなかった。ガストの顔が鼻先に現れた瞬間、息が詰まって苦しさを覚えた。驚きやら恥やら様々な情が混濁し、頭が真っ白になって動けなくなる。

「あっ……」

一方、ガストも不測の事態に目を見開き、笑顔を引きつらせて硬直してしまっている。ほんのり頬が色づいているように見えるのは、気のせいだろうか。
これ以上少しでも近づけば唇が触れてしまいそうな距離に、精神が耐えかねて心臓も足も慄えだし、そして喉も激しく震わせてしまった。

「きゃあぁっ!?」
「おわっ!? ちょっ、セレーナっ!?」

すっかり腰が抜けてその場に崩れ落ちると、ガストは慌てて目の前に膝をついて座り込み、顔色を窺おうと覗き込んでくる。熱に炙られる顔を見られたくなくて、両手で隠した上で必死に背けようとする。

「ご、ごめんっ、ちょっと近づきすぎた!」
「わ、私こそ、不用意に振り向いてしまって、あのっ、とにかくごめんなさい!」
「いや、あんたが謝ることじゃねぇんだけど……つか、ごめん。うっかり何も言わずに腕とか結構触っちまったけど、大丈夫だったか?」
「うっ……」

真摯に言葉にしてなぞられると、鮮やかに意識してしまうからやめてほしい。耳の先まで熱くなってきて、もう逆上せてしまいそうだ。逃げたいけれど、彼の気遣いを無碍にすることもできず、素直な言葉を吐き出す羽目になる。

「だ、大丈夫、です。アドラーさんは真剣に教えてくれていただけですし……それに……」
「それに……?」
「……アドラーさんに触られるのは、嫌ではありませんから」
「へっ…………?」

間の抜けた声が戸惑いに揺れ動いた。なんだか変なことを言ってしまった気がするけれど、これは本心なのだし、訂正するにも遅くて。ただ恥を塗り重ねることしかできない。これではますます顔を合わせられないと思っていたのに。

「そ、それってホントに言ってる……?」
「え……」

真剣に据わった声に引きつけられて、思わず目を見てしまった。優しい緑の眼から一心に注がれる熱い視線に射抜かれ、圧倒されて息を呑む。

「じゃあさ、手も気軽に繋いでいいか? 俺、もっとあんたに近づきたいんだ」

切実に乞うる言葉に固く絆されて、どんなに恥ずかしくても拒めなくなる。でも心臓が壊れてしまいそうだから、どうか視線だけでも逃れさせてほしいと、目の前の胸に弱々しく頭を預けた。
ぴくりと身動ぐ体は、やがて静かに受け入れてくれる。

「もう、好きにしてください……」

追い詰められて自棄を起こした末に、また失言を重ねてしまった気がするけれど、逐一言葉にして確認を取られるよりはまだマシであると信じた。

「そ……それはズルイんじゃねぇか……?」

焦りと狼狽を含んで慄く声が、頭上に落とされる。彼の体が少し強張るのを感じて、こうなればお互い様だと思った。ただ、すっかり収拾がつかなくなってしまったけれど。周りに人がいないのが、唯一の救いだ。

「えっと、なんか教えるのに集中したら喉渇いちまった。いったん休憩して何か飲もうぜ。……冷たいモンでも飲めば、熱も冷めるだろうし」
「そ、そう……ですね……」

やがてぎこちなく切り出される誘いに、縋るように頷いた。力を振り絞ってガストに預けていた頭を起こして、だけどまだしばらくは顔を見る余裕もなく、ただひたすらに俯いた。この後、カウンターでマスターに二人して顔が赤いと指摘され、静かに笑われる羽目になるのは言うまでもない。



バーを出る頃にはすっかり夜の帳が下りていた。街灯や建物の灯りが眩く辺りを照らしてくれているおかげで、夜道でも十分に明るく感じられる。緩やかな夜風に背を押されながら、二人並んで大通りを歩く。車の往来もまだまだ多く、夜はまだまだこれからと言わんばかりに賑やかだ。
朝からたくさん遊んで、今はそれなりに胃袋も満たされて、心地良い疲労感が睡魔を誘き寄せる。隣で何か話しかけられた気がしたけれど、茫然とする意識は言葉を掴みとれず。ぼんやりと浮ついた足取りで歩いていると少しして、返事がないのを怪訝に思ったのか、横から身を屈めて顔を間近で覗き込まれた。

「おーい。ひょっとして、眠いのか?」
「はっ、す、すみません!」

ひらひらと目の前を舞う手のひらと、呼びかける声にもびっくりして瞬時に意識が覚醒した。すると、苦笑う声が軽やかに転がる。

「結構あちこち連れ回しちまったし、疲れたよな。わりィ、もっとペース落とせばよかった」
「い、いえ、そんなことはっ。ただ、朝からずっとはしゃぎすぎて疲れてしまったのは確かですね。もう少しペース配分を考えるべきでした」
「はっ……はしゃいでくれてたのか……?」

悩ましく反省点を挙げていると、きょとんとした声が探るように揺らいだ。ひょっとして、不安にさせていただろうか。今日はこんなにも充実した幸せを与えてもらったのに。感謝を少しでも伝えたくて、頬を柔らかく綻ばせて頷く。

「はい。アドラーさんとお出かけするの、本当に楽しくて。でも、普段からラボに引きこもっていると体力が追いつかなくていけませんねぇ。私も少しは運動するべきかしら」
「じゃあ、明日から俺と一緒にトレーニングするか? なんてな」

せっかくの楽しい時間なのに、途中で息切れしてしまっては台無しだと。こちらは深刻に考えていたのに、ガストがおどけて突飛なことを言うものだからぎょっとしてしまった。

「ヒーローと並んでトレーニングだなんて、あまりにもハードルが高すぎます!」
「そうか? でもほら、軽いランニングくらいならイケるんじゃねぇか?」
「わ、私の体力のなさを甘く見ないでください!」
「それ、そんな堂々と言うことじゃねぇと思うんだけどなぁ……」

人並みの体力を期待されては破滅する。そう危惧して必死に訴えると、哀れみの視線を向けられてしまった。いたたまれなさに小さく呻いていると、彼は隣で思案する素振りを見せる。

「うーん……だったら、早起きして一緒に公園でも散歩するか」
「ど、どうしてアドラーさんも一緒なのですか? アドラーさんにはヒーローとしてのお仕事もありますし、私の運動のためなんかに貴重な休息のお時間を削ってしまう必要なんてないかと」

今日だって一日中付き合ってもらったのに、個人の体力づくりのためにまで束縛してしまうだなんて。さすがに親切を通り越してお人好しすぎるのではないかと腰が引けてしまい、困惑を拭えず懸命に訴えた。

「えっ。ええっと……そりゃあ、アレだよ」

しかし彼は意表を突かれたようにたじろぎ、曖昧な言葉で有耶無耶にはぐらかそうとする。若干、目も泳いでいる気がしなくもない。
数拍、きょとんと目を瞬かせて、小さく首を傾げる。

「アレ……とは……?」
「あんたと少しでも一緒にいたいっていう、単なる俺のワガママなんだけど……」

ほのかな緊張に揺らぐ声は弱々しくも、強烈な衝撃を与えた。思わぬ不意打ちに、すっかり頭が真っ白に塗り替えられてしまった。

「えっと……こういうのは、だめか?」

不安げに瞳の奥を覗き込まれ、怯む。この体中に昂り巡る熱を見透かされてしまいそうで。だけど、涼しい風に当てられても冷めない熱はもう頬にまで到達していて、きっと誤魔化すことはできないのだろうと諦めに至る。

「だ、だめ、じゃない……です」

詰まる喉を掠めて、精いっぱいの答えを吐き出した。すると、みるみるうちに彼の表情が満ちる喜びに蕩けていく様を目の当たりにして、胸の奥が息苦しく締め付けられる。そんな顔をされては、また自惚れた勘違いをしてしまうのに。自分たちは同じ気持ちを抱いているのではないか、なんて。
そんな気も知らずに安心したらしい彼は、もうすっかり無邪気に笑っている。

「言っとくけど、あんたと過ごす時間だって、俺にとっては貴重な休息の時間なんだからな。それに、一人でやるより誰かと一緒にやった方があんたも楽しいだろ?」
「それは……そう、ですね」
「うし、そうと決まれば早速、明日……だとさすがにあんたがキツいかな。明後日にするか?」
「で、では、明後日で」
「わかった。だったら明後日の朝、あんたの部屋に迎えに行くからな」
「タワーの下で集合でよいのではっ?」
「俺が迎えに行きたいんだ。俺が来るまでにちゃんと支度済ませとくんだぞ」
「は……はぁ……」

完全に絆されて何も言い返せずに流された末、あっという間に約束を取り付けられてしまった。本当にいいのだろうかと気後れしていたが、ガストの方が求めてくれるのなら余計な気を遣うのは野暮だろうと思うことにした。一緒にいる時間が増えるのは、こちらとしても嬉しいから。
翻弄されて騒ぐ心臓を落ち着かせようと深く息を吸ったところで、また思わぬ不意打ちに遭う。

「なぁ、手繋いでもいいか?」
「へっ!?」
「あ、あぁ、そういや好きにしていいんだっけ」

激しく動揺して思わず大きな声を発してしまったが、ガストはそれを違う解釈で受け取ってしまったらしい。ぎこちなく触れる手はいやに力が入っていて、拒む気にはなれないどころか和らげてあげたいと思った。少しだけ指先に力を入れて彼の手を繋ぎ留めると、やがて柔らかく力を抜いて握り返してくれた。

「あんたとこうしてると安心するんだよなぁ」
「え……?」
「こうやってしっかり繋いでおけば誰かに邪魔されても離れることはないし、ちゃんとあんたはここにいるんだって確かめていられるだろ?」

温かく紡がれる言葉は、手の温もりをより意識させる。大きくて、強くて、優しい手を。この手に救われて、大事にされてきたのだと思うと、とても愛おしくて。

「私も……アドラーさんと手を繋いでいると、守られている気がして、とても安心します」

だから、不思議と心穏やかに、素直な想いを吐露することができた。どんな顔で聞いてくれていたのかは、繋ぐ手を見つめていたからわからないけれど。きっと彼のことだから、優しい顔で受けとめてくれていたのだと思う。

「えっと……もう一つ、ワガママ言っていいか?」
「な、何でしょう?」

おずおずとそう切り出され、ガストがそんなに甘えてくれるのは珍しいと思いつつ、先程からその我儘に掻き乱されっぱなしの心はつい構えてしまう。顔を見上げると、熱の入った期待に煌めく眼差しを真っすぐに浴びて、気圧されてしまった。

「やっぱり今、名前呼んでほしい」
「えっ……ええぇっ!?」

心穏やかでいられた時間は、ほんの一瞬で過ぎ去った。残念ながら、自分を守ってくれているはずの手に繋がれているので逃げることはできない。

「ついでに、アキラたちと喋ってる時みたいに接してほしいんだけど……恥ずかしくてできないっていうなら、今から慣れるまで練習しようぜ。なっ?」
「れ、練習……」

彼を見つめていた視線が、萎れて落ちていく。ざわざわと胸が落ち着かなくて、繋がれていない方の手を胸元で握る。
確かに、恥ずかしいからと避けてばかりでは、いつまで経っても呼べないままなのだろうとわかってはいた。いずれはアキラたちと同じように名前で呼びたいと思ってはいたし、彼の望みに応えたいとは思っていた。まさか彼がそこまで気にしていただなんて、想定外だったけれど。じわじわと罪悪感が込み上げてきて、恥なんて乗り越えてしまわなければと気を急かされた。

「待たせて、ごめんなさ……いいえ、ごめん、ね。ガ……ガ、ス……ト…………」

これまでの謝罪の意を込め、底知れない羞恥心から来る緊張に引き締まる喉を掻き分けて。今まで呼びたくても呼べなかった名前をどうにか口にした途端、ぎゅうっ、と握る手に固く力を込められた。二人の手のひらをほのかに湿らせるのは、どちらの汗か、もうわからない。

「ガ……スト……?」

再び顔を上げると、彼の顔は真っ赤に染まり、何かに耐えるように唇がきゅっと引き締められていて、ただごとではない様子にぎょっとした。

「ご、ごめん……ちょっと、思ったより破壊力が凄くて……」

目が合った瞬間に口元を手のひらで押さえて顔を背けられ、語られる言葉は明らかに打ち震えている。そこまで大袈裟に反応されるとは思ってなくて、唖然としてしまう。

「そ、そんなに嬉しいのです……いえ、う、嬉しい、の……?」
「あぁ、すげー嬉しい!」

そんなに力強く肯定されると、もっと頑張らなければと思わされる。もっと、喜んでもらいたくて。胸の内が擽られ、思わずはにかんで笑う。
一人では歩けなかった夜道でも、二人なら怖さなど全く感じない。ただただ幸せを踏み締めて、繋がれた手を離さずに帰り道を並んで歩いた。





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