同じものを自分のスマホで検索すればいい話なのに、隣で夢中になって液晶画面を指す姿に釣られ、つい体をセレーナの方へ傾ける。すらりと綺麗に伸びた可愛らしい指先を覗き込むと、テーブルに置かれたスマホの画面には、洒落たティーカップにたっぷりと注がれたミルクティーの写真が大きく表示されていた。数日前、ブルーノースに新しくできたカフェのものらしい。
ぽつぽつと人が出入りする談話室の一角。二人は偶然にも居合わせ、ほんの少しの時間を共にすることになったわけだが、気づけば次の機会に出かける場所を巡って話に花を咲かせていた。

「えっと、それでね、よかったら今度、ガ、ストと一緒に行きたいなって思っ……て……」
「セレーナのためならいくらでも付き合うぜ。そこならパトロール終わってから寄れるかな。オフ狙うより、その方が予定合わせやすいだろ?」
「そうです……あっ。そ、そうね」
「じゃあ行けそうな日ピックアップして、また連絡するよ」
「えぇ、ありがとう」

紡がれる言葉はやけに力が入っていてぎこちない。楽しい話題を口にしているはずなのに、こちらに目をくれる面持ちもほんのりと緊張を帯びていて。頑張って言葉を選んでくれているのだと、嬉しくなって心が和らいだ。

「少しは慣れてきたんじゃねぇか?」
「えっ?」
「言葉遣いはともかく。俺の名前、だいぶ詰まらずに呼べるようになってきたよな」

二人で出かけたあの日をきっかけに、セレーナは名前を積極的に呼んでくれるようになった。最初のうちは混乱して固まったり、何度も吃ったり、挙げ句の果てには精神に限界が来て逃げ出してしまったりと、難航を極めていたが。それから思えば、かなりの進歩が見られるようになった。

「そう、ねぇ。……名前は、頑張ってラボでもたくさん練習したから、その成果かしら」

首を傾けながらやんわりと視線を外され、ぼそりと恥ずかしげに囁かれた言葉を、この耳はしっかりと拾い上げてしまった。思わず脳内で思い浮かべ、知らない間に繰り広げられていた健気な可愛らしさへの衝撃に愕然とした声をあげる。

「えっ……練習!?」
「あっ、えと、今のは違っ……き、聞かなかったことにして〜!」
「ははは。わりィ、それはちょっとムリだ」

己の失言に気づいたセレーナは、みるみるうちに頬に火を灯し、身を乗り出して焦りの走る視線で必死に訴えてくる。彼女には悪いが、それもまた可愛いと思ってしまい、締まりのない顔で笑って受け流すことしかできなかった。

「あぁ、うん、ゴメンね。最近ちょっと仕事が立て込んでてさ、しばらく忙しいんだよねぇ。……うん。今度、また埋め合わせするから。良い子にして待ってて」

背後で、聞き覚えのある甘い声が通り過ぎる。ちらりと控えめに声のする方へ振り返ると、首に派手なピンクのヘッドホンをかけた、彼の佇まいのごとく柔らかそうな黒髪がさらりと流れる後ろ頭を見つけた。

「……アイツ、また『彼女』と電話してるのか」

相変わらずの立ち振る舞いに、ほのかな皮肉を混ぜてこぼしたのだが。何を勘違いしたのか、セレーナが純粋な輝きを瞳に込めて食いついてくる。

「あら、そんなに頻繁に連絡を取り合っているだなんて、とても良好な関係を築いていらっしゃるのねぇ。素敵」
「い、いやぁ、なんていうか、その〜……あんたが想像してるような感じじゃねぇんだよなぁ」
「ううん? どういうことでしょう……?」

それとなく濁して、思い描かれているであろう理想の姿を取り下げようとしたものの、まるで放蕩に塗れた世界など存じないとでもいうように、セレーナは頬に手を添えてやや真剣に思案しだした。いっそそのままでいてほしいという思いもあったが、さすがに危うさを感じて現実で打ち砕かせてもらう。

「だってアイツ、何人もの『彼女』とやりとりしてるんだぜ」
「なっ、何人もの……彼女……?」

理解が追いつかないといわんばかりに復唱する様は、彼女にしてはひどく険しい。

「毎日毎日スマホはよく鳴るし、夜はクラブに遊びに行ったりして、朝まで帰ってこねぇ時もあるって。アイツのルームメイトがすげー文句言ってた」
「そ、そう……そういう世界もあるの、ねぇ……」
「はは、すげー世界だよなぁ。俺だったら一日で精神がもたねぇし、想像しただけでゾッとしちまう」

温室育ちのお嬢様にとっては、とんでもない異文化に違いないだろう。呆然と視線を落としてやや怖気づいた声色で呟く彼女が、この世の全ての男への信用を失っていきそうで。誤解を恐れ、自分は違うという主張を込めてあからさまに同調してやった。無論、想像を絶する世界であるというのは正直な所感ではあるけれど。
すると、ふと拍子抜けした目が首を傾けて向けられる。

「そういえば、ガストは女性と接するのが苦手、なのだったわね。私の前ではそんな素振りを見せないから、未だに信じられないのだけれど」

この流れでそこを指摘されるとは思っておらず、意表を突かれて思わず顔を顰めた。セレーナの前ではもう取り繕うのをやめたので素直に弱々しく肩を落とし、じとっと湿っぽい視線を纏わりつかせて嘆く。

「うぅ、そろそろ信じてくれよ。俺、おかげで女の子と今まで一度も付き合ったことねぇんだから」
「そ、そう言われても……あ。でも、ガストだって、毎日女の子の相手をしているじゃない」
「えぇっ? な、何を根拠に……」

慰めのつもりなのか、優しい微笑を向けながら全く身に覚えのないことを言われて戸惑ってしまった。ファンのことを言っているのか。否、女性との関わりは己の精神のためになるべく避けているので、それはないはずだった。タワーの中でも心当たりはなく。言葉を失っていると、セレーナは自身に人差し指を向けて、少し寂しそうな顔で目を覗き込んできた。

「私は、女の子としてカウントされないの……?」
「……へっ?」

理解に至るまで、数拍。頭が真っ白になった。
そんな、まるで女の子として見てほしいとでも言うみたいに。都合の良い思考は、いとも容易く淡い期待に翻弄される。だけどここで肯定してしまえば、彼女を不特定多数の女の子たちと同類にしてしまうことになる。彼女にそういう意図はなくとも、自分が許せなかった。

「い、いや……あ、あんたはその、特別っていうか。他の女の子とは、違うから」
「えっ……?」

まさか勇気もないままに、こんなことを言わされる羽目になるとは。からからに渇く喉を震わせ、しどろもどろになって答えると、何もわかっていない彼女はきょとんとしつつ小さく反応する。下りていく人差し指は、どこか困惑気味に。
いつだって思いやり深く気遣ってくれる彼女だが、一番察してほしいことは察してくれない。もどかしさに、胸の内が疼く。

「あんたはいつも奇跡みたいに、俺が何しても全然怒ったりせずに喜んでくれるだろ?」
「えっと……私、別に何でも喜んでいるわけではないのだけれど。私が嬉しいのは、ガストがいつだって私の気持ちを汲み取って優しく接してくれるからよ」
「で、でもさ、やっぱ付き合うなら、スマートにリードしてくれる男の方が安心できるモンだろ? 俺、そういうの一度も経験ねぇから、上手くできる自信なくて……」

せっかくセレーナは優しく励まそうとしてくれているのに、日頃から抱えている不安を発露していくうちに、だんだんと惨めな気分になってきた。彼女なら嘲笑ったり蔑んだりしないと信じている。現に今も、真剣にこちらを見つめて聞き入ってくれているのだから。それでも、いつか失望して愛想を尽かされてしまうのではないか、と。

「う〜ん、ガストならそんな心配はいらないと思うのだけれど……それに、私はあまりそういうのに拘りがないし、初めての人の方が安心かも」
「えっ?」
「だって、他を知らないのなら、たとえ手探りでも二人だけの幸せの形を見つけられるでしょう? それって、とっても素敵なことだと思わない?」

心の奥にある弱い部分を柔らかく抱擁するかのような温かさが、目と鼓膜を伝って体に沁み込んだ。あまりにも慈愛に満ちていて、無垢で、綺麗な響きを持つ言葉を紡げるのは、その唇だけだ。
彼女と寄り添い合う未来は、きっと幸せに満ちているのだろう。そんな将来が欲しいと心から願ってしまった。込み上げる熱い衝動が、胸をいっぱいに満たしていく。慄える心臓が息苦しさを与え、いつまでも言葉を吐き出せずに固まっていると、セレーナは我に返った様子で静かに狼狽え始める。

「って、なんだか私がガストとお付き合いするみたいな言い方になってしまったわね。ごめんなさい、勝手なことを」
「そ、それって、俺とならあんたは安心できるし、幸せを見つけられるってことなのかっ?」
「えっ……?」

焚きつけられた期待に突き動かされ、勢いに身を任せてしまった。テーブルに置かれた小さな手の上に自らの手のひらを重ねて、少しだけ指先に力を入れて大切に握る。動揺して見開かれる涼やかな色の両の目に、滾り溢れる熱を注いで。

「お、俺、もし付き合えるなら、あんたが──う、うん……?」

テーブルの上で振動音を伝えるスマホに気を取られ、呆気なく勢いを奪われた。二人して画面に注目すると、ノヴァの名前が表示されている。電話のようだ。

「あ、あら? ノヴァ博士から……何か急用かしら。えっと、少し、出てもいい?」
「あ、あぁ……」

どこか申し訳なさそうに断りを入れる彼女の手を、微妙な気持ちを噛みしめながらそっと解放してやった。電話に出る彼女を横目に、腹の底でいたたまれなさを燻らせる。

「はい。どうかされたのですか? ……えぇ。……はぁ、またジャクリーンが? ……あぁ、そうですよね。わかりました、こちらで探してみます」

困惑気味に流れる受け答えを隣で見聞きしていれば、大方の内容は想像がつく。やがて通話を切った彼女は、小さく息を吐いた。

「またジャクリーンが迷子になった、とか?」
「そうみたい。博士も今は少し立て込んでいるみたいだし、私とジャックで探さないと」
「そっか。俺も手伝ってやりたいところなんだけどな……」

一人と一機だけでこのタワー内を宛もなく探すのは、なかなか骨が折れるだろうに。気に病みつつ、この後はパトロールに出なければならない。ノヴァたちがマリオンに相談しないのも、きっと仕事に専念させるための配慮なのだろう。
心苦しさを滲ませていると、ふわりと向けられる笑みが安心を与えてくれた。

「いつものことなのだし大丈夫よ〜。お気持ちだけありがたく受け取っておくわね。あ、でも、もし見つけたら連絡くれる?」
「おう、わかった」
「ありがとう。それじゃあ、私、行くわね」
「あぁ」
「パトロール、気をつけて行ってらっしゃいね」
「お……おぉ」

今のは少し、家族みたいだった気がする。そわそわと浮かれてしまって、呆けている間に席を立つ姿を黙って見届けることしかできなかった。

「……あ。そういえば、お話の途中だったかしら?」

休憩室を後にしようとしたセレーナが、不意に足を止めてこちらを振り返った。どきりと心臓が跳ねる。

「えっ……あ、あぁ、そ、それはまた今度でいいや」
「そう……?」

何か言いたげに首を傾げる彼女だったが、すぐに前を向いて行ってしまった。
ぎこちなく向けた笑顔が、やがて萎れていく。今はもう、虚勢で奮い立たせただけの崩れ去った勇気を、再び持てる気がしないから。空振りに終わった想いは人知れず高ぶったまま、心臓を強く打ち続けるのだった。





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