『まずは相手をよく知りなさい。そして、相手を信頼できるまで理解し続けなさい。そうすれば、男も女も関係なく恐怖など抱かずに済むさ』

かつて、男の人への恐怖心に囚われて泣いていた日々の中、亡き父がそう助言してくれた。
それまでずっと男の人を見る度に逃げだしていたけれど、その日からは父の思いやり深い導きを信じて少しずつ、一歩が一歩にすら満たないくらいに、本当に少しずつ向き合おうと努力してきた。
今では父の言葉は正しかったと、自信を持って言える。まだ完全に克服はできていなくても、親しい人はいくらかできたから。

「久しぶり、セレーナ」
「よっ、久しぶり! 期待の天才ルーキーが直々に会いに来てやったぜ!」
「あら。ウィル、アキラ、お久しぶり。まずは、そうね……二人とも、入所おめでとう」
「ありがとう。これからは俺たち同じ職場で働く仲間なんだよね、改めてよろしく」
「これからオレがあっという間に【メジャーヒーロー】へ登りつめていってやるからな、しかと見とけよ!」
「ふふ、それは楽しみね」

たとえば、今し方廊下で会ったこの二人。
燃えるような赤髪の彼──アキラは五年前、買い物途中に体調を崩して動けなくなった妊婦の姉を病院まで送り届けてくれた恩人だ。当時の彼は所謂不良と呼ばれる存在だったが、随分と人情溢れる優しい少年だった。
その後、姉が無事に出産を終えて外を出歩けるようになってから街で再会し、甥っ子のことも気にかけてよく遊びに来てくれるようになったらしい。当時実家暮らしだったセレーナが時折姉の家に遊びに行くと、大抵は彼がいた。
初めこそ風紀の乱れた風貌もあって恐怖の対象となっていたが、裏表のない素直な性格を知っている今ではすっかり良き友人だ。
そして、そんな彼がある日連れてきたのが幼馴染のウィルだった。確かその頃には、アキラは不良グループを抜けたと言っていた気がする。元より穏やかで優しい空気を持つ彼にはさほど恐怖を抱くこともなく、甥っ子にもすぐに懐かれていたので比較的早く馴染めた。

「そういや、あの姉ちゃんとチビも元気にしてんのか?」
「ええ、おかげさまで、元気過ぎるくらい」
「俺たち、ちょうどサウスセクターに配属されたんだ。お姉さんや甥っ子くんが安心して暮らせるように俺たちも頑張るよ」
「そうなの? 二人がいるなら、お姉ちゃんたちもきっと安心できると思うわ」
「おう! セレーナも今のうちにサウスに引っ越しておいた方がいいかもな!」
「あら、それは大変。お母さんに相談しておかなくちゃ」
「まったく、また調子に乗っちゃって……セレーナも、乗ってやらなくていいのに」

まだヒーローとしての生活は始まったばかりだというのに、溢れんばかりの自信を強気に誇示する様は、まさにアキラらしいと微笑ましく思う。それを呆れながら窘めるウィルの姿も、なんだか少し懐かしい。
レッドサウスはセクターの成績がずっと最下位だったこともあり、実家のあるブルーノースとは格段に違って治安に不安があったが、今はメンターリーダーの移籍のおかげで市民の期待も高まっている。加えて配属されたルーキーが信頼するアキラたちであるなら、なおさら安泰だ。

「セレーナちゃま、発見ナノ〜!」
「きゃっ!?」

身近に見知った人間がいることへの安堵を噛み締めていると、足元に鉄の塊が突撃してきた。衝撃で後ろによろけてしまったが慌てて踏みとどまると、嬉しそうに足に抱きつくジャクリーンを認めた。

「あれ、アキラ……と、保護者クンも一緒か」

もしかして、また迷子になってたの? なんて声をかけようとした瞬間。ここ数日セレーナを悩ませていた声が不意に飛んできて、どきりと胸の鼓動が一際強く体に響いた。

「お、ガスト!」
「アドラー……」
「うーん、そんなに睨まなくてもいいのになぁ」

快く迎えるアキラとは違い、嫌悪に近い眼差しを向けるウィルに彼は気まずそうに苦笑いを浮かべる。そんなふうに人を蔑むウィルは初めて見た気がして、少し意外な気持ちだった。
仲の良し悪しはともかく、彼らは互いをよく認知して接しているようだ。やや険悪な空気が漂う中、セレーナは恐る恐るウィルの袖を引く。

「あ、あの、二人とも、お知り合い?」
「おう、ガストは不良時代に世話になった先輩みたいなもんだな。すっげぇイイヤツなんだぜ!」
「えっ……不良……?」

アキラは心底彼のことを慕っているのだろう。せっかく無邪気に彼のことを紹介してくれたはいいが、不穏な言葉を聞き流すことはできなかった。鋭い刃が心臓を突き刺すような冷たい衝撃が走って、血の気が引くのを感じた。

「アキラ、まだそんなことを言っているのか? セレーナ、アキラの言葉は信用しない方がいい。アキラはこいつのせいで死にかけたんだ」
「お前こそ、まだそんなこと言ってんのかよ! ガストは悪くないって言ってるだろ!?」

不快がより増した表情で彼を否定するウィルと、彼を庇おうとするアキラの間で諍いが起き始めてしまったが、セレーナにはそれを仲裁する余裕などなかった。
甥っ子と自分を助けてくれた恩人である彼のことは優しくて親切な人だと感じていたのに、二人の話す真実が思い描いていた人物像をいとも容易く揺るがせて、薄れていたはずの恐怖心を煽った。

「し……死にかけたって……」
「あー、ちょ、ちょっと待ってくれ。今、絶対誤解されてるよな。……確かに、俺のせいで危険な目に遭わせたってのは間違っちゃいねぇけど」
「いや、オレが死にかけたのはガストのせいじゃねぇし、ガストに何かされたわけでもねぇから。だから、オレを信用してくれたみたいに、ガストのことも信用してくれ!」
「アキラ……」

彼は彼で後ろめたさを感じているのか、否定する言葉は弱々しかったが、それを力強く後押しするアキラはセレーナの方を固く掴み、真っすぐに目を見つめて訴えた。
かつて不良だったアキラを信じられたのは、姉の恩人だったことと、彼自身の人柄からだった。それは現在の恩人である彼にだって当て嵌まるはず。アキラがそこまで彼に絶対の信頼を抱いているのなら、信じてもいいのではないか。
臆病に震える足に勇気を込めて、一歩を踏み出そうとした瞬間。未だ警戒を解かないウィルがアキラとの間に割って入り、阻まれてしまった。

「駄目だ、セレーナ。アドラーには近づくな」
「ウィル?」

普段は温厚なウィルがここまで敵視するとは、相当憎んでいるらしい。再び睨まれてばつが悪そうに顔を歪める恩人の彼は、どこか腰が引けている様子だった。

「お前、この子の保護者でもあったのかよ?」
「そういうわけじゃないけど。セレーナは昔、不良グループの連中に怖い目に遭わされてから男が苦手になってしまったそうだ」
「えっ……」

はっ、と動揺した緑の目に捉えられ、目が合ったことにびっくりして思わず逸らしてしまった。また気を遣わせてしまうのではと焦って必死に視線を持ち上げようとしても、心と一緒に重く深く沈み込んでいくばかりだ。

「お前があの煩い連中とつるんでる限り、同じ目に遭う可能性は十分にあるだろう……アキラも、セレーナも」
「あいつらは絶対にそんなことしねぇし、俺がさせねぇよ。誓ってもいい。……でも確かに、俺がこの子と関わるのはよした方がいいのかもな」

やっぱり。彼はこちらが怯えていることを察して、不用意に近づいたりはしない。まだ助けてもらったお礼もきちんと伝えられていないのに、このまま縁が切れてしまうだなんて。
一度引っ込んでしまった勇気が再び表に出ることはなく、足は竦んだまま動かない。どうにかして、せめてお礼だけは伝えなくてはいけないのに。己の弱さに悔しさを噛み締めていると、次第に熱い涙が視界を滲ませる。と、足元から白い影が離れたような気がした。

「そんなことないノ〜!」
「おわっ!? ジャクリーン!?」

凄まじい勢いで突進するジャクリーンに、彼の長い脚が崩された。すぐに踏みとどまったものの、ジャクリーンの腕が執拗に鈍い音を立てて脚を攻撃する。

「ガストちゃまは優しいから、セレーナちゃまのお友達に相応しいと思うノ!」
「で、でもさ、ほら、怖がらせちまってるし」
「ジャクリーンの勘は絶対ナノ〜! セレーナちゃまも、ガストちゃまとちゃんとお話したいって言ってたノ〜!」
「いででででっ! わかった、わかったって! それ結構痛いから、叩くのやめてくれ〜!」

ジャクリーンの憤慨する声と、彼の情けない悲鳴が張り詰めた空気を呆気なく弛ませた。うっかりジャクリーンを止めるのも忘れて、拍子抜けしたままぼうっとその様を眺めていると、ウィルが怪訝な顔をしてこちらを一瞥する。

「セレーナ……? 今のは、どういう」
「私ね、つい最近あの人に助けていただいたの。確かに不良って聞くと怖いけれど、でもなんとなく、あの人はアキラと同じで大丈夫な気がする」

過去に脅かしてきた不良グループのような存在とは全く違う、彼の人情を信じたいと思った。かつて不良グループにいたアキラが今は隣で親しくしてくれているように、彼ともきっと。ほのかな期待を抱いて、それまで固く強張っていた頬をふっと緩めた。

「……まったく、セレーナも人が好いんだから」
「さっすがセレーナ。お前、男を見る目あるな!」
「ふふ、そうかしら」
「はあ……」

あくまでも心配した上で厳しく注意してくれる優しいウィルには悪いと思いながらも、あっけらかんとして笑うアキラの言葉はセレーナの勇気を乗せて快く走り抜けてくれた。
今度こそはきっと、伝えられるはず。







沈黙が重々しく、並んで歩く二人の間に溝を作る。気まずさから逃げだしてしまいたい衝動に駆られるが、間で楽しそうに他愛のないお喋りを繰り広げるジャクリーンがそれを許さないだろう。ちなみに、話の内容はほとんどノヴァ博士に関するものばかりだ。
ウィルの冷ややかに突き刺さる視線からようやく逃れたと思えば、気が抜けるにはまだ程遠い状況下に置かれていた。そもそも迷子になったジャクリーンをノヴァ博士のラボへ送り届けるために一緒にいたのだから、ラボによく出入りしているという彼女と会えたのなら自分はもういらないはずだ。なのに、ジャクリーンは頑なに離してくれなかった。
水色の頭をちらりと見下ろしながら、一切こちらを目を向けようともしてくれない彼女にかける言葉を必死に探している。ジャクリーンは彼女が話したがっていると言っていたが、とてもではないがそうは見えない。男性──特に不良へのトラウマがあるというのなら無理もないだろう。だからこそ、彼女とは距離を取るべきだと思ったのに。

「パパの部屋に到着ナノ〜!」

安心しきった声が嬉しそうに弾む。ノヴァ博士のラボの扉を見つけるなり、ジャクリーンは急激にスピードを上げて駆け抜けていった。
ジャクリーンの前ではどうにも話を切りだしにくく感じていたが、今ならば。ガストは不意に立ち止まり、白紙化していく思考をどうにか奮い立たせた。二歩ほど先へ進んだ彼女も異変に気づき、足を止めて首を傾げながら振り返る。

「あー……えーっと……」

何から言えばいいだろうか。もどかしさに頭を軽く掻きむしりながら、優先順位を整理しようとする。
どれだけ拒絶されようが同じタワー内で過ごす仲間として、全く顔を合わせないというわけにはいかない。彼女の安寧のためにも、せめて最低限の誤解は解いておきたかった。たとえ尽くした弁解が無駄に費えたとしても。

「あのさ、俺……その、アキラたちが言ってたようなことからはもう足洗ってるんだ」

慎重に言葉を選びすぎるあまり、自分でも何を言っているのかよくわからない。彼女も意図を汲み取れていないらしく、きょとんと丸くなったアクアマリンにも似た瞳が真っすぐ探るように向けられている。

「だから、なんつーか……安心、してくれ……なんて、そう簡単には無理なのはわかってるんだけどさ。少なくとも、俺はあんたに危害を加える気はねぇって、わかってほしいんだ」

今の自分はそれはそれは格好悪いものだと、我ながら痛感している。精一杯に搾りだした言葉を拙く繋ぎ合わせて、どうにか虚勢を張って取り繕って、それでも彼女の心に響くことはなく視線は落ちていくばかり。
これ以上はもう、彼女のトラウマに踏み入れるべきではないだろう。どのみちこのタワー内でも女性とはなるべく関わらずに過ごしていくつもりだったのだ、自らの平穏をみだりに壊す必要もない。

「ごめん、やっぱ無理言っちまったよな。いいんだ、受け入れられないならそのままで。なるべくあんたには近づかないようにするから、あんたは俺のことなんか何も気にせず過ごしてくれ」

最後は全て言い終わるのを自分でも待ちきれず、逃げるように踵を返してしまった。彼女と向き合う勇気などもう欠片も残っていない。足早にこの場を立ち去って、惨めな自分を忘れるためにトレーニングにでも励もうと思い立った。

「まっ、待ってください!」
「へっ!?」

不意に腕を掴んだ温もりにびっくりして足が止まり、堪らず間の抜けた声を発した。振り返ると、怯えながらもひたむきにこちらを見上げる熱を持った視線に、意識を惹きつけられた。

「あ、あのっ、い、今さらで申し訳ないのですが、先日は助けていただき、ありがとうございました! 私も甥っ子もとても感謝していて、本当はきちんとお礼がしたかったのに、なかなか勇気が出ずじまいで……」
「い、いいってそんなの! この間も言ったけど、あんたが無事って知って俺も安心したんだ。その、いきなりいなくなるもんだから、ヤツの仲間にてっきり連れ去られたのかと思ってさ」
「えっ、そうだったのですか? 私ったら、失礼なことをした上に大変な誤解を与えてしまっていたのですね」
「あー、だからそんなの気にしなくていいから! なっ?」

彼女に受け入れてもらえずあれだけ気分がほの暗く沈んでいたというのに、いざ面と向かって対話をするとなると焦っていやに力が入ってしまう。上擦る声も、逸る舌も、引きつる頬も、白む思考も、どれもこれも男として情けない。
それでも彼女は嘲笑うこともなく、侮蔑することもなく、ほのかな緊張を纏いながら静謐にこちらを見据えている。

「……アドラーさんは、とても優しい人だと思います」
「えっ? そ、そうかな?」
「はい、私を怖がらせないように気遣ってくださっているのは、この間からずっと感じていて……正直なところ、まだ平気ではないのですが、でも、そんなアドラーさんなら、きっと大丈夫だと思います」

決して上辺だけの慰めなどではなく、彼女なりの精一杯の信用を汲み取って。女性への畏縮を伴う緊張とはまた違う、体の内から熱を帯びて込み上げてくる焦燥に似た感情に戸惑いを覚えた。

「ですから、その、私ではお役に立てることは少ないのかもしれませんが……何か困ったことや悩み事があれば、遠慮なくご相談いただけると嬉しいです。お礼……になるかはわかりませんが、私が助けていただいた分、私もアドラーさんのお力添えになりたいので」

一切の下心もない純粋な厚意を無下にはできず、むしろ、彼女となら前に進めるかもしれないと淡い期待を抱いて。からっからの唾を強く飲み込み、今度こそ覚悟を据えて彼女に向き合った。

「……わかった。ちょっと愚痴りたくなったら、あんたのところに行けばいいんだよな」
「あっ、も、もちろん、強要するわけではないのですがっ」
「いや、あんたの厚意はありがたいと思ってるよ。ほら、話をもらうだけでも気分がちょっと軽くなったりすることだってあるだろ? だからさ……よろしくな、セレーナ」

彼女が歩み寄ってくれたから、こちらも歩み寄ろうとして。一瞬の激しい躊躇いを振り切って、ジャクリーンたちが何度も呼んでいたその名を口にした瞬間、彼女の表情が驚きに染まった。そしてそのまま固まってしまうものだから、さすがにいきなり馴れ馴れしくしすぎたかと、今度は冷えた焦りと猛省に襲われた。

「セレーナちゃま、やっとガストちゃまと仲良くなれたノ〜! よかった〜、これでもう寝不足にならなくていいノ〜!」

とうにノヴァ博士のラボに帰っていったものだと思われていたジャクリーンが、無邪気に喜んで駆けつけた。彼女と親しいからなのか、何かとよく間を取り持ってくれていたので当然の反応なのかもしれないが。
今、さり気なく聞き捨てならない言葉が流れていったような気がして、つい敏感に拾い上げてしまった。

「えっ、寝不足?」
「セレーナちゃま、ガストちゃまになかなか話しかけられなくてずっと寝不足だったノ〜。カワイソウだったノ〜」
「ジャ、ジャクリーン、それは内緒って言ったじゃないっ」
「でも、ガストちゃまが知りたそうだったノ〜」

ジャクリーンの暴露に慌てふためきだした彼女は、後ろめたそうにこちらを一瞥する。どうやらよほど知られたくなかったらしい。

「ええっと……そ、そんなに気にしてくれてたのか?」
「ううう、お礼を言い損ねていたのが気になって、あれからずっと眠れず、研究も捗らずでどうしたものかと……」

そう吐露して俯き恥じらう姿に、何とも言いがたいむず痒さが胸を擽った。どことなく顔が熱い気がするのは、きっと気のせいだと言い聞かせて。
でも、そんなふうになるまで自分のことを考えてくれていた健気さは嬉しくて、無性に舞い上がってしまった。だから、失言だって無意識に。

「……あんた、可愛いな」
「えっ……ええっ!?」
「ああっ、いや、何でもない! 今のは独り言だ、忘れてくれ!」

互いが互いに動揺を誘い、また熱が上がった気がする。
二人が何事もなく言葉を交わせるようになるまでまだまだ時間はかかりそうだが、不思議と不安や畏怖はもうなかった。






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