香ばしい甘さが、カボチャ色や闇色に彩られていつもと違う様相を見せる部屋に充満する中。キッチンテーブルには可愛らしくラッピングされた小さな袋が並んでいる傍らで、星だったり、オバケやカボチャだったり、様々な形のクッキーが程良い焼色をつけて大皿の上に積み上げられている。
マリオンの指示の下、ジャックと椅子の上に乗ったジャクリーンが手際良くそれらを小袋に詰めていくのを眺めながら、とある下心がそわそわと腹の底で落ち着きなく主張するのを感じていた。そうしてしばらく葛藤に揺れていたささやかな衝動も、遂には堪えきれず口から溢れ出てしまって。

「あ、あのさ……このクッキー、何枚か貰っていってもいいか?」

ハロウィンを楽しみにしている街の子どもたちに配るものだというのに、さすがに職権濫用だと窘められるだろうか。怒りの鞭で打たれる覚悟を持って、恐る恐る絞り出すような声で問うてみると、意外にもマリオンは涼しい顔で応える。

「……まぁ別に、少しくらいなら構わないけど」
「えっ、マジで? ホントにいいのかっ?」
「何でいちいちそんなに驚くんだ。ボクの言うことは一度で受け取れ、二度は言わない」
「わ、悪りィ。てっきり拒否されるか理由とか聞かれたりすんのかな〜って思ってたから、その……」

下手に出るあまり結局は機嫌を損ねる羽目になったが、すんなりと受け入れられたことを未だに信じられずにどうしても狼狽えてしまう。どう言えばこれ以上怒らせずに済むだろうかと必死に考え巡らせる傍で、マリオンがふっと僅かに鼻を鳴らした。こちらの思惑を軽んじるように。

「言っておくが、オマエの魂胆はわかってる。どうせあの泣き虫女に渡そうとでも思ってるんだろう」
「えっ、な、何でわかったんだ!?」
「オマエの態度がわかりやすいからに決まってるだろ。特にあの女のことになると露骨だからな」
「ジャクリーンにもわかるノ! ガストちゃま、セレーナちゃまへのスキがいっぱい溢れてるノ〜!」
「ええぇ……そんなに……?」

片や鋭く容赦のない、片や無邪気な指摘に慄く。無意識のうちにそこまで漏れていただなんて。恥ずかしいやら情けないやらでいたたまれなくなっている一方、何食わぬ顔でこちらの反応を受け流す彼は、手を止めることなくクッキーを袋詰めしている。

「まぁ、あの女の味覚は悪くないし、味見させるにはちょうどいい人選かもな」
「へっ?」
「オマエ、今すぐあの女に食べさせて感想を聞いてこい。わかったな?」
「え、今すぐ……?」
「味見なんだから当然だろう。返事は?」
「わ、わかった! わかったから鞭はやめてくれ!」

ハロウィンの日に渡すつもりだったのに、今すぐだなんて心の準備ができているわけもなく。しかし取り出される鞭に脅かされ、許しを乞うようにとっさに頷いてしまった。おかげでどうにか鞭打ちは見逃してもらえたが、もう逃げ道はない。たとえここ数日、セレーナと顔を合わせていないどころか、送ったメッセージすら読まれていなかったとしても。もしかしたら、本当に『勘違いされている』と迷惑がられて距離を置かれているかもしれないだなんて、決して彼らには言えなかった。
途方に暮れてため息をこぼしながら、とびきり出来の良いクッキーを何枚か選び、自ら袋に詰めてリボンを結ぶ。思い浮かべるのは、セレーナの柔らかくて優しい笑顔。

『こっちからしたらその気あるんじゃねぇの? ってカンジの態度取ってても、向こうは勘違いで済ませてきたりするじゃん?』

なのに、先日聞いた弟分の言葉が冷たいナイフのように突き刺さり、ガラスのごとく脆い理想が呆気なく砕け散る。これを渡したとて、本当に喜んでもらえるのだろうか。気持ち悪いと拒まれたら、もう立ち直れないだろう。彼女はそんなことを言う人間ではないと知っているはずなのに、疑心暗鬼に陥ってしまう。

「セレーナのことデス、きっと作業に没頭シテ何も口にしていないデショウシ、ちょうど今頃お腹を空かせているカモしれマセン。今朝、洗濯物を回収シタ時はかろうじて返事をしてくれマシタガ、今頃どうなっているヤラ……」
「えっ?」
「この時期の研究部はみんな、死に物狂いで修羅場を迎えているみたいだからな。……ノヴァも、無理してないといいけど」

セレーナを案じるジャックに同調してノヴァへの心配をこぼすマリオンの表情は、どこか複雑な情に揺らいでいるように見える。迂闊にそこを突けば、きっとまた癇癪を起こされてしまうのだろう。見て見ぬふりをするに限る。

「そうだ、パパにもクッキーをお裾分けしようナノ。みんなで作ったって知ったら、きっと喜んでくれるノ〜!」
「あ、あぁ……そうだな」

彼の心情を汲み取っているのか否かは定かではないが、少なくともジャクリーンの幼気な明るさが空気を和らげてくれているのは確かだと、緩やかな表情の綻びを見て感じた。
無論、彼らの話を聞いて心の平穏を取り戻しつつあるのは、自分も同じではあるけれど。

「そっか、セレーナも忙しいんだな……」

健康的な生活を投げ捨ててまで作業に没頭する彼女なら、スマホの通知すら気づかないのも納得だ。単に避けられていたわけではなかったのだと安堵した途端、次に膨れ上がるのは命を削る彼女への心配だった。
せめて少しでも彼女の息抜きになれたなら。そんな健気な想いを眼差しに込めて、手元のクッキーを見つめた。







「今年はひとりで頑張ってみるとは言ったけれど……」

途方に暮れて、腹の底から深いため息を吐きだす。食い込む疲労感は身に痛みすら感じさせて、そろそろ体力の限界かと感じさせる。少しくらいは仮眠をとるべきだろうか。朧げになってきた思考で、そう判断せざるを得ない。
観念して重い腰を椅子から持ち上げ、ふらふらと不安定な足取りで仮眠用のベッドへと向かう。が、数歩動いたところでくらりと目眩に襲われ、すぐに崩れ落ちてしまった。
床が冷たくて気持ち良い。よくそう言って転がるノヴァをこれまで窘めてきたけれど、今ならその気持ちが理解できる気がする。認めてしまっては終わりだと、わかっていても。しかし、固くて痛くて、心地は全く良くない。やはりベッドの柔らかさが恋しくなり、力なく床を這いずる。今の自分は、まるでゾンビのようだ。【ハロウィン・リーグ】に向けて、たくさんのドローンやロボットを製作しなければいけないのに、自分がハロウィンのモンスターになってしまっては意味がない。

「失礼しま──って、セレーナ!?」

扉が開く音と同時に、聞き慣れた驚愕の声が鼓膜を貫いた。無理もない、訪れた部屋の主が死に物狂いで床を這っているのだから。

「だ、大丈夫かっ?」

足音が忙しなく近づいたと思えば、すぐ傍で跪くガストの力強い腕によって仰向けにされると共にその懐へと抱き込まれる。心配を滲ませた必死の形相で見下されているというのに、心地良い温もりと焼き菓子のような甘い匂いにふわりと包まれ、とても幸せな気分になった。
そういえば、ここ数日水しか口にしていなかったっけ。刺激されて思い出される空腹が、既に輪郭を失いつつある理性をさらに蕩けさせて。無性に物欲しさを覚え、傍にある厚い胸板に擦り寄る。

「今日のガスト、なんだか美味しそうな匂いがするわ〜」
「へっ!?」

揺りかごのようにこの体を優しく包んでくれる大きな体が、ぎこちなく震える。少し首を傾けて見上げると、ほんのり色づく顔に焦燥じみた緊張を奔らせつつ、じっとこちらを食い入るように見つめる様が間近に大きく映った。
普段ならそこで恥ずかしくなって目を逸らしてしまうところだが、今は剥き出しになった本能がただただ欲求を満たそうと、熱心に彼を求めて見つめ返す。

「私、お腹空いてるの。食べていい?」
「食べるって……お、俺!?」

切実にねだると、ガストの焦りがますます強まるのが鮮やかに見られた。そこへ、もう一押し。

「だめ?」

すぐ傍で、小さく息を呑む音が鋭く空を切る。

「いやいやいや、普通に考えて色々とアウトだろ! つーか、さてはあんた、また寝てないな? 今日で何日目だ?」
「う〜ん………………忘れちゃった」
「忘れるほど徹夜してたのか!? もういい、俺のことは気にせず今は寝てくれ」
「でも私、このままじゃ飢え死にしちゃう〜」
「えええぇっ、そ、そんな可愛く駄々捏ねられても……ほら、食いモンならここにあるから、なっ?」

すりすりと甘えるようにまた彼の胸に擦り寄ると、また身を震わせながら今にも果てそうな声が必死に訴えかけてくる。不意に視界に入ってきたのは、オレンジ色のリボンが飾られた透明の小袋。中には色々な形のクッキーが入っていて、その可愛らしさが渇いていた心に潤いを与えてくれる。

「あら、素敵なクッキー。これ、どうしたの?」
「ハロウィンで街の子どもたちに配るために、マリオンやジャックたちと一緒に作ったんだ」
「まぁ、みんなの手作りなのね」

なるほど。ガストが纏う甘い匂いの正体に、納得して頷いた。
市民を喜ばせるため、懸命にクッキー作りに励む彼らの姿を思い浮かべると、なんだかとても微笑ましかった。かつては自分も『ヒーロー』たちからお菓子を貰うのを楽しみにする側だったからこそ、ガストがその立場にいることがより感慨深く思える。アキラやウィルも、きっと今頃は張り切っていることだろう。
ガストは緊張を帯びた面持ちで、しかしその中に期待をほのめかす眼差しを一心にこちらへ向ける。

「それで、せっかくだしあんたにも食べてもらいたくて、ちょっとだけ拝借してきた。味見だと思って、食べてくんねぇかな?」

ガストのことだから、特別を謳えばこちらが申し訳なさを感じてしまうと慮ってくれているのだろう。味見役なら、遠慮せず手に取ることができる。そんなさり気ない気遣いが嬉しくて、頬が柔らかく解けた。

「もちろん、ありがたくいただくわ。それなら早速、ティータイムにしなくちゃね。今、紅茶を淹れ……あ、あら……?」

穏やかな休息を迎えるのは何日ぶりだろうか。思えばガストとこうしてゆっくり顔を合わせるのも少し久しぶりで、心躍らせながらしっかり起き上がろうとしたのだけれど。まず、腹筋に力が入らない。ひとまず腕を床に突いて補助しようとするも、すぐに崩れてしまう。
不安じみた焦りに駆られ、きょとんと目を瞬かせて見守る彼におろおろと嘆きを訴える。

「お、起きられないわ……」

すると、腹の底から呆れの色を帯びた深いため息を吐き出され、肩身の狭い思いに駆られた。

「俺が代わりに淹れるから、あんたはそれまでベッドでゆっくり休んでてくれ」
「うぅ……ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに……」
「いや、俺が言いたいのはそこじゃないんだけど……まぁいいや。それじゃ、運ぶぞ」
「ありがとう〜」

小さくこぼされたぼやきの真意はわからなかったけれど、決して嫌な顔をせずに尽してくれるものだから、素直に頼ってしまう。体を軽々と抱き上げられても、ガストの腕だから安心で。次第に、意識は温かな微睡みに呑まれていった。







「毎回毎回、心臓に悪いんだよなぁ……」

ベッドに身を沈めて静かに眠る姿を見下ろし、やや憔悴した嘆きを人知れず吐露する。決して世話をするのが嫌なのではない。むしろ、頼ってもらえたり甘えられるのは嬉しいくらいだ。
しかしこの惨状を見る度に、いつか本当に屍になってしまうのではないかと畏怖さえ覚える。今だって、数日前に見た時よりも少し窶れているようにも見えるし、目の下には薄く隈もできていて、放っておけばこのまま衰弱の一途を辿りかねない。普段はとてつもなく健康に気を遣っているようだが、余裕を失くした途端に平気で命を削る癖は直してほしいものだと常々思う。
気を取り直して、ティータイムの準備を進めることにする。このままゆっくり寝かせてやりたい気持ちもあるが、さすがにこの惨状を放置して戻るのは危険だ。セレーナが空腹を満たす様をこの目で見届けるまでは、気が気ではない。それに、何の収穫もなく戻ればマリオンの怒りを買うこと必至。自分だけがそれをくらうならまだしも、彼女にまで飛び火しかねないものだから、尚更戻れやしない。

「えぇっと、確かこの辺に……お、あった」

ここに来る度にセレーナがいつも丁重にもてなしてくれるから、どこに何が置いてあるかは大体把握している。彼女がどのようにして扱っていたかも、そしてどんな顔をしていたかも鮮明に思い出せる。それをなぞるように、支度をしていく。

「……勘違い、なのかぁ?」

小型のケトルに入った沸きたての熱湯を軽くティーポットとふたつのカップに注ぎ、立ち昇る湯気を浴びながら胸にかかる靄を独り言にしてもどかしく吐く。
セレーナがいつも見せてくれる至極柔らかくて慈愛に満ちた笑顔も、温かに寄り添ってくれる優しい言葉も、向けられる度に幸せがとめどなく溢れて、好きという気持ちがどこまでも強まっていく。こちらの何気なく漏れた言葉に白い頬を赤らめたり、心を乱して慌てふためいたり、熱を持った視線を向けて一生懸命に応えてくれたりする様を目の当たりにすれば、彼女も同じ気持ちなのではないかと淡く期待していた。
もしそうでなかったら、と考えただけで胸が苦しくなるが、そもそも彼女は誰彼構わず思わせぶりなことをするような子ではないと知っているし、意図があって避けられていたわけでもないとわかった。しかし、それでも彼女が自分に気があるかもしれないというのは主観でしかなく、確かな自信を持つことは叶わなくて。悶々とした想いをため息にして気休め程度に発散することしかできない。
せっかくだからセレーナの手でリボンを解いてもらおうと、ラッピングされたままのクッキーをテーブルの上に置き、傍に小さな透明の皿をひとつ用意する。そして棚に並ぶ紅茶缶から適当に茶葉を拝借し、最後に淹れた茶を蒸らす段階まで準備を進めたところでもう一度セレーナの様子を見に行く。

「う〜ん、死んだように眠ってるな……」

困惑気味にベッドを見下ろす。無防備を晒す眠り姫は、まるで亡骸のようだ。寝息なんてまともに耳を澄まさなければ聞こえない。
これだけ深い眠りに陥っていれば、きっと少し騒いだ程度では起きやしないだろう。たとえ、少しくらい触れたって──邪な考えが過ぎった瞬間、すぐさま己を戒める。独りよがりの欲を身勝手に満たしたところで想いが通じるわけでもないし、そんなふうに彼女を汚したいわけでもないのだから。

「おーい、そろそろ起きろ〜」

セレーナの華奢な肩を控えめに揺り動かし、呼びかける。しかし、案の定応答しないどころか身じろぎ一つない。焦りが生まれて、もう一度少しだけ強めに体を揺らす。

「あんまり無防備に寝てると、血に飢えたヴァンパイアに喰われちまうぞ〜……なんてな」

戯けて脅してみたが、実際のところ自分にはそんな勇気はない。ふたりの距離を少しでも縮めることすら恐れ多く感じてしまうというのに、その白く薄い柔肌に牙を立てるだなんてあまりにも刺激が強すぎる。まったく、こんな自分がどうしてヴァンパイアなのか。文句を言えばマリオンの機嫌を損ねるに違いないので、こうして自嘲を内に留めておくしかできないのだが。
やがて、セレーナが微かな呻き声を吐息に包んで漏らした。なんだか妙に色気を感じてどぎまぎしてしまったが、微睡みの中で薄く開いた眼に視線を捉えられ、ばつが悪くなってすぐさま理性を手繰り寄せた。

「お、おぉ、おはよう……って、全然朝じゃねぇけどな」
「う……ガスト……?」
「えっと、ティータイムの準備はできたんだけど……起きられるか?」

幸いにもこちらの言葉を認識してくれてはいるようだが、まだ意識が覚醒していないのは明らかに見てとれる。少しの間を経ておもむろに伸ばそうとした腕は、すぐに墜落してしまうところを見るに、自力で起きるのは難しそうだ。また起きられなくて悲しそうな声を漏らす彼女に、苦笑いをこぼしながら腕を伸ばす。

「大丈夫だ。今、運んでやるからな」
「ん……」

もうすっかり手慣れたもので、再びその軽い体を抱え上げ、テーブルの傍に備えつけてあるソファーまで運ぼうとする。と、一瞬、じっと見つめられたかと思えば、不意にか細い腕を首に絡ませて擦り寄ってきた。

「セ、セレーナっ!?」
「んん〜……あったかくて、しあわせ……」
「えっ……」

心臓がもがれる思いで、びくりと背筋を伸ばす。蕩ける声が鼓膜へ、ほの甘い体温が服越しに心地良く肌へと浸透していくのを感じて、体の芯から熱くなっていく。
先程もそうだったが、今日のセレーナはやたらと積極的に甘えてくる。そんなふうに彼女の方から限りなく零へと距離を埋められては、決定的に捉えてしまう。勘違いなどではなく、自分と同じ焦がれるような心を寄せてくれているのではないかと。そして、これはその意思表示なのではないかと。

「現実でも、こんなふうにくっつけたらいいのに……」
「うんっ?」

期待した傍から思いがけない言葉を耳にして、妙に水を差された気分になった。

「……まさか、夢だと思ってんのか?」
「ん……?」
「えぇっと、これはその、現実であってだな……」
「げん……じ……つ……?」

あれだけ昂っていた熱は急激に冷えて気まずさへと変わり、恍惚としていた彼女の声も次第に覚めて動揺を帯びていく。再び合った視線は、極まる混乱に慄えていて。

「きゃーーーーーーーーーー!?」
「おわっ、ちょ、危ねぇって!」

間もなくして、辺りの空気を強く揺さぶるほどの絶叫と共に彼女は暴れだす。勢い余って腕からこぼれ落ちそうになるのを慌てて力強く掬い上げて抱き留めると、今にも泣きそうなくらいに焦燥と羞恥に追い詰められた顔で謝罪を訴えられた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 私ったら、なんてことを……!」
「あぁいや、そんなに謝らなくても」
「だ、だって、い、嫌じゃなかった……? しばらくお風呂にも入れていないし、その、断りもせずにべたべたくっついちゃって」

あくまでも自分の恥よりもこちらの心配をしてくれる辺り、いじらしい彼女らしくて不謹慎にも愛おしさすら感じてしまう。だからこそはぐらかすわけにはいかなくて、素直な気持ちを口走った。

「いや……むしろ、幸せだったけど……」
「はい……!?」

戸惑いの波を立てて見開かれる海色の瞳へ、内に迸る熱を一心に注ぎ込むと、やがて耐えかねた彼女が真っ赤な顔を俯かせて悩ましげに呟く。

「そ、そんなこと言われたら……勘違い、しちゃう……」

『勘違い』という言葉に敏感になってしまっている今、彼女の発露する葛藤すら解き明かさないと、どうしても気が済まなくて。あれほど近づくのを躊躇っていたのに、舞い上がる想いは我を忘れて勢いに身を任せ、下へ落ちる視線を捕らえようと顔を近づける。

「……勘違いって、どんなふうに?」
「えっ。そ、それは……」

狼狽える彼女は一瞬だけこちらを見上げると、逃げるように再び顔を背ける。困らせたくなかったはずなのに、今だけは譲れなくて、追い込まれて弱々しく震える唇から紡がれる答えを待つ。
しかし、応えたのは切なく悲鳴をあげる腹の方で。間抜けた空気がふたりの意識を冷静に引き戻した。

「…………おなか、すいてたんだった」
「ははは、しばらく何も食ってねぇんだったな。ジャックたちも心配してたぞ」
「そう……」
「ひとまずは腹ごしらえだ、な?」

今はすっかり労る気持ちの方が勝って、和やかに笑いかける。喉元で綺麗な水の色をした頭が小さく頷くのを確認し、ようやく彼女の体をソファーに下ろした。
自身も隣に腰かけ、すっかりポットで蒸らされたであろう紅茶をふたつのカップに注いでいく。香りの良い湯気が部屋を舞い、彼女の表情が安らぎに綻んでいくのを横目で見守る。

「色々と勝手に拝借しちまったけど、大丈夫だったか?」
「もちろんよ、ありがとう〜。むしろごめんなさいね、全部任せちゃって」
「いいっていいって。そうだ、せっかくだしハロウィンの予行練習に付き合ってくれよ」
「予行練習?」
「ほら、ハロウィンの日には街の子どもたちに菓子を配るワケだし……お決まりのヤツがあるだろ?」

こちらの意図を掴みかねて首を傾げていた彼女だったが、ヒントを与えるとすぐに合点がいった様子で頷いた。そして、軽快な声で。

「トリック・オア・トリート〜」

彼女が唱えると、なんだか可愛らしい魔法使いの呪文のように聞こえる。そんなことを考えながら、一袋のクッキーを差し出した。

「ほら、目当てのクッキーだ。悪戯はさせてやらねぇからな?」

今はヴァンパイアの格好ではないものの、それとなく意識して振る舞ってみると、セレーナはくすくすと軽やかな笑い声を鳴らしながら受け取ってくれた。

「ガストはこういうの、得意そうよねぇ」
「そ、そうかなぁ?」
「そういえば、『ヒーロー』はみんなハロウィンの日に仮装をするのでしょう? ガストは何の仮装をするの?」

無邪気な視線に問われ、うっと言葉に詰まる。試着を重ねてようやく馴染んできた頃だが、このタイミングで彼女に否定されては後に引きずりそうだ。

「えっと、実はヴァンパイアなんだけど……マリオンとジャクリーンがいつの間にか準備してくれてたみたいでさ、拒否権なくて」
「あら、そうなの? ガストなら、とっても格好良くて素敵なヴァンパイアになりそうねぇ」
「えっ。そ、そうか……?」
「えぇ、絶対にそうよ〜。今からハロウィンがすごく楽しみになってきちゃった」

とてつもなく気後れしていたのに、彼女の眼差しが思いの外熱烈な期待に煌めくものだから、途端に満更でもなくなってしまう。そうなれば、今度はもっと好感を求めだして、下心が落ち着きなく騒ぎ始める。

「あ、あのさ、衣装、実はもうほとんど出来上がってるんだけど、よかったら次の試着の時にでも見てくんねぇかな。【ハロウィン・リーグ】もあるし、マリオンのヤツもだいぶ張り切ってやがるし、それなりに立ち振る舞いとか研究した方がいいのかな〜って思って」

態度が露骨だったのかもしれない。セレーナは眉間にやや皺を寄せ、深刻な面持ちで考え込み始めた。難しく渋る声を漏らしながら。

「あ、あの〜……セレーナ……?」

まさか、ここで拒否されるのか。楽しみだと言ってくれたその口で。強烈な不安に襲われて恐る恐る呼びかけると、至極申し訳なさそうに顔色を窺われた。

「ごめんなさい。私、【ハロウィン・リーグ】に向けて全て終わらせるまでは、スマホの電源を切るって決めているの」
「は……?」
「だって、ガストからメッセージが来ていたらつい返したくなっちゃうし、お話が楽しくて作業に集中できなくなっちゃうかもしれないじゃない?」
「う、うん……?」
「それから、今日はたまたま一休みしようと思ったタイミングにガストが来てくれたから、こうしてゆっくりできているけれど……次に来てくれた時、状況によっては追い返さなくちゃいけなくなるかもしれないわ」
「え、えぇっとぉ……」
「だから、その、迂闊に約束ができなくて……」

悲壮感すら漂う苦悩が勢い良く流れていくのに圧倒されながらも、ようやく彼女の言わんとしていることを理解した。メッセージをいくら送っても、一向に既読すら付かなかった理由も。彼女の真面目さに感心すると同時に、自分とのやりとりが楽しくて仕方がないと思われていたことが素直に嬉しくて、あっという間に不安がささやかな幸せに塗り替えられてしまった。

「いいよ。追い返される覚悟で押しかけに来るから」
「えっ」

後ろめたく泳ぎかけていた視線が、弾かれるようにはっきりとこちらへ向けられる。

「俺だって、頑張ってるあんたの邪魔はしたくない。よっぽどヤバそうだったら追い返してくれていいし、少しでも息抜きしたいなって思ったなら付き合うからさ。それでいいだろ?」

少々強引だったかもしれないが、彼女の葛藤に逃げ道を作ってやりたかったから。何でもないことのように、軽々とした調子で提案を口にした。すっかり押された様子で、彼女は悩ましげに黙り込む。

「そういうワケだ、まずは目の前の息抜きを楽しもうぜ。ほら、せっかく淹れた紅茶が冷めちまう」

今は遠慮だとか不安だとか余計なことを考えず、安寧だけを求めてほしくて優しく促す。それでも彼女の手がティーカップやクッキーに伸ばされることはなく、どこか浮かない顔で思案をやめない。

「……ガストも初めてのイベント戦でしょうし、大変でしょう? 普段のトレーニングに加えて【ハロウィン・リーグ】に向けてのトレーニングもしてるって、ジャックが教えてくれたわ」
「あぁ、それは……正直すげぇキツいけど、でも何とかやれてる。まぁ、ノースのセクターランキングが下がっちまったのは俺たちのせいでもあるってのは事実だと思ってるし、最近はマリオンも熱心に俺たちを指導してくれてるから、頑張って応えて挽回しねぇとな」
「そう……ガストがそれだけ頑張ってるなら、私ももっと頑張らなくちゃね」

正直に吐露した心持ちが、彼女の力になったのか枷になったのかはわからない。穏やかな微笑を静かに湛える横顔は、ただティーカップに張られた琥珀色の水面を見つめている。

「う〜ん、あんまり無理はしないでほしいとこだけど……でも、そうだな。一緒に頑張ろうぜ」

だけど、たとえ分野は違っても同じひとつのことに向かって手を携えることに、不思議と安心していて。そっと励ますと彼女は嬉しそうに頷いてくれたから、きっと同じ気持ちでいてくれているのだろうと思った。






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