【ハロウィン・リーグ】に向けてのロボット製作は、遂に佳境に入る。
実のところ、初めての一人での作業に対して気負いすぎていたのかもしれない。先日、ガストがもたらしてくれた心安らぐ休息の一時のおかげなのか、単にそれまで睡眠不足で集中力が削がれていたのか。ともかく、比べものにならないくらい順調に進捗していた。
適度に人に頼ることを覚えたというのもある。早く一人前になりたくて、誰の手も借りることなく成し遂げなければならないと思い込むあまり、そして誰よりも多忙を極めているノヴァの迷惑になるまいと、自身の首を絞めることになってしまっていたけれど、いざ思いきってノヴァに泣きついてみれば──

「えぇっ!? 困ってるなら全然、気軽に相談してくれてよかったのに〜!」

驚愕して嘆くノヴァの勢いに圧倒されて、拍子抜けした。助けを求めなかったことで、難なく製作が進んでいるものだと思われていたらしい。むしろ何故言ってくれなかったのかと、暗に窘められた気分だった。

「その、少しでもお役に立てるようになりたくて、今年こそは独り立ちをしようと思っていたのですけれど……」
「確かに一人で取り組むことも大事だけど、まだ経験も浅いのに最初から完璧を求めるなんて無謀だと思うし、そんな部下をサポートして育てていくのが上司の役目なんだからさ。逆に頼ってくれないと、おれ、悲しくなっちゃうよ〜」

いつになく真剣みを帯びた声色で諭されてしまったが、その根底には彼の持つ優しさと愛情深さを感じられて、疲弊した心身にひどく沁み渡ったものだ。どこか風変わりでだらしなさもあるけれど、良い上司に恵まれたと心から思う。
以来、どうしようもなく行き詰った時はノヴァに相談するようになり、必要時に的確なアドバイスを得ることで円滑に作業が進みだしたのだった。おかげで少し余裕ができ、ほんの仮眠程度ではあるものの睡眠時間を確保することが叶うようになった。これはかなりの進歩だ。
そして現在、まだ細かい調整は必要ではあるものの形になったところで、一度ノヴァに見てもらいにラボを訪れている。

「うんうん、いい感じだね〜。この調子なら問題なく間に合うと思うよ」
「ほ、本当ですか?」

固く組んだ手の中に緊張を握りしめて立ち尽くしていたが、床に座り込んで持ち込んだロボットをじっくり点検するノヴァの口から好感触の反応が聞けて、ほっと胸を撫で下ろした。

「セレーナちゃんって要領がいいっていうか、吸収力高いよね。あんなに苦戦してたのに、ちょっとアドバイスしただけでもうこんなに仕上げてくるなんて。やっぱりアルベルトさん譲りなのかなぁ〜」
「父、ですか……?」
「うん。あ、もちろん一番はセレーナちゃんの努力あってのことだと思うけどね」

恐れ多い評価に肩を竦めて畏縮していると、不意に出された父の名前にどきりとした。
機嫌良く向けられる笑みは、どことなく父の面影を懐かしんでいるようにも見える。まるで目指していた父の背中に近づけているみたいで、ほのかに胸が期待に躍る。尊敬する師からその言葉を聞けたことが、何よりも嬉しくて誇らしい。

「それにしても、セレーナちゃんがこうしてロボット製作にも携わりたいなんて言い出したの、入所して一年目の【クリスマス・リーグ】の時だっけ。正直ちょっと意外でびっくりしちゃったんだよねぇ」
「え?」
「だって、元々専門分野じゃなかったでしょ? ヴィクもマリオンに言われてちょっと渋々って感じだったし、普段の研究だけでも大変なのに新しい分野にまで手を出すなんて、大変じゃなかった?」
「それは……研究部の一員として、できることを増やしたくて」

感慨深く語るノヴァに指摘されて、当時のことを振り返る。
入所して初めて迎えた【ハロウィン・リーグ】。その時はただひたすら自身の研究に打ち込んでいて、【LOM】に自分が直接携わるだなんて考えもしなかった。けれど、サブスタンスの研究に加えてイベント戦を控える研究部は普段以上に手一杯で、ノヴァがラボで行き倒れてジャックたちに介抱される姿も頻繁に見かけて、自分ももっと貢献しなければと思った。しかし、元々メカトロニクスに関しては齧る程度の知識しかなくて、研究の合間に水面下で独学ではあるが猛勉強を進めた。幸いにも、当時はラボの外に出ることもなく引きこもり生活を続けていた為、今よりも勉強に割く時間は充実していたものだ。
そして、その次の【クリスマス・リーグ】に向けた準備期間。ノヴァに申し出たのだ、助手として手伝わせてほしいと。

「……セレーナちゃんの気持ちはありがたいけど、あまり無理はしないでね? セレーナちゃんが倒れたら、おれ、お父さんに顔向けできなくなっちゃう」
「いいえ、無理なんてしていません。むしろ、子どもの頃から見ていた【LOM】に参加できて、私も『ヒーロー』の皆さんの力になれるんだって思うと、なんだか楽しくなってしまって」

こちらの心身を案じてくれているのだと、不安げに揺らぐ眼差しから感じられる。だからこそ、素直な言葉で彼を安心させたかった。胸に宿る温かな高揚感を確かめるように、そっと手を当てながら。

「そっか。やっぱりセレーナちゃんは、ウチの部の期待の星だね。お父さんもきっと喜んでるよ」
「き……期待の、星……」

するとノヴァは至極柔らかな笑みを見せ、嬉しそうに声を弾ませた。その多大なる期待には恐れ多くて擽ったくなってしまうけれど、ありがたく噛み締めて励まされることにする。

「失礼します──おや、セレーナも一緒でしたか」
「あ、ヴィク〜!」

そこへ来訪したのは、どこかいつもより覇気のないヴィクターだった。眼鏡の下の目元には薄っすらと隈ができていて、頬も少し前に見た時よりも痩せこけている気がする。無論、それはこの場に居合わせている人間皆そうなのだけれど。
ヴィクターは座ったままへらへらと笑って迎えるノヴァの手元にあるロボットを目に留めると、次に傍に立つセレーナを一瞥して。

「どうやらそちらは順調そうですね。安心しました」
「えっ?」
「ヴィクも、セレーナちゃんが一人で依頼を請け負うって知って心配してたんだよ」
「そう、だったのですか……?」
「えぇ。本来、貴方もこういった分野は専門外だったと記憶していましたので」

まさかそんなところにまで話が及んでいたとは思わず、恐縮してしまう。ヴィクターがそのように気にかけてくれていたのも意外だった。彼ほどの秀才ですらこうして身を削っているくらいだ、やはり無謀だと思われていたのだろうか。

「それに真面目な貴方のことですから、一人で受けると宣言した手前、行き詰まっても誰にも相談できずに自分の首を絞めてしまうのではないかと危惧していたのですよ」
「よ、読まれてる……」
「昔のよしみですからね。貴方の性分はそれなりに理解しているつもりですよ」

嫌味もなければ批難の意図もなく、ただ淡々と事実を述べるだけの口ぶりで指摘され、ますますいたたまれなくなった。ただ、彼なりに心配してくれていることはわかる。他人に関心がなさそうに見えて、案外よく見ているものだ。あくまでも人の感情を理解するための観察だと、かつて彼は言っていた。

「ところでノヴァ、貴方自身の進捗はどうなんですか?」
「あぁ、ヴィクが手伝ってくれたおかげで、どうにか間に合いそうだよ。ほんっと〜にありがとうねぇ〜」

そういえば、ノヴァも過酷すぎる修羅場に直面していたのだと思い出す。何でも手当り次第に依頼を受けていたら、手に負えない数になっていたのだとか。こちらが手詰まりで泣きついたあの日には、幸いにもいくらか余裕が生まれていたようだけれど。
ノヴァの並々ならぬ感謝を注ぐ姿を見るに、ヴィクターには相当助けられた様子。そしてその惨状を目の当たりにしたであろうヴィクターは、心底呆れた顔で目を伏せている。

「まったく、これに懲りて次からは自分のキャパを考えて依頼を受けてください。と言ったところで無駄でしょうけど」
「いやいや、おれだってさすがに学習するよぉ〜!」
「そうだといいのですがね」

心外だと言わんばかりに憤慨して返すノヴァだったが、もはや相手にされていない。こうした気心の知れている間柄のやりとりを見るのは微笑ましいもので、この光景は昔から変わらないものだと懐かしむ。

「ひょっとして、おれのこと心配して見にきてくれた感じ?」
「まぁ、そんなところです。ちょうどこちらも貴方の意見が欲しかったところなので、ついでに。先約がいるとは思いませんでしたが」
「おれはついでなのぉ〜!?」

ついで呼ばわりされて不服そうに喚くノヴァの傍ら、もしかしたらヴィクターの目的の妨げになってしまったのではと焦り始める。ひとまずは一度撤退するべきかもしれない。おずおずと彼の顔色を窺う。

「あの……私、出直しましょうか?」
「あぁいえ、お構いなく。特に約束していたわけでもありませんので」
「それならそのついでついでに、ヴィクもセレーナちゃんにアドバイスしてあげてよ〜」
「私がですか? 私も専門家ではないのですが……」

拗ねて尖らせた口から出された提案に、ヴィクターはやや面食らった顔を見せた。普段は何事にも動じず考えていることが目に見えない彼だが、ノヴァの突拍子もない言動にはよく振り回されている印象だ。

「ヴィクならおれとはまた違った視点で気づくことがあるだろうし、セレーナちゃんの為にも、ね?」

不意にノヴァの視線が向けられて、どきりとした。にこにこと笑いながら、どこか助け舟を出してくれているようにも見えて。せっかくだからと、そこへ便乗させてもらうことにした。意見は豊富であるほど参考になる。

「えっと、ヴィクター博士さえよろしければ、ぜひともお願いしたいです」
「はぁ……まぁ、私でよければ構いませんよ」

困惑を拭いきれない様子ではあるものの、決して邪険にするどころか満更でもなさそうに受け入れてくれた。そういえば、昔、旧研究所でサブスタンスのことについて教えてほしいと願った時も、似たような反応を示していた気がする。

「さすがヴィク〜。よかったね、セレーナちゃん」
「はい。ありがとうございます」

何だかんだ言いつつも助けになってくれるヴィクターにも、調子良く自分の事のように喜んでくれるノヴァにも心から感謝の念を向けた。この二人がサポートしてくれるのなら、何よりも心強い。
【ハロウィン・リーグ】まであと少し。そういえば、ガストがラボに押しかけに来ると言っていたけれど、一度も存在を感じられなかった辺り、尽くタイミングの悪さを察する。彼も今頃は頑張って準備に取り組んでいるのだろうと思いを馳せつつ、そろそろ一緒に過ごす時間を恋しく感じていた。







「追い返される覚悟とは言ったけどさぁ……」

人の気配すら感じられない部屋の前で、思わず深いため息がこぼれる。
パトロールやトレーニングの合間を縫って、こうして度々セレーナの部屋に押しかけているのだが、全てが空振りに終わっていた。追い返されるどころか、無人なのである。
あまりにも心配になってジャックに問うてみたところ──

『最近はノヴァのラボでよく見かけマス。【ハロウィン・リーグ】に向けて、色々とアドバイスを受けているそうデスヨ』

要するに、ものの見事にタイミングを逃しているということらしかった。いっそノヴァのラボに出向くことも思いついたが、仕事の邪魔になってはいけないと思い直した。

「ま、ノヴァ博士が一緒なら大丈夫か」

少なくとも、一人で野垂れ死ぬようなことにはならないだろう。二人で行き倒れている可能性はなきにしもあらずだが、ジャックたちがいるので大事には至らないはずだ。
欲を言えば、【ハロウィン・リーグ】本番までに間近で仮装を見てほしかったのだけれど。自分たち『ヒーロー』のために身を削って準備に励む彼女たちを案じつつ、なかなか一緒に過ごせないことにほんの少しの寂しさを抱いて、その場を後にした。







遂に迎えたハロウィン当日。研究部は早朝からロボットやドローンをスタジアムへ搬入し、バックヤードでそれぞれ最終点検に追われている。
依頼元のチームとは前日に最終の打ち合わせを終えているし、自身の製作したロボットたちも問題なく作動している。最後に微調整を済ませて一段落着いた頃、地面にどっしりと座り込み、まだまだ桁違いの作業に追われるノヴァの姿を見かけて声をかけた。

「ノヴァ博士、もしよろしければ何かお手伝いをしましょうか?」

作業の手を止めると、彼は嬉しそうに微笑んで見上げてくる。

「ありがとう〜、でもおれの方は大丈夫だよ。あ、そうだ。時間ができたなら、息抜きに街の様子でも見に行ってきたらどう?」
「えっ、よろしいのですか……?」
「だって、セレーナちゃん全然タワーの外に出てないでしょ? せっかくだし、ハロウィン気分を味わってくるといいよ。今頃、ガストくんたちも街のみんなのために頑張ってるだろうしね」

純粋な計らいだと思ってありがたく聞いていたのに、あからさまにガストの名前を出されて、わかりやすく心臓が反応した。動揺はきっと表情にも出ていたのだろう。悪戯めかせて向けられる笑みはやはり子どもじみていて、憎たらしさすら覚える。
こうして掌で踊らされるのは悔しいけれど、それも彼の厚意の内であることは理解しているから。文句をぐっと堪え、素直に頷いた。

「では、お言葉に甘えて」

すると、ノヴァは意味深に笑みを深める。なんだかとてつもなく嫌な予感がして、唇を引き締める。

「いやぁ〜、実はこんなこともあろうかと、ジャクリーンがセレーナちゃんの仮装用の衣装も用意してあるみたいなんだよねぇ〜」
「はいっ?」

へらへらと浮かれた声でとんでもないことを言われ、口元が引きつってしまった。『ヒーロー』でもないのに、しかも一人で街へ出るのに仮装だなんて、そんな度胸はないというのに。

「ほら、せっかくハロウィンの日に街に出るんだから、仮装しなきゃもったいないでしょ〜? それにジャクリーン、セレーナちゃんに着てもらうの楽しみにしてたんだよ」
「そ、そんな……」
「そんなワケで、今からジャクリーンを呼ぶね」
「うぐぐぐ……」

ジャクリーンの無邪気な厚意と期待を引き合いに出すのは卑怯だ。拒否すればきっと、ジャクリーンは悲しんでしまうだろう。お祭りの日だというのに、そんな事態は避けたい。結果、ノヴァがジャクリーンに連絡を入れるのを、もどかしさに歯噛みしながら見ているしかなかった。


結局、駆けつけたジャクリーンが持ち込んだ真っ黒な魔女のドレスを纏って、街へ繰り出す羽目になった。コウモリ型のポシェットには、念の為にとジャクリーンから託されたキャンディーが詰め込まれている。用意周到だ。
それにしても、久々の外の空気。少し見ない間に、ブルーノースシティの街並みはすっかり様変わりしていた。街中を不気味で愉快に彩るオレンジと紫の装飾や、様々な顔をしたジャック・オー・ランタン。蜘蛛の巣をイメージした白い糸の飾りや、コウモリを模した飾りも潜んでいる。
行き交う人々の様相もいつもと違う。中には仮装を楽しむ若者たちがはしゃいでいたり、恐らくは『ヒーロー』から貰ったであろう菓子を手にした子どもたちが嬉しそうに駆け回っていたり、特別賑やかに感じられた。かつては自分もあんなふうに『ヒーロー』からお菓子を貰って喜んでいたっけ。と、幼少期を懐かしんでいるところへ、不意に子どもたちが『トリック・オア・トリート』を唱えてきて、早速ポシェットのキャンディーが役に立った。どうやら思っていたより自分は馴染んでいたらしい。
これなら歩いているだけでお祭り気分に浮かれられて、確かにノヴァの言うとおり、良い息抜きになりそうだ。どうせならレッドサウスの街の様子も見てみたかったが、残念ながらそこまでの時間はない。

「あら?」

カフェテラスの近くまで遊歩していると、一際賑やかになってきた。どうやらマリオンが子どもたちに菓子を配っているらしい。ゴシックを思わせる衣装は、中性的で綺麗な顔つきをした彼によく似合っている。確かあれは猛獣使いだったか、少し前にジャクリーンが自慢げに話しているのを聞いた。タワーの中での厳しい顔つきとは打って変わって、とても穏やかで柔らかい表情で菓子をねだる子どもたちと接していた。とても微笑ましい光景だ。

「そこの魔女のお姉さ〜ん、俺たちもトリック・オア・トリートしていい?」
「へっ!?」

そこへ水を差すように背後から馴れ馴れしく声をかけられ、びくりと肩を震わせて振り返った。見るからに軟派な若い男たちが、数人。仮装はしていない。
特に苦手な部類の男たちが無遠慮に近づいてくる、それだけで心身共に怯み上がってしまう。それでも無視するわけにはいかなくて、どうにか思考を働かせてポシェットの中を漁る。

「あ……え……ええっと、キャンディーで、よろしければ……」
「いやいや、俺たちお菓子とか興味ねぇから」
「はいっ?」

品のない笑い声を惜しげもなくあげる男たちの言い分に、理解が追いつかず困惑した。お菓子が必要ないのなら、どうしていちいち絡んでくるのか。一刻も早く解放されたくてキャンディーを渡そうとしたのに、手段を潰されて泣きたくなった。それどころか執拗に囲まれ、男の手が腕を這うように触れてきて、ぞわりと不快な悪寒が駆け抜ける。

「俺たちが欲しいのは、お姉さんの方──ひぃっ!?」

地面を鋭く叩きつけるような音が、すぐ傍で男の言葉を遮った。男たちは悲鳴をあげるなり退いて、青ざめた顔で何かが飛んできた方を見る。
その視線を辿ると、子どもたちの輪の中で鞭を構えるマリオンの姿があった。男たちを、冷ややかに侮蔑した眼差しで睨みつけている。

「いいか、よく見ておけ。調教師っていうのはこうやって行儀の悪い獣を躾けるんだ」
「わぁ〜、すごーい!」
「マリオンかっこいいー!」

毅然とした態度で振る舞うマリオンを囲む子どもたちは、きらきらとした期待と憧れの視線を向けてはしゃいでいる。

「チッ、何なんだよお前!」
「そんな女みてぇな顔でエラそうにしやがって。俺たちの邪魔してタダで済むと思ってねぇよなぁ?」
「いや待て。マリオンって、あのマリオンだろ……?」

男たちは露骨に機嫌を損ねて声を荒げ始めたが、その内の一人はマリオンの存在をよく知っているようで、焦りに凍りついている。それを決定づけるように、靭やかな軌道を描く鞭が苛烈に男たちの足下を叩きつけた。

「街の治安を乱すヤツはこのボクが許さない。善良な市民に害を為す下等種は、徹底的に躾けてやらないとな」
「いっけー!」
「マリオンやっちゃえー!」

子どもたちの可愛らしくもパワフルな歓声が一斉に湧き上がる。それを背に受けて男たちと対峙するマリオン、その光景はヒーローショーさながらで。男たちの居場所は、もうここにはない。

「ひいぃっ! やべぇ、逃げようぜ!」
「あぁ!」

結果、マリオンの威圧と子どもたちの無邪気な圧力に負けた男たちは、恐怖に顔を歪めながら撤退していった。『ヒーロー』が『悪者』を退治する姿を目の前で見られたとあって、子どもたちは大はしゃぎで喜んでいる。
ようやく解放された。安心すると一気に疲れがのしかかり、気怠さを感じた。脚がまだ震えて動けそうにない。そうして立ち尽くしていると、ふん、と男たちの背中を眺めながら嘲るように鼻を鳴らしていたマリオンが、やがて歩み寄る。

「相変わらず妙な連中に絡まれるな、オマエ」

その表情からは険しさが消え、代わりに呆れと哀れみの色が浮かんでいる。事実なので嘆かわしく受け止めることしかできない。

「助けてくださって、ありがとうございます」
「別に。あの下劣な連中が見るに耐えなかっただけだ。というかオマエ、その目立つ格好で一人で出てきたのか?」
「そ、それは……息抜きに少し街の様子を見るだけのつもりだったのですけれど、ジャクリーンがどうしても着てほしいと言うので……」
「あぁ、そういえばオマエの衣装も用意するんだって張り切っていたな」

ひどく怪訝な視線で全身をじろりと見られたが、ジャクリーンの名を出すとマリオンの表情は微妙に揺らいだ。家族であるジャクリーンを甘やかしがちな彼に、ジャクリーンの熱い要望を否定できるわけがなかった。ほんのり同情の色が見えたのは、つまりそういうことだ。

「ねぇねぇ、魔女のお姉ちゃんもお菓子持ってるの?」

声のする方を振り向くと、女の子が瞳に期待を疼かせてこちらを見上げていた。とても可愛らしくて、微笑ましくて、それまで強張っていた顔がようやく和らいだ。

「えぇ、キャンディーならあるわよ」
「ほんと〜!? じゃあ、トリック・オア・トリート!」
「あっ、ずるい、わたしも! トリック・オア・トリート〜!」
「ぼくもー!」
「あらあら、そんなに足りるかしら〜」

今度は自分が子どもたちに集られることになってしまった。もちろん無下にする気はないけれど、ここへ来るまでの道中でもいくつか子どもたちに配っていたから、残り数が心配になった。
とりあえず、早い者順にキャンディーを渡していくことにした。花開くように喜ぶ顔を見せる子どもたち。見ていてこちらも嬉しくなる一方、張りのあったポシェットが萎んでいくにつれて不安が過ぎる。せっかくのお祭りなのに、がっかりさせるわけにはいかない。そうして笑顔を振りまきながら内心はらはらしているうちに、どうにか全ての子どもたちにキャンディーを配り終えた。ポシェットの中はもうすっからかんだ。

「お姉ちゃん、ありがとー!」
「どういたしまして〜」

おかげで子どもたちは満足して去っていった。腕いっぱい手を振る彼らにひらひらと手を振り返して見送っていると、終始見守っていたマリオンが不意に口を開いた。

「そういえば、ガストを見なかったか。市民に少しでも多くお菓子を配るよう送り出したんだが、ふらっとどこかへ消えたまま帰ってこなくなった」
「あら、そうだったのですか? ここに来るまでは特に見かけませんでしたけれど」

どうりで辺りには他の『ヒーロー』がいないと思った。かつてはそれぞれが思い思いに個人行動をしているとガストが言っていたけれど、今は効率を考えて分散しているのだろうか。チームの細やかな変化をしみじみ感じていると、じっと軽く睨まれてしまった。

「……ちょうどいい。オマエ、暇なら連れ戻して来てくれないか」
「私がっ?」

思わぬ頼み事に拍子抜けする。連絡を取り合えば済む話だと思っていたのだけれど。首を傾げていると、彼はどこか決まりが悪そうにほんのり顔を歪める。

「ボクは目の前の市民を相手するのに忙しいんだ。今は少しでもセクターポイントを稼がないと」
「といっても、私もそれほど時間があるわけでは……」
「ウルサイ。だったら今すぐ探しに行け!」
「ええぇっ」

そして何故か強引に急かされ、最終的には有無を言わさず送り出される羽目になった。彼の考えていることは相変わらずよくわからない。
そういえば、ガストと顔を合わせるのは少し久しぶりである気がする。無事に会えたらの話ではあるが。と、スマホを忘れて出てきてしまっていたことに気づき、途方に暮れながら思いを馳せて再び街を歩き始めた。







「せっかくのハロウィンなんだから、みんなで楽しく騒ぎましょうよ〜」

色欲を匂わせてねだる甘い声、熱を帯びて捕らえようとする媚びた視線。そして積極的にじりじりと迫るふたりの若い女性の影。本来なら男として羨まれる状況なのかもしれないが、本能に刻まれた女性への苦手意識をどうしても拭えない自分にとっては背筋の凍る状況でしかなかった。
ハロウィンに乗じて彼女たちが要求してきたのはプライベートな情報ばかりで、想定外の事態にすっかり思考が混乱に陥っていた。連絡先だとか、付き合っている人だとか──真っ白な頭の中についセレーナの姿を浮かべたが、それはただの浅はかな願望に過ぎない。挙句の果てには、得体の知れないハロウィンパーティーに誘われてしまった。当然ながらそんな誘いに乗っている場合ではないのだが、自分には彼女たちの機嫌を損ねずに上手く躱す術を持たず、ただ情けなくたじろぐだけだった。
偶然にも近くを通りがかったレンにこれ幸いと助けを求めたものの、届かなかったのか或いは見捨てられたのか、彼は振り向くことなく過ぎ去ってしまった。
そうして絶望に打ち拉がれ、彼女たちの猛烈なアピールに圧倒されて立ち尽くしていたところだった。

「あの〜……ガスト、よね……?」

不意に背後に優しく触れたのは、控えめに揺らぐ馴染みの良い声。焦がれる思いが過剰に食いついて、勢い良く縋るように振り返った。

「セ、セレーナ! って、その格好……」

思わぬ姿に目を丸める。漆黒の魔女を彷彿とさせる、品格のある丈の長いドレスと頭からベールのように覆う薄いレースのローブ。まさかセレーナがこんなところで、それも本格的な仮装姿で現れるとは思っていなかった。
儚げな印象はそのままに、普段の純白の清らかさを持つ雰囲気とがらりと変わった彼女に魅入られていると、傍らで不服をほのめかせた声が割って入る。

「あのぉ〜、お知り合いの方ですか〜?」
「やだ、もしかして彼女持ち?」

はっと我に返り、『彼女』という言葉に下心が露骨に反応して落ち着かなくなる。
ふたりの関係を見定めようとする彼女たちと、頬を淡く染めながらおろおろと眉を下げるセレーナ。焦りに駆られて目を右往左往させているうちに、いっそ彼女たちの誤解を逆手に取ってしまおうと閃いた。

「そ、そうそう! そんなワケで、えっと、お、俺、この子とその、デ、デートの約束があるので……しっ、失礼しまーす!」
「えっ、ちょっと待っ……ええええぇっ!?」

舌をしどろもどろに縺れさせながらも一瞬の躊躇いを押し切り、とにかく今はこの場から逃げ出さなければという一心で、黒いマントを翻して硬直していた足を思いきり前へ踏み出した。突然の事態にぎょっとして肩を竦めるセレーナの手をとっさに引き、呆気なく傾く体を拾って軽々と抱え上げて。
たとえ耳元で混乱に陥った悲鳴があがろうが、そしてふたりの体が密に接触していようが、省みる余裕は微塵もない。振り落とされないよう固くしがみついてくる柔くてほの甘い温もりも、残念ながら今は味わってはいられない。批難なら後でしっかり浴びてやると半ば自棄になって、浮かれたハロウィンの街中を無我夢中で駆け抜けた。
しばらくして角を一つ曲がって人気のない路地に入ったところで、ちらりと後ろを振り返る。彼女たちが追ってくる気配は感じられない。さすがに諦めてくれたかと安堵して、足を徐々に緩めて立ち止まる。途端に緊張から解放され、大きくため息がこぼれ落ちた。

「あ、あの〜……」
「えっ……あ……あぁ、わ、悪りィ!」

遠慮がちにかかる声にようやく状況を自覚させられて、慌ててセレーナを下ろしてやった。直前になって、何か肩に特別柔らかいものが触れていた気がしたが、気のせいだと思うことにした。そうでなければ、彼女に対して罪の意識を抱く羽目になる予感がしたから。

「顔色が悪いようだけれど、大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫〜……って言いたいところだけど。実は街を歩いてたらあの女の子たちにいきなり声かけられて、パニックで頭真っ白になっちまってさぁ。あのままあんたが声かけてくれなかったら、正直ヤバかった」
「あれって、そういう状況だったの?」

未だ困惑気味に、身を案じて顔を覗き込もうとする穏やかな眼差し。そこに秘められた慈悲深い海の青さを目にしただけで無性に心が安らいで、これ以上は心配させまいと気丈に振る舞おうとしたのに、込み上げてくるのは力の抜けた苦笑いと弱音ばかりだった。
それでもセレーナは嘲笑ったりすることなく、真摯に気にかけてくれている。好きな女の子にはできるだけ頼りがいのある姿を見せていたいものだけれど、彼女の前では自然と取り繕うことなく情けない面まで曝け出してしまう。

「いやぁ〜、マジで助かった……。でも、なんであんたがこんなところにいるんだ? しかもそれって……魔女の仮装、だよな……?」

改めて爪先から頭頂部までじっくりと眺めながら口にした疑問は、先程声をかけられた時から水面下で抱いていたものだった。
研究部は朝から【ハロウィン・リーグ】に向けたロボットたちの最終点検に追われているはず。現にヴィクターは街で姿を見せていないし、研究部の長を身内に持つマリオンもそう言っていた。セレーナも製作に携わっているなら、きっと最後まで顔を合わせる暇はないのだろうと諦めていたのに。それも、まさか本格的な仮装に身を包んで現れるとは誰も予想できるわけがない。
指摘されるとセレーナはぎくりと肩を強張らせ、落ち着きなく目を泳がせる。

「そ、それは〜……作業が一段落着いたから、ノヴァ博士のご厚意で街の様子を見に来たのだけれど……ジャクリーンが用意してるっていうから断れなくて、仕方なく……」
「はは、なるほどな」

セレーナの性格上、自ら進んでそこそこに目立つ仮装姿で、それも一人で街へ出てくるとは思えなかったが、ジャクリーンの仕業だとわかるとすんなり腑に落ちた。今にも消え入りそうな声で言い訳がましく語る姿が、何よりもの証拠。

「『ヒーロー』でもないのに、柄にもなく一人で浮かれているみたいで、やっぱり恥ずかしいわね」
「そうか? 似合ってるし、綺麗だと思うけど」
「えぇっ? き、きれいって、そんなっ……」

微かな緊張をぐっと堪えて素直な感想を真っすぐに伝えると、緩やかに泳いでいた目は大きく取り乱してこちらを捉え、白い頬はみるみるうちに熱を灯していった。
こうして彼女が自分の言葉一つに翻弄される様を見ていると、やはり期待して舞い上がってしまう。この反応は自分だけに見せてくれる特別なものなのではないかと。熱い情が体の奥から湧き出て、そわそわと胸を擽る。

「おっかしいなぁ。イケメンヴァンパイア、確かこっちの方に行ったと思ったのに〜」

そこへ不意に容赦なく冷水を浴びせたのが、どこからともなく響いてきた先程の女性の焦れったそうな声だった。それから間もなく、近づいてくる複数の駆け足の音。

「やべっ!」

まさかここまで追ってきていたとは。途端にひやりとした焦りが腹の底を走り抜け、すぐさま身を隠せる場所を探した。ふと目に入ったのは、建ち並ぶビルの入り口に構える柱の陰。

「よし、こっちだ!」
「きゃっ!?」

即座にセレーナの手を掴んで引き、死角を求めてそこへ飛び込んだ。できるだけその場に収まろうと、柱を背に体を翻した勢いでその全身をマントの中に閉じ込めて。
内にこもる優しい体温が先程よりも深く肌に伝わる。普段とは違い首元や手首まで締めつけるように隙なく体を覆うこの衣装でさえ、抗う術を持たない。それくらいに、ふたりの体は密に触れ合っていた。
見つかってはいけない緊迫感からか、それとも彼女への苛烈な意識に反応しているのか。心臓の叫びが、ちょうど懐に頭を預けている彼女の耳に直に届いているのではないかと思うと、気が気ではない。
そうしているうちに、追手の声がすぐ近くにまで迫る。

「もう諦めなよ〜。あれどう見たって彼女サンだって。しかもすっごく綺麗な子だったし」
「でもああいう清楚で真面目そうな子って、あのお兄さんとじゃタイプ違くない? なんか重そうっていうか、冗談とか通じなくてつまらなさそうだし。わたしたちと遊んでる方が絶対楽しいって〜!」
「あははっ、確かに〜! あ〜あ、あんなイケメン独り占めするとかズルいよねぇ」

マントの中で、微かに身じろぐのを感じた。あの無神経に語られる悪意を孕んだ勝手な憶測は、きっとセレーナの耳にも届いているはず。
彼女がそれをどう受け止めているかは定かではない。恋人と見られて意識してくれているのか、或いは勘違いを迷惑だと煩っているのか、それとも。もしも、心ない言葉に少しでも胸を痛めているのなら──無意識のうちに彼女を固く抱きしめる腕が、弱々しさすら思わせるその華奢な体に食い込んでいく。

「俺はセレーナじゃなきゃ嫌だけどな」

直接反論できないもどかしさから当てつけのように、やり場のない憤りが唇から溢れた。それが彼女の耳に確かに届いたかはわからない。ただ、マントの中に動きはなかった。
半ばお喋りに夢中になって疎かになった注意は自分たちの気配を察知するどころか、通りにひっそりと現れた角にすら気づかなかったようだ。騒がしい二つの声は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

「さすがにもう行った、よな……?」

念入りに恐る恐る陰から顔を覗かせる。やっとのことで訪れた静寂が再び侵されることはなさそうだとわかると、どっと重い疲労感が体に食い込み、また一つ覇気のないため息を深く吐き出した。
そして、はっとマントの中の存在に意識を向ける。苦言を浴びせられる覚悟でそっと拘束を緩めてやると、はらりと落ちる闇色の布の中から現れた彼女は、耳まで真っ赤に茹で上がった顔を晒した。控えめにこちらの顔を窺う瞳は、熱を揺らめかせて潤んでいるように見える。
単に息苦しかったのかもしれない。だけど、たとえ浮かれた男の浅はかな勘違いだったとしても、それだけではない気がして。
甘えを制する余裕を取り戻すほどの気力はもう残っていない。いけないとわかっていても、顎のすぐ下にある綺麗な水の色をした頭に頬を寄せて、今もしおらしく腕の中に収まる小さな体に寄りかかって支えにしてしまう。と、縋りつく腕の下で肩が狼狽に揺れる。

「ガ、ガストっ?」
「ごめん……嫌だったら後でぶん殴ってくれていいから。落ち着くまで、もうちょっとだけこのままでいさせてくれ」

配慮を装う文句を口にしながらも、どうか拒まないでくれと切に願う。我ながら矛盾しているが、これが臆病な自分が今振り絞れるなけなしの勇気だった。
それに応えてくれるかのように細い腕が優しく背に回され、熱い衝撃が体を駆け抜けて一際強く心臓が慄えた。彼女は何も言わない。胸に埋められた顔がどんな表情をしているかもわからない。これで勘違いするなと言われても無理な話だ。

「……俺、あんたが傍にいてくれると本当に落ち着くんだよな」

だから、素直な想いをこぼしてしまった。彼女の反応が見えないのをいい事に。

「さっきも、どうしようもなくなった時にあんたが来てくれて、あんたの顔見た瞬間にすげー安心してさ。やっぱり他の女の子とは違うんだなって思ったよ」

遠回しにでも、彼女が特別な存在だと伝えたかった。たとえ自分たちのことを何も知らない他人が、身勝手なイメージを持って否定しようとも。
彼女の肩が微かに震える。そこにどういった感情の揺れが乗っているのか察することはできないが、少なくともこの温かで宝物のように大切な想いが伝わっているのだと信じたかった。
更なる言葉を紡ごうと口を開いた瞬間──インカムが受信の音を知らせる。

『おい。ガスト、聞こえるか』
「マ、マリオンっ?」

不機嫌に呼びかけられる声に、見られているわけでもないのに妙に窘められている気分になって、慌ててセレーナの肩を掴んで引き剥がしてしまった。そこで初めて露わになった彼女の表情に、どきりとして胸が不穏にざわめいた。
何故だか繋ぎ留めておかなければと強い不安に駆られ、もう一度手を伸ばそうとしたところで、マリオンの責め立てる声に意識が削がれる。

『オマエ、今どこにいるんだ? まさかサボってたりしないよな?』
「えぇっ? い、いやぁ、そりゃあもう、おかげで子どもたちの人気者になっちまってさ〜」
『フン。ならいい』

口からでまかせもいいところだが、さすがに現状をそのまま正直に報告するわけにはいかない。そんなことをすればとんだ恥晒しである上に、容赦なく鞭に打たれてしまうに決まっている。
薄っぺらい笑い声をわざとらしくあげていると、マリオンは思いの外すんなりと見逃してくれた。助かった、と内心胸を撫で下ろす。

『ところでセレーナはいるか?』
「えっ、セレーナ……? い、いるけど、なんでマリオンがそんなこと知ってるんだ?」
『オマエが一向に戻ってこないから、あの女に迎えに行かせてやったんだ。まさかスマホをタワーに忘れているとは思わなかったけど』
「うぅっ……」

実はどこかで見ているのではないかと疑ってしまったが、皮肉をたっぷり盛られて語られる経緯を聞いて納得した。彼女が現れたのは、全くの偶然ではなかったということだ。とはいえ、スマホを持たない状態であったのならいっそ奇跡と呼んでもいいかもしれない。隣でばつが悪そうに目を逸らす彼女を横目で捉えながら、苦笑いを浮かべる。

「まぁ、無事に合流できたならそれでいい。ところでオマエたち、時間はわかっているんだろうな?」
「えっ……? ──もっ、もうこんな時間っ?」

マリオンに促されるように腕時計を確認し、焦りに目を見張るセレーナ。そしてその横から盤面を目にしてしまい、想定していた時刻よりも大幅に過ぎていたことに血の気が引いていく。

「げっ……」
「五分以内に戻ってこい。少しでも遅刻してきたら鞭で打つ」
「ご、五分!? そんな無茶な……って、もう切れてる」

強引なまでに一方的な宣告だけ突きつけられると、必死の返事も虚しく通信が絶えてしまった。こうなれば何を言い訳しても無駄だ、文句を言う時間すら惜しい。
単身なら能力を駆使すればどうにか間に合うかもしれないが、今はセレーナもいる。恐らくは外出を許してくれたノヴァへの罪悪感に駆られているであろう彼女を、じっと眺めながら思案する。

「う〜ん、やっぱ抱えた方が早いよな」
「へっ?」

ぼそりと小さく呟くと、それを拾い上げたセレーナの顔がぎょっと強張る。また彼女を振り回してしまうことに申し訳なく思いつつ、しかしこれも彼女の為だと開き直って。

「悪りィ、もう一度だけ我慢してくれ!」
「ええぇっ!?」

心を鬼にして驚愕に染まる彼女の悲鳴を受け流し、彼女を抱え上げると、強い追い風に身を任せて再び街を駆け抜けたのだった。
この時には既に、彼女が一瞬だけ見せた今にも泣きだしそうな表情に心を激しく揺さぶられたことなど、すっかり忘れてしまっていた。





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