我が家では毎年、家族揃って実家で新年を迎えるのが恒例行事となっている。父がまだ存命していた頃も、姉が結婚してレッドサウスの家に住むことになってからも、そして自分が【HELIOS】に入所してからも、ずっと変わらずに。父が研究所にいた頃からそれを目の当たりにしてきたノヴァにもそれは刷り込まれていて、ありがたいことに毎年決まって提出される届け出を快く当然のように受理してくれる。
タワーに戻ってひとまず、そんな優しい上司に新年の挨拶を交わそうとラボを訪れたのは、日が暮れて空が薄闇に染まりかかった頃。部屋の主は白いマグカップを片手に寛いでいた。見渡したところ、ジャックとジャクリーンは不在らしい。

「ノヴァ博士、ただいま戻りました」
「あ、セレーナちゃんおかえり〜。ハッピーニューイヤ〜」

柔らかく暢気な笑みを浮かべ、緩慢に手を振って迎えてくれるノヴァ。彼の笑顔には、厳しい寒さに凝り固まった肩の力を抜かせてくれるような安心感がある。

「ハッピーニューイヤー。今年も一年、何かとご迷惑をおかけすることがあるかと思いますが、よろしくお願いします」
「そんな、迷惑なんて全然だよ〜。セレーナちゃんがいてくれてすごく助かってるし、むしろおれの方こそ色々とお世話してもらっちゃってるかも?」
「いえ、そんなことはっ……まぁ、所構わずタワーのどこかしらで転がったまま帰ってこないことについては、いかがなものかとは思いますけれど」
「うぅっ、そこは流してほしかったなぁ〜!」

どうしても看過できなかった点を挙げれば、嘆かわしく肩を落とされてしまった。まるで親にこっぴどく叱られた子どものようだ。傍にジャックがいたらきっと同調して、まさにその光景が見られただろう。実際、生みの親はノヴァなのだけれど。

「そういえば、ジャックたちはどこに……?」

新年の挨拶と共に、ジャックには誕生日のお祝いもしようと思っていたのに。相変わらず今日も忙しく働いているのだろうか。首を傾けて問うと、ノヴァは悩ましげに眉を寄せる。

「いやぁそれがさ〜、ジャクリーンが『ヒーロー』のみんなにも新年の挨拶をするノ〜って張り切って出て行ったはいいんだけど、なかなか帰ってこなくて。新年早々また迷子になったんじゃないかって、マリオンとジャックが心配して探しに行ってくれてるんだよ」
「な、なるほど……」

相変わらずなのはジャクリーンの方だったようだ。タワーに移り住んで随分と経つだろうに、方向音痴のジャクリーンは一向に迷子を繰り返している。

「マリオンたちが探しに行ってから結構経つし、もうそろそろ戻ってくるんじゃないかな〜。しばらくここで待ってたら?」

ジャックたちの徒労を内心で労っていると、 こちらの意図を察したらしいノヴァが隣の席へと促してくれた。
一瞬、きょとんとして。彼の気遣いをようやく汲み取ると、先の話に対して困惑気味に固まっていた口元が温かく和らいだ。

「では、お言葉に甘えて」

一つ頷いて、隣へ座る。
彼は研究部の長だというのに、こうして一緒にいても緊張に呑まれることがない。偉大なる天才科学者として心から敬意を払うことはあれど、彼は昔からずっと気さくなお兄さんとして優しく接してくれていたから、不必要に畏縮することはなかった。

「あ、何か飲む? セレーナちゃんは確か、紅茶派だったよね」
「あぁいえ、お気遣いなく。あまりお邪魔するのもよくありませんし、それほど長居をするつもりはありませんでしたので」
「そんなの遠慮しなくていいのに〜」
「この後はジェイさんたちとの約束もありますから。お気持ちだけ受け取っておきますね」
「そう?」

しょんぼりと下がる眉を見ると、かえって悪いことをした気分になる。せっかくの厚意ではあるけれど、家族だけで過ごす大切な時間を奪うのは無粋である気がして、甘んじることはできなかった。マリオンだってきっと気を悪くするだろうから。

「そうだ、お家ではゆっくり過ごせた?」
「はい、おかげさまで。帰るなり、母には『なかなか顔を見せないから心配していた』と小言を言われてしまいました」
「あはは、それだけ娘として大事に可愛がられてるってことだよ〜。おれも、マリオンがなかなか顔見せてくれなくなったら心配だし、寂しいもん」
「寂しい、ですか……」

心配性である母の当時の様子を振り返り、ばつが悪くなって苦々しく肩を竦める。昔から母には心配をかけてばかりだという自覚はあるし、温かな親心を滲ませて助言するノヴァの言い分も理解できる。
以前までは、もう少し頻繁に実家に顔を見せに行っていたはずなのだけれど。それこそちょうどアキラたちが入所してからは目まぐるしく日々が過ぎて、気づけば帰るタイミングを逃していた。特に、ガストと多くの時間を過ごすようになってからは──

「お母さんには彼氏できたって報告した?」
「……はいっ?」

今、何を言われたのか理解できなかった。手元に落ちていた視線を唖然とノヴァへ向けると、締まりのない笑みを向けられていて、思わずたじろいだ。

「セレーナちゃんのお母さん、ガストくんのこと知ったらきっと喜ぶと思うよ〜。セレーナちゃんにもいつか心から大切にしてくれる男の子が現れてくれたら安心できるのに〜って、昔からよく言ってたもんなぁ」
「えっ……えっと……いえ、その…………」

どうやらノヴァは思い違いをしているらしい。確かにふたりの想いはそれなりに通じ合ったのだと思うけれど、かといって付き合おうと明確に言われているわけでもなくて。何とも曖昧な状況をどう説明していいかわからず、感慨深く語る姿を前におろおろと的確な言葉を掴み損ねていると、不意にラボの扉が来客を招いた。

「失礼します──」
「パパ〜、ただいまナノ〜。あ、セレーナちゃまも戻ってきてたノ? おかえりなさいナノ〜! それから、ハッピーニューイヤーナノ〜!」
「あれ、ジャクリーン?」

長身の白い影が視界に入ったかと思えば、その足下でお転婆に駆けてくる小さくて丸い機体に意識を引きつけられた。思わぬ組み合わせに、隣でノヴァも拍子抜けしている様子。

「ただいま、ジャクリーン。ハッピーニューイヤー、今年もよろしくね」
「こちらこそナノ。今年もセレーナちゃまとたくさんおしゃべりするノ〜!」
「あら、それは楽しみねぇ」

あどけなく喜楽を表す声と仕草は愛らしくて、小さな子どもを眺めているような微笑ましさに擽られる。実際には、彼女の方が歳上なのだけれど。

「ところでジャクリーン、ヴィクと一緒に帰ってきたの?」
「ちょうど外出から戻ったところで迷子のお転婆ロボさんと出会ったので、ラボに戻るついでに連れてきました」
「ヴィクターちゃまは優しいノ〜。ありがとうございますナノ!」
「そっか〜。ありがとね、ヴィク。そうだ、マリオンたちにも伝えなきゃ」

ノヴァはすぐさまテーブルに放置していたスマホを掴み取ると、手際良く電話をかけ始めた。この調子ならマリオンとジャックともすぐに挨拶を済ませられそう。と、安堵の表情で電話の相手に語りかける横顔を悠長に眺めていたが、どこか訝しむように向けられる視線に気づいて何気なく顔を上げた。目が合うと、思考に耽っていたヴィクターは我に返って微笑を装う。

「あぁ、そういえば新年の挨拶がまだでしたね。ハッピーニューイヤー、今年もよろしくお願いします」
「ハッピーニューイヤー、ヴィクター博士。こちらこそ、今年もよろしくお願いします」

何の変哲もない上司と部下の挨拶が穏やかに交わされたものの、またすぐに神妙な面持ちで口を閉ざし、じっと見つめられる。何か特異なことでもあっただろうか。なんだか居心地が悪くて、堪らず口を開きかけたと同時に。

「……ここへ来る途中、貴方の部屋の前を落ち着きなく徘徊するガストの姿を見かけたので、てっきり貴方が戻る頃合いを示し合わせたのかと思っていたのですが。その様子では、違ったようですね」
「へっ……?」

唐突に思いがけない目撃情報を知らされ、呆気にとられてしまった。ガストとは何も約束なんてしていなかったはずだけれど、どうして。何か急用ができたにせよ、わざわざ部屋の前で待たなくても、それこそ今のノヴァたちのようにスマホで連絡を取れば済む話で──

「スマホ……そういえば、昨日から全く見ていなかったっけ」

思い出して、不穏な予感が囁き始める。
家では何より家族との対話を大切にしていたし、家事の手伝いや甥っ子の相手に徹したりもして、スマホの存在すら忘れていたくらいだ。そして今も、一度も見ることもないまま自分の部屋に置いてきてしまっている。
とはいえ、タワーでよく接する人たちなら以前から周知していることだし、よほどのことでもない限り返事が遅れたからといってとやかく言われるようなこともないだろう。……そう、我が家の事情を知っている人間ならば。

「あっ……」
「セレーナ、どうかしましたか?」
「いえ……その……」

予感が次第に確信へと形を変えていくにつれ、激しい焦りが込み上げてくる。よほど顔が引きつっていたのか、ヴィクターが案じて声をかけてくれたものの、まともに応える余裕がなくて言葉が続かない。

「あれ、セレーナちゃんどうしたの? 何かあった?」

さらに電話を終えたノヴァもすぐに異変に気づき、心配そうに顔を覗き込んでくる。
血の気が引いて、唇が微かに震える。新年早々、というよりも年末からとんでもない失態をしでかしたのではないか。恐ろしさのあまり、じわりと涙が目に浮かぶ。

「わ、私……実家に帰省することを、ガストに伝え忘れていたかもしれません……」
「えええぇっ!?」
「なるほど、そういうことでしたか」

驚愕するノヴァと、冷静に納得して頷くヴィクター、ふたりの対照的な反応が重なった。その傍ら、ジャクリーンは首を傾げるかのように体を少し傾ける。

「でもガストちゃま、さっきお話した時はセレーナちゃまがお家に帰ってるコトを知ってたみたいナノ」
「あら? そ、そう……?」
「誰かから聞いたのでは? 思えば返答もかなりしどろもどろでしたし、自分だけ聞かされていなかったことを悟られたくなかったのかもしれません」
「そう……ですか……」

もしかしたら、実は記憶がないだけできちんと伝えていたのでは? といった一縷の希望をあっさりと砕かれ、大きく肩を落とした。

「でも、何か用があるなら連絡ぐらいしてくるんじゃない?」
「そ、それは……実家では家のお手伝いや甥っ子の相手をしていて、全くスマホを見ていなくて……」
「あぁ〜……そっかぁ……」

恐らくは庇える要素を見失って諦めたのだろう。ノヴァは苦笑いを浮かべ、それ以上何も言ってくれなかった。
いくら懐が深くて優しいガストでも、今度こそ見限られてしまうかもしれない。頭が真っ白になって、そのまま泣きだしてしまいそうになって。

「ただいま」
「ただいま戻りマシタ」
「マリオンちゃま、ジャック、おかえりなさいナノ〜!」

絶望に打ちひしがれているところへ、マリオンとジャックが帰還した。途端にジャクリーンはふたりの下へ駆け寄り、ノヴァは緩やかに笑ってふたりを労る。

「ふたりともおかえり〜。探しに行ってくれてありがとう」
「マッタク、目を離した隙にいなくなるノデ心配しマシタヨ」
「ごめんなさいナノ……」
「いや、無事に戻ってこれたならよかった。ヴィクター、オマエがジャクリーンを送り届けてくれたらしいな。……その、助かった」
「ちょうど私も自分のラボに戻るところでしたし、礼には及びませんよ」

一際賑やかになったラボで、ただひとり茫然としていた。マリオンやジャックとも新年の挨拶をするつもりだったのに、ショックが大きすぎるあまりすぐには立て直せそうにない。
不意に、こちらに気づいたジャックが軽やかな足取りでこちらに近づく。

「セレーナ、戻っていたのデスネ。ハッピーニューイヤー。今年もヨロシクお願いしマス」
「あ……ハ、ハッピーニューイヤー、それからハッピーバースデー。ジャックにはいつも助けてもらって感謝しているわ。これからもよろしくね」
「ウフフ、お祝いありがとうございマス。ジャックこそ、セレーナにはいつも感謝してマスヨ」

我に返り、慌てて目の前のジャックに伝えたかった言葉を手繰り寄せて紡いだ。いつも働き者のジャックを労るように、頭を撫でながら。するとジャックは嬉しそうに、そして少し照れくさそうに笑って応えてくれた。その様子を見て、ほのかに気持ちが和らぐ。

「えと、マリオンさんも、今年もよろしくお願いします」
「あ、あぁ……」

続けて、マリオンを見上げておずおずと挨拶を口にすると、決まりが悪そうな顔で返された。素直ではない彼のことを考えると、突っぱねられなかっただけ良好な反応だと思っていいだろう。
そうしてだいぶ気が紛れてきた頃、怪訝に細められる眼差しが絶望を蒸し返そうとする。

「……ところでオマエ、ガストと何かあったのか?」
「は、はいっ?」
「さっき、露骨に落ち込んだ様子のアイツとオマエの部屋の近くですれ違った」
「えっ」

ひやりと、冷たい焦りが腹の底を這う。

「おや、遂に諦めたようですね」
「セレーナちゃん、追いかけた方がいいんじゃないっ?」
「そ……そうしますっ!」

何故か一緒に狼狽えるノヴァに背中を押され、いてもたってもいられず立ち上がる。手遅れになる前に……否、もう手遅れなのかもしれないけれど、せめて誠意を込めて謝っておかなければならないという使命感に駆り立てられ、ラボを飛び出して真っすぐに駆け抜けた。







『セレーナなら実家に帰ってるはずだけど……って、お前、何も知らされてねぇのか?』

昼間に聞いた純粋な驚きに揺れるアキラの言葉が、今も痛く胸に刺さる。セレーナのことなら何でも知っているというわけではないが、アキラやウィルが当然のように知っていることを自分は知らされていないという疎外感が、胸の奥底へと重く沈んでいく。

昨晩、一年が終わりゆくのをしみじみと感じながら無性にセレーナに会いたくなって、誘いのメッセージを送りつけたのが発端だった。待てども一向に返事はなく、もしかしたら研究で忙しいのかもしれないと慮りつつ、けれどもマリオンがノヴァたち家族と年末年始を過ごすと言っていたのを思い出して、悶々とした焦りを胸の内に募らせた。寝静まるにはまだ早い時間帯。いっそ駄目元で部屋に押しかけてみたものの、ロックのかけられた扉が寡黙に拒み続けるだけで、彼女の気配すら感じられなかった。
そして今朝、もう一度メッセージを送った上で彼女の部屋の前まで様子を窺いに足を運ぶも、元々人通りの少ない研究部のエリアには相変わらず静けさだけが佇んでいた。そしてやはり、メッセージの返事はない。そうして途方に暮れていた矢先、弟分に呼ばれて訪れたリトルトーキョーでアキラたちと出会った際に、とんでもない事実が発覚したのである。

何か気に障ることでもしたかな。不安に駆られながら、今もしきりにスマホを確認する。昨日から既読すら付かないメッセージ画面は変わらず時が止まったままだ。画面の上に深いため息を落として、虚しさと共にポケットに仕舞う。
多忙を極めた末に連絡手段を断たれたことは以前にもあったが、今回は状況が違う。何故なら、前日まで何事もなく顔を合わせていたからだ。となると、前日に何かやらかした可能性があるということになる。
当時のやり取りを懸命に思い出しているが、思い当たることが何もない。彼女は柔らかくて可愛らしい笑顔を見せながら、くだらない話だって聞いてくれていた。なら、どうしてメッセージに既読も付かないのか。考えても考えても答えは出ず、ため息ばかりが生まれていく。

「──ガスト……ガスト……!」

遠くから必死に呼びかける声が次第に近づいてくるのを背中で受けとめ、俯いていた顔が弾けるように上がって勢い良く振り返った。

「セレーナ……!」

大慌てでこちらに駆けてくる姿を目にして、どきりと鼓動が強く打った。あんなに暗く落ち込んでいた心に希望の光が差して、彼女が煌めいて見えたくらいだ。
こちらが応えたことに彼女も安堵した表情を見せ、駆け抜ける勢いのまま懐へ飛び込んできた。心の準備もできていないうちにぎゅっと胸にしがみつかれ、大きく心臓が騒ぐと同時に狼狽える。

「えっ、ちょ、ちょっ……!?」
「ごめんなさい、私、ガストにちゃんと実家に帰ることを話すの忘れたみたいでっ」
「わ、忘れてたぁ!?」
「うぅ、ガストとは一緒にいるのが当たり前というか、もうずっと前から一緒にいるような感覚でいたから……その、とっくに知っているものだと思い込んでしまっていて……」
「当たり前……」

まさかそんな単純なことだったとは思わず拍子抜けしたのも束の間、切実に吐露される懺悔に紛れた素直な気持ちを耳がしっかり拾い上げ、つい浮かれてしまった。彼女にとって一緒にいて当たり前である存在と認識されているのが幸せで堪らなくて、不安なんて呆気なく吹き飛んだ。
だけど、ひとつだけ確認しておきたいことがある。

「えっと……昨日から何回かメッセージ送ってるんだけど、気づいてたか?」
「うっ。それが、実家では一度もスマホを見ていなくて……本当にごめんなさいっ!」
「そ、そっかぁ……」

安心が半分、呆れも半分。すっかり気が抜けて、ただ苦々しく笑うことしかできなかった。ともあれ、嫌われていなかったのならそれでいいと思い過ごした。

「あの……私のこと、嫌いになっちゃったりした?」
「えっ」

なのに、彼女は今にも不安に揺らぐ瞳で顔色を窺ってくるものだから、胸が強く締めつけられた。そんなことで嫌いになるわけがない。そうして誠実な言葉にして、真っすぐ伝えてくれるところが好きだと思ったくらいなのに。

「いやいやいや、俺がセレーナを嫌いになんてなるワケねぇだろ!? むしろ俺の方がセレーナに嫌われたかもって、結構ヘコみはしたけど……」
「うぅっ。傷つけちゃって、本当にごめんなさいね」
「大丈夫だって。今はそんなこと忘れるくらい、セレーナに会えて嬉しいからさ」

ひょっとしたら情けない顔を晒しているかもしれない。だけど、嫌われたくないというセレーナの必死な気持ちを垣間見れたのが、不謹慎ながらすごく嬉しくて、愛おしさがますます溢れだしては頬がだらしなく緩んでいった。

「よかったぁ〜……」

不安から解放されたのか、セレーナは力なく傾れ込むようにこちらの胸元に顔を埋めた。急に与えられた刺激に、思わずびくりと体が揺れ動く。そんなにくっつかれてしまっては、心臓が保たない。じわりと染み込む彼女のほの柔らかい温もりと、ふわりと触れるほの甘い匂いに当てられて、胸の芯が熱くなる。
このまま衝動的に強く抱きしめてやりたい気持ちと、人目を気にする理性がせめぎあって。

「あ、あの〜、セレーナさん……?  甘えてくれるのはすげぇ嬉しいんだけど、ここ、一応公共の場……」
「………………きゃっ、ご、ごめんなさい!」

少しの間の後、我に返ったセレーナは慌てて逃げるように離れた。ほっとしたような、寂しいような気持ちに駆られながら、そんなに距離を置かなくてもいいのにと胸中でぼやく。
羞恥心に俯く彼女の耳は既に血色良く染まっている。可愛い、と口にすればもっと赤くなるのだろうか。さすがにそこまで追い詰めてやる気はないけれど、ほんの少しだけ好奇心が疼いてしまった。

「……あのね、ガストは優しいからそうやって許してくれるけれど、やっぱりお詫びがしたくて」
「ん?」

ぽつりと、控えめに呟かれる言葉に、耳を傾ける。と、じっと懇願するような視線でこちらを再び見上げて。

「えっと、何かしてほしいことはない? 私、何でも言うことを聞くわ」
「えええぇっ、そんなこと言われても……」

あまりにも突然の催促に、困惑を漏らす。とっさに、それも何でもと言われてそう容易く思いつくはずもない。セレーナとしてみたいことならたくさんあるけれど、弱みにつけこむみたいで気が進まない。それこそ、付き合ってほしいだとか、恋人みたいに触れ合いたいだとか、邪な願いを挙げられるはずもなく。
ううんと唸りながら思い悩んだ末、ふと思いついたのは。

「あ、じゃあさ──」

どのみちセレーナを誘うつもりだった、あの場所へ。



そして、翌日。パトロールが終わる頃合いに連絡して、グリーンイーストのターミナルで待ち合わせをした。セレーナも年末年始の連休明けで仕事だったそうだが、ノヴァ博士が快く送り出してくれたらしく、研究の合間に抜け出してきたという。彼女の上司が彼で良かったと心から安堵した。

「本当に、この一角だけニューミリオンじゃないみたいね。海外旅行にでも来た気分だわ」

聳え立つ近代的な高層ビルの群れから隔離されたこのエリアには、背の低い木造建築が並ぶ。道端にところどころ見かける斜めに切られた竹と松の飾りや、辺りを鮮やかに彩る紅白を主とした独特な飾りは、正月ならではのものらしい。
日本の文化を詰め込んだこの小さな町並みを、セレーナは物珍しそうに眺めていた。興味深く視線を右往左往させる姿が微笑ましくもあり、そのままうっかりどこかへ迷い込みそうな危なっかしさもあり。それなりに賑わう人通りの隙間を縫って、彼女との距離が近づいたり離れたり。ささやかな不安に揺れ、目が離せない。

「あ〜……ちょっとごめん」
「きゃっ」

また彼女が離れていきそうになった瞬間、もどかしさに突き動かされ、か細い腕を掴んで引き寄せてしまった。もっと力を加減してやるべきだったか、彼女の体が想定以上に軽々しくこちらへ傾倒するものだから、慌てて立ち止まって自らの体で受けとめた。そうして思いがけず密着した体は、冬の寒さなど感じさせないくらいに高まる体温を分け合った。

「あっ……」

驚きに目を見開いて間近で見上げてくる彼女の顔も、恐らくは自分と同じ熱を帯びていて、実に赤く染まっている。自分で起こした結果なのに途端にいたたまれなくなり、掴んだ腕を恐る恐る放した。失くしていた距離が、少しだけ取り戻される。

「わ、悪りィ、びっくりさせちまったよな。えっと、腕、痛くなかったか?」
「え……えぇ、それは大丈夫だけれど……」
「そっか、ならよかった。なんかそのうちはぐれちまいそうで、心配になってさ。ちゃんと繋いでおかないとって思ったら、つい」

何でもないように笑って、尤もらしい言い訳を唱える。決して嘘を吐いているわけではない。ただ、傍から離れないでくれ、だなんて。何よりも伝えたい決定的な言葉を口にする勇気がなくて、勝手に情けなくなって落ち込んでいた。
しおらしくこちらを見上げていた彼女は、不意に冷えきった裸の指先で強張る手の甲を繊細に撫で、ゆっくりと手のひらへと入り込ませる。突然の刺激にびくりと体が反応すると共に、息を呑んだ。

「ごめんなさい、少しはしゃぎすぎちゃったみたい。迷惑をかけてしまうのは嫌だし、ちゃんとガストから離れないようにするわね」
「え……あ、あぁ。えっと、そ、そうしてくれると、ありがたい」

心を読まれたのかと動揺してしどろもどろに返事をしてしまったが、気づけばそっと繋がれた小さな手に安心をもたらされ、肩の力が柔らかく抜けていった。まだ胸に残る羞恥心がふたりの空気をぎこちなくさせてはいるものの、互いの凍えていた手が温かく解けていくにつれ、和らいでいくのを感じた。

「それにしても、いろんなお店が並んでいるのね。見たことのない食べ物もたくさんあって、なんだか新鮮だわ」

また思い出したように好奇心を疼かせる眼差しは、あちらこちらへと転がるように移ろいでいく。そして自然と前へ躍り出る小さな足に合わせて、自らもゆっくりと歩きだす。
きっとここは彼女の知らない世界で、狭い世界で生きてきた彼女の視野が広がる瞬間を目の当たりにできた喜びを密やかに抱きしめながら、煌めく横顔を見つめた。

「セレーナは、リトルトーキョーに来るのは初めてか?」
「そうねぇ。アキラとウィルがよく話していたから興味はあったのだけれど、グリーンイーストに来る機会が滅多になかったものだから」
「そっか。俺も昨日弟分に呼ばれて初めて来たんだけど、色々見慣れないものがあって面白くてさ。だから、その……セレーナとも一緒に来れたらなって思ってたんだ」
「そう、なの?」

面白くて新しい発見を体験する度にセレーナの顔が浮かんで、彼女ならどんな反応を見せてくれるだろうと、つい想像してしまっていたのはここだけの話。危うくもう叶わぬ夢と諦めてしまうところだったが、今、手の中にある温もりは実現の証として存在している。
目を丸めてこちらを見上げた彼女は、少しして柔らかくて幸せに満ちた笑顔を蕩けさせた。

「嬉しい。誘ってくれてありがとう」

甘く唇からこぼれた一言が、じんと懐に熱く落ちていく。心臓の震えを、きゅっと奥歯を噛み締めて堪えて、溢れそうになる激しい感情を慌てて固く飲み込んだ。
埋め合わせだとか、贖罪だとか、そんなことは忘れてセレーナにはただ純粋に楽しんでほしかったから。こうなったらもっと彼女を笑顔にしてやりたいと、焚き付けられて張り切ってしまう。

「何か気になったものとか食べたいものがあったら、遠慮なく言ってくれよ。何でも買ってやるからな」
「えぇっ? そんな、いいわよ〜。ちゃんと自分で買うわ」

律儀な彼女は恐れ慄いて首を小さく横に振るが、こちらも引き下がるわけにはいかない。

「いやいや、俺のワガママに付き合ってもらってるんだから、ここは甘えてくれよ」
「元はといえば、私がお詫びをする立場だったはずなのだけれど……」
「まぁ、細かいことは気にするなって。なっ?」

頑なに譲らない姿勢を見せると、彼女は後ろめたそうに目を泳がせて肩を竦める。追い詰められれば追い詰められるほど、悩ましげに垂れ下がっていく眉。そして、削がれていく抵抗。やんわりと尖る唇からは、悲観に染まる呻き声が漏れる。

「私、ガストといるとだめになっていく気がする……」
「いいじゃねぇか。前にも言った気がするけど、セレーナは真面目すぎるくらいなんだから、ちょっと駄目になったところで大したことねぇって。もしそれで他のヤツらが何か言ってくるようなことがあっても、俺の前ではいくらでも甘えてくれていいから」

いっそ心を丸ごと委ねて何もかも頼ってくれたらいいのに。愛おしさに包まれた甘い願いを込めて、彼女の抱える葛藤すら楽観的に笑い飛ばしてやった。
するとせっかく元の肌の白さを取り戻した頬にまた熱が灯され、困惑を帯びた切実な眼差しがじっと真っすぐに嘆きを訴えてくる。

「もう〜……それでどうしようもなくだめになっちゃったら、ちゃんと責任取ってちょうだいね」
「せ、責任って……取る取る、全然取る!」

当てつけられた言葉の意図を都合の良いように捉え、一瞬小さく狼狽えたものの、この際だから深く問わずに肯定してしまおうと慌てて頷いた。責任も何も、それは許されるのなら一生手放したくない権利なのだから。
舞い上がるあまり小さな手を握る指先に思わず力が入ってしまったが、幸いにも彼女は何も言わずに前を向いた。真っ赤に茹でられた耳を隠すことも忘れて。おかげで浮かれて緩む唇も見咎められずに済んだ。

そうして渋々ながらも押し付けがましい厚意を受け入れてくれたセレーナだったが、それでも筋金入りの遠慮深さから物欲しさを露わにせず、最小限に抑えようとするであろうことは想定済みだった。だから先手を打ち、彼女が僅かでも何かしらの興味を示す素振りを見せようものなら、すかさず有無を言わさぬ勢いでそれを買い与えた。もちろん少食を見越して、ふたりで分け合えるものは分け合って。
勢いに圧されて流されるままに享受する彼女は小さな困惑を見せつつ、素直に堪能してくれている様子。特に餅が気に入ったらしく、美味しいと言って幸せそうに頬張る姿を眺めていると、とめどなく込み上げる愛おしさに絆されてもっと与えてやりたいという気持ちに駆られる。
躍る足の遥か先、賑やかに騒ぐ子どもたちに集られて独特な動きで舞う赤い影を見つけ、手を繋いで隣を歩く彼女に示すように指差した。

「お、獅子舞だ。今日もいるんだな」
「ししまい……?」

首を傾けて厳つい面をした被り物を恐る恐る見つめる横顔を尻目に、初めてそれを目の当たりにした自らの反応を思い出す。インパクトの強さにびっくりして、少々情けない姿をアキラたちに見せてしまった気がする。

「あんなおっかねぇ顔してるけど、日本じゃ縁起物らしいぜ。アイツに頭を噛まれることで、悪いモノを追い払ってもらうんだってさ。実は昨日、俺とアキラも噛んでもらったんだ」
「そうなの? だからあんなに人が集まっているのねぇ」

日本文化に馴染みのあるアキラとウィルから得た知識を受け売りにして教えてやると、セレーナはひどく感心した様子で相槌を打ちながら、まじまじと獅子舞とその周りの子どもたちの様子を観察する。熱心に興味を注ぐ眼差しはすっかり釘付けだ。
その瞳に、さらなる光を灯したくなった。

「せっかくだし、セレーナも噛んでもらうか?」
「えぇっ? でも、あの中に入るのは少し勇気がいるような……」
「俺も一緒だし大丈夫だって、なっ?」

無邪気な子どもたちの輪の勢いに圧倒されて尻込みする彼女の手を、より強く握り締める。嫌だと拒まれてはいない、それならば。半ば強引に手を引いて、後ずさろうとする足をその場から連れ出した。

「えっ。ちょっ、ちょっと、まだ行くって言ってないのに〜っ」

慌ててぶつけられる気迫も威勢もない柔い文句を、笑って背中で受けとめながら。
まだかまだかと順番を待つ子どもたちに混じって列に並ぶ。中には獅子舞の迫力に泣きだしてしまう小さな子どももいたが、楽しそうに自らの頭を差し出す子どもたちは笑い声を転がしてはしゃいでいた。
微笑ましくその光景を眺めつつ他愛のない言葉を交わしているうちに、幸いにもすぐに順番が回ってきた。軽い気持ちで送り出した背中は思いの外固く力んで真っ直ぐに伸びていて、ぎこちなく獅子舞に近づいて頭を垂れる。まさか、怯えているのか。
それが無性に可愛らしく見えて、緩む口元を隠すことなくこっそりスマホを取り出してカメラを向けてしまった。写真を好まない彼女には、もちろん内緒だ。後でアキラにでも送ってやろうかと企んだものの、口を滑らせてばらされてしまいかねないと危惧して大人しく控えることにする。
やがて戻ってきた彼女は気が抜けたのか、どこか解放感に包まれていた。それすらも可愛いと思えてしまって、また唇がふやけて力が入らなくなってきた。

「近くで見ると、ますます迫力があるわねぇ。なんだか少し緊張しちゃった」
「ははっ、お疲れさん。これで今年一年、良い年になるといいな」

打ち震えて構える姿が可愛かった。などとうっかり自分で口を滑らせそうになるのをとっさに飲み込み、それとなく笑いながら少しの間だけ寂しさを覚えていた手を再び繋いだ。外気に放たれて冷たさを取り戻しつつある小さな手を、しっかりと温めるように。彼女にとって平和で幸せな一年であってほしいという願いは、真実だ。そして、それを守りたいと優しく願うのも。
弾かれるようにこちらを見上げた深い海の瞳がいくらか瞬いたかと思えば、やがて慈愛を込めて柔らかく細められた。

「そうねぇ。厄除けもしたし、何より頼もしくて大切な私の『ヒーロー』が一緒だから、きっと幸せな一年になるわ」
「えっ…………」

握った手を上から包み込む、もう一方の温もりにぎゅっと心臓の奥の方を握られて、一瞬息の仕方を忘れてしまった。熱を持って固まるこちらを見上げる彼女は、ふふっと機嫌良く笑い声を軽やかに鳴らした。
いっそ勢いのままに抱きしめたい衝動に激しく駆られるも、必死に理性の内に抑え込む。だけど、せめてこの高ぶる想いは返したくて、精一杯に声を震わせる。

「お、俺も、セレーナが一緒なら、すごく楽しくて幸せな一年になると思う」

すると、海の瞳にきらきらと揺らめく光が差して。

「本当〜? じゃあ、ふたりで一緒に素敵な年にしていきましょうね」

そうして至極嬉しそうに躍る声は、既に幸せに浸された心を擽るのに十分だった。






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