「えぇっ、アドラーさんのお誕生日!?」
「マ、マジで知らなかったのかよっ?」

驚愕と焦燥に駆り立てられた悲鳴が喉を震わせると、アキラはぎょっと目を丸めた。
普段は滅多に人の寄りつかないこの部屋に珍しい来客を迎えたのは、つい今し方。ずっとラボに籠っていたから、すっかり時間の経過から隔離されていて気づかなかったけれど、時計を確認するともう健全な夕食時をとうに逃しているようだった。ここ数日は最近心を通わせるようになった『彼』が頻繁に出入りするようにはなったものの、アキラがわざわざ単身で乗り込んでくるのは初めてだ。何事だろう、と少しばかり心配していたが、どこか探るような口ぶりで彼が持ち込んできたのは思いもよらぬ衝撃の事実だった。

「だって私たち、つい最近知り合ったばかりなのよ? アキラたちみたいに、長いお付き合いをしているならまだしも……」

一体アキラに何を誤解されているのか定かではないが、ガストに対してようやく親しみを持ち始めたのもつい数日前の話だというのに、そのようなプライベートに関する情報など把握しているはずもなく。困惑を浮かべて小さく首を傾けていると、ささやかな疑いを含むじとりとした視線を向けられる。

「でもお前ら、同じタワーにいるってのにわざわざ手紙のやりとりなんかしてんだろ? ガストのヤツ、時期も近いんだしとっくに教えてるモンだと思ってたんだけど?」
「ど、どうしてアキラがそのことを知っているの!?」
「どうしてってそりゃあ、ガストが言ってたからに決まってんだろ。アイツ、最近やたらと嬉しそうにお前の話してくるし、たぶん気に入られてるんじゃねぇか?」
「ええぇっ?」

さらなる衝撃をいくらか突きつけられ、恐縮して肩が竦む。知らないうちに手紙の話がアキラにまで筒抜けになっていただなんて、恥を晒しているようでいたたまれなくなる。アキラならまだこちらの事情を理解しているから、傷は浅い方だけれど。
そしてそれ以上に、ガストがそうして顔を合わせていない間も気にかけてくれていたことが嬉しくもあり、ものすごく照れくさくもあった。胸の奥が擽ったくなって、思わず胸元で両手をきゅっと握りしめる。なんだか少し顔も熱くなってきた気がする。が、今は舞い上がっている場合ではない。
大切な恩人であり友達になってくれた彼の誕生日が、もうすぐ終わってしまう。知ってしまった以上、このまま見過ごすわけにはいかないというのに。いかんせん彼のことを知り始めたばかりである現状、彼に喜んでもらうための最善策がそう容易く浮かぶわけもなく、ううんと悩ましげに唸ることしかできない。

「どうしましょう〜。お誕生日だというのにあげられるものなんて何もないし、お祝いしようにも今からでは間に合わないわ」
「別に、そんな大げさに考えなくても、ただ『おめでとう』って一言伝えてやるだけでいいんじゃねぇの? ガストなら、セレーナに祝ってもらったってだけで大喜びすると思うぞ」
「そう、なのかしら……」

何を根拠にアキラはそこまで楽観的な確信を得ているのか。半信半疑ではあるが、このまま何もしないよりは報われるというのも確かだ。心を揺らがせていると、ますます急き立てるように背中を押される。

「ほら、悩んでる暇あったらさっさと電話でもしちまえって。さすがに連絡先くらいは交換してんだろ?」
「え、えぇ。でも、こんな時間にいきなり電話なんてしたら迷惑じゃ……」
「あ〜、もういい、オレが電話する! ほら、スマホ貸せ!」
「ええぇっ!?」

いつまでも逃げ腰で臆しているのを見かねてか、痺れを切らしたアキラはいよいよ強行手段に出た。傍らのデスクに置いてあるスマホを見つけると、強引に掴みとって画面を睨みつける。
つい先日交換した連絡先が、まさかこんな形で使われることになろうとは。それもせっかくの誕生日に、また迷惑をかけてしまう。おろおろと見守っていると、スマホと対峙するアキラの威勢がたちまち弱まっていく。

「……お前のスマホ、どうやって電話かけるんだ?」

眉間に皺を寄せて頭を掻き毟り、決まり悪くこぼす姿を前に、そういえば彼は機械操作が苦手なのだったと思い出す。こうして後先考えずに手が出るところは相変わらずだ。固まる手の中にあるスマホの画面を横から覗き込むと、どうやらホーム画面から何も進んでいないようだった。
拍子抜けして、思わずため息が出る。これではウィルが世話を焼いてしまうのも頷ける。つい放っておけなくて、代わりに自らの指で画面を操作してあげたのだが。

「もう〜、しょうがないわねぇ。このアイコンを押して、ここで選んで……って、しまった!」

完全に無意識だった。気づいた時には既に呼び出し中になっていて、ひやりと腹の底が冷えた。
そもそもの原因であったはずのアキラも、呆れ返るあまり痛々しくなるほど白々とした視線をこちらに向けている。

「お前……いつか詐欺にでも引っかかっちまいそうだよな」
「なっ、騙したのね!?」
「んなワケねぇだろ! お前が勝手に手助けしたんじゃねぇか!」
「ううぅ……」

嘆かわしく項垂れているうちに、ぷつりとコール音が止んだ。瞬間、どきりと心臓の鼓動が強く跳ねた。まだ心の準備ができていないのに。焦りを帯びた緊張が体に食い込んで、いやに力が入る。

『セ、セレーナ……? 急に電話なんて、どうかしたのか?』

硬直している間に、スマホのスピーカーから案の定戸惑いに揺れる声が届いた。喉の奥が強張って上手く声が出ないながらも、何か言わなければと必死になって喉を震わせる。

「あ、いえ! あの、アドラーさん、えと、そのっ」
「いや、テンパりすぎだろ」
「だって〜……」

何から話せばいいのかわからず舌を空回らせていると、横から容赦なく突っ込まれてしまった。とことん恥に追い詰められ、いっそ泣きたい気持ちになってくる。

『ん? 今、アキラと一緒なのか?』

アキラの声はよく通るから、電話の向こうにも届いていたようだ。ガストの指摘を受けて我に返り、本来の用件を思い出した。

「は、はい! あのっ、今日はアドラーさんのお誕生日なのだとアキラから聞いたのですけれど」
『えっ』
「お前が遠慮して言おうとしねぇから、代わりにオレが教えといてやったんだよ。感謝しろよな」
『アキラのヤツ、いつの間にそんなお節介覚えたんだ……?』

隣で発せられる恩着せがましい主張もしっかり届いたらしく、ため息混じりのぼやきが耳元で垂れ流された。当然、その声はアキラには聞こえていない。
彼らの口ぶりから察するに、アキラが教えてくれなければ知らないまま今日を終わらせてしまうところだったようだ。それもガストなりの気遣いだったのだろうが、ありがたくもあり少し寂しいと思ってしまう。
それでもせっかくアキラが教えてくれたのだから、日頃の感謝の気持ちも込めてきちんと祝福を伝えなければと、自らを懸命に奮い立たせる。

「わ、私、プレゼントは何も用意できていないのですが、その、せめてお祝いの言葉だけでもお伝えしたくて……アドラーさん、お誕生日おめで」
『えっ。ちょ、ちょっと待った!』
「はいっ!?」

意を決して口に含んだ言葉を勢い良く遮られ、肩がびくりと縮み上がった。

『今、どこにいるんだっ?』
「えっと、自分の部屋にいますけれど」
『よし、ちょっと待っててくれ、今すぐそっち行くから! あ、いったん切るぞ』
「えっ……ええぇっ!?」

慌ただしく捲し立てられ、そのまま一方的に通話を切られた。彼の意図を飲み込めず、ただ呆然とスマホの画面を見つめる。

「アドラーさん、今からこっちに来るみたい」
「い、今からって……ガストのヤツ、結局セレーナにも祝ってほしかったんじゃねぇか」
「へっ?」
「いや、何でもねぇ」

ぼそりと何か聞き捨てならない言葉を聞いた気がするが、何食わぬ顔ではぐらかされてしまった。







思いがけないセレーナからの電話を受けて堪らず部屋を飛び出したはいいが、研究部のフロアへ移動するエレベーターの中で、ほんのり冷静になった思考が己の言動を省みていた。

「う〜ん、ちょっと必死すぎたかなぁ」

他に誰もいないのをいいことに、小さく独り言をこぼす。
まさかセレーナに誕生日を祝ってもらえるとは思わなくて、高ぶる気持ちを抑えられなかった。元々、誕生日を教えることで彼女に負担をかけたくないからと、あえて黙っていたのは自分だったというのに。結局、本心ではどこか期待していたらしい。アキラがわざわざセレーナのところへ押しかけたと聞いた時はかなり驚かされたが、感謝しなければならない。
電話で終わらせてしまうのはもったいなくて、こうして彼女の声を直に聞くために駆けつけようとしているのだが。今日という一日もあともうしばらくすれば終わりを迎えようとするこの時間帯に、迷惑を押しつけてしまったかもしれない。一方的にそちらへ向かうと宣言した手前、もう手遅れではあるが。

「俺、なんでこんなに嬉しいんだろうな……」

可愛い女の子と仲良くなれて、誕生日まで祝ってもらえて浮かれているのか。否、怖がりながらも自分と真摯に向き合ってくれる彼女に向けるのは、そのような浅はかな感情ではないはずだ。しかし、純粋に友人として、というには抱えている感情は尋常ではない熱を持っていて。
そうして内に巡る思いの正体に翻弄されているうちにエレベーターは研究部のフロアに着床し、人通りのないエリアへ放りだされた。セレーナの部屋まであとは一直線、そう思うとまた緊張に足が竦む。本当にこの時間に押しかけてよかったのだろうか。今になって逃げ腰になっていく心を重々しく引きずって、閑散としたフロアを突き進んだ。

「し、失礼しま〜す……」

だから、いざセレーナの部屋に踏み込む時には緊張が頂点まで達してしまい、情けないくらいに声が震えた。そして迎えてくれたのは、同じくらい緊張した面持ちでぴしゃりと背筋を伸ばして立つセレーナの姿だけだった。

「アドラーさんっ、こ、こんばんは。あの、こんな時間に突然電話してしまい申し訳ございませんでした」
「い、いや、こっちこそ、こんな時間に押しかけちまって悪かったな。つーか、アキラはもう行っちまったのか?」
「え? えぇ、用は済んだからもう寝ると」
「アイツ……自由すぎるだろ」

皮肉なもので、平気で他人を巻き込みながら思うがままに振る舞うアキラの無邪気さが、いっそ羨ましいとさえ思える。こちらはこんなにもセレーナに嫌われないよう、細心の注意を払って配慮しているというのに。そもそもこの時間に女の子の部屋に駆け込むのもどうかと思うが、セレーナも平然と受け入れているところを見るに、ふたりの間柄は本当に気兼ねのない友人といったものなのだろう。
だったら、同じくこうしてこの部屋に招き入れられた自分は? と、また悶々とした疑問が懐に蔓延りだす。

「あ、あの……」
「ん?」

おずおずと控えめにかけられた声に意識を引き戻されると、じっと真剣な瞳に目を見つめられてどきりと一際強い鼓動が胸を打った。

「お誕生日、どうして教えてくださらなかったんですか?」
「えっ」
「私、アドラーさんにはとても助けられてばかりで、本当に感謝していて。ですから、その、きちんとお祝いしたかったのですけれど……本当につい先程聞かされたものですから、今からでは間に合わなくて」
「えっ、そ、そんなの気にしなくていいのに。むしろこうしてあんたの負担になりたくなくて、言わねぇつもりだったんだけどなぁ」

真っすぐながら切なさに揺らぐ訴えに、何故だかほのかに胸の奥が息苦しく締めつけられる。それを気取られなくて、とっさに軽々と笑みを貼りつけた。
負担になりたくないというのはアキラの前でも口にしたのだが、それがかえってアキラに気を回させてしまったのかもしれない。しかし、これは本心だ。彼女を悩ませるくらいなら、言わない方がいいと思っていたのに。

「ふ、負担だなんて、そんなことありません! 絶対に!」

思いの外、抱えていた懸念が彼女にしては珍しいくらいに力強く否定され、圧倒されるあまり一瞬返す言葉を掴み損ねた。

「お……おぉ、そうか?」
「そうです! だって、アドラーさんは私の大切な人なのですから」

確かな熱を持ちながらもさらりと流れた言葉に、そして柔らかく綻ぶ綺麗な微笑に、ぎゅっと心臓を掴まれて。さらに追い打ちをかけるかのごとく、緊張で力の入るこちらの手に滑らかな指先が触れ、やがて両の手のひらがゆっくりとほのかに汗ばむ手を包み込んでいく。優しく、慈しむように。

「私、アドラーさんが生まれてきてくださったことに感謝しているんです。アドラーさんと出会えたおかげで、最近とても楽しくて、毎日がキラキラしているように感じられて」
「えっ……えっと……」

愛おしむような声に擽られて、体が熱くなる。そんなふうに言われては、なんだか勘違いを起こしてしまいそうで。何か言葉を紡ごうにも、後が続かず虚しく潰えていく。

「あぁ、いけないわ。一番大切なことをまだ伝えていませんでしたね」
「へっ?」
「お誕生日おめでとうございます、アドラーさん」

この時、本当に自分は期待していたのだと思い知らされた。満ちていく幸せの熱に、蕩けていく頬。今、きっと至極だらしのない顔をしているのだろう。

「ありがとな。あんたに祝ってもらえて、すげぇ嬉しい」

感じたままの思いを素直に伝えると、セレーナもまた喜びを笑みに溶かした。それがとても可愛らしく目に映り、微笑ましさを噛みしめて眺めていたのだが。彼女は不意に申し訳なさそうに眉を下げ、ほんの少し笑顔を翳らせる。

「ただ私、本当に何も用意できていなくて……お誕生日なのに……」
「いやいやいや、あんたにおめでとうって言ってもらえただけでもう最高に幸せだから! なっ!?」
「し、幸せって、そんな大げさな……」

そこまで気負われるとこちらが申し訳なくなってくる。慌てて宥めた勢いでとんでもないことを口走ってしまったが、これは気休めでも何でもなく、純粋な事実だ。これ以上を望むなんて、烏滸がましいとさえ思う。
ただ、それでも彼女は腑に落ちていない様子で、表情は未だ晴れず。ただ彼女の笑顔が見たいだけなのに、どうすれば笑ってもらえるだろうかと、もどかしさを胸に思い悩む。

「……あ、そうだ」

やがて、最近ふと感じたささやかな願望に思い当たって、閃きを得た。

「じゃあさ、一つだけ俺の願い事聞いてもらってもいいか?」
「お願い事、ですか?」

含みを持たせて提案を持ちかけると、彼女は小さく首を傾げてこちらを見上げてくる。

「あぁ。もしあんたが嫌じゃなかったら、一緒に写真撮らねぇか?」
「しゃ、写真っ?」
「いやぁ、せっかく仲良くなれたんだし、一枚ぐらい一緒に写ってるのがあったらいいな〜って思ったんだけど」
「そ……それは……」

夜中にベッドに寝転がりながら、何気なくスマホのアルバムを見返しているうちに、いつかセレーナとも一緒に写真を撮れたら。なんて夢見てしまったのは、つい先日のことだった。この流れであれば叶うのではないかと期待したのだが、彼女が目に見えて狼狽え始めたので雲行きが怪しくなった。

「ひょっとして、NGなのか……?」
「うぅ……えぇっと……実は私、写真がとても苦手で、できることならあまり写りたくはないのですけれど〜」
「そ、そうなのかっ?」

一緒に写るのが嫌だと拒否されるのかと思いきや、さすがに想定外の事実に面食らってしまった。こんなに可愛ければ写真写りもいいだろうに、と余計なことを考えて、また失言になってしまいそうでぐっと飲み込んだ。

「……でも、せっかくのお誕生日ですし、アドラーさんが望まれるのであれば」
「えっ。い、いいのか?」
「ううぅ……今日は、特別な日ですから」

これは絶望的かと諦めかけていたが、優しい彼女はやや渋い顔をしながらも無碍にせず応えようとしてくれる。彼女のそういうところが好ましいと、また頬がふやけて緩む。

「俺のワガママ、叶えてくれてありがとな。あんたのおかげで良い一日になっちまった」
「ほ、本当に?」
「あぁ、本当だ」

すると彼女もまた、柔くはにかんで温かさを分け与えてくれるような笑みを見せてくれた。そんな顔を見せられては、やはり自惚れてしまう。せめてもうあと少しで終わる今日くらいは、許されたいと願いながら。

「うし、それじゃあ……ちょっとこっち寄れるか?」
「は、はい!」

そしてふたりで撮った写真は、照れを拭えずどこかぎこちなくて、だけど幸せが溢れていて。大切に、宝物のようにフォルダに仕舞われたのだった。




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