ようやく伝えたいことも伝えられて、彼もそれに快く応えてくれて、一歩踏み出せたことへの安心にようやく解き放たれた。

「セレーナちゃま、本当によかったノ!」
「ありがとう、ジャクリーン」

ずっと見守っていてくれたジャクリーンも、それはそれは嬉しそうに鼻歌まで歌いだした。
ひとまず、抱えている問題は一通り解決した。すっかり気が緩みきってしまって、無性に強い眠気に襲われる。そういえばここ数日は満足に眠れていない。かといって今から仮眠を取ってしまっては、これまで維持してきた生活リズムを崩してしまう。せめて、夜まで我慢しなくては。
寝不足によって霞む目を手の甲で強く擦りながら、ジャクリーンに白衣の裾を引かれてノヴァのラボに入った。扉が開いた瞬間、寝癖のついた黒い頭と対照的に白く綺麗に流れる長い髪が並んで見られた。

「ただいまナノ〜!」
「あ、ジャクリーン。やっと戻ってきた〜」
「セレーナも一緒でしたか。探していましたよ」
「えっ?」

ノヴァとジャックの下に駆けていくジャクリーンを微笑ましく見守っていると、一際背の高い彼の目が眼鏡越しにじろりとこちらに向けられ、居心地悪く身を竦めた。

「貴方に手配していたサブスタンスの解析、報告がまだ一つも上がっていないようですが。期限は昨日まででしたよね?」
「あっ」
「ああ、そうそう〜。いつもはちゃんと期限守ってるのに、珍しいな〜って思ってさ」

血の気が引いて、悪寒のようなものが背筋を鋭く走った。
抱えていた問題がまだ残っていたことを、すっかり失念していた。彼らは特に咎めるでもなく見限るでもなく、ただ淡々と事実を述べているだけに過ぎないのだが、それでもセレーナにとっては重大な過失であり、罪悪感で心臓が縮み上がる。
そこに、ジャックが助け舟を出して労ろうとしてくれる。

「セレーナは最近、ガストのコトで頭がイッパイになってイマシタカラ……」
「おや、ウチのルーキーが何か粗相をしでかしましたか?」
「チガウノ、ガストちゃまはセレーナちゃまのヒーローナノ!」
「う〜ん? ……あ、それってもしかして、恋しちゃった〜とか?」
「えっ、ちっ、違います!!」

ジャクリーンの言い回しに首を捻っていたノヴァが、唐突に閃いたと言わんばかりに明るむ目で見てくるものだから、思わず声がひっくり返ってしまった。そういった浮いた話題には興味のなさそうなヴィクターも、何故か興味を示して視線を突き刺してくる。
確かに彼のことは助けてもらった恩から好意的に見ているし、せっかくの縁なのだから少しでもお近づきになれたらとは思っているけれど。色恋の話を振られることには慣れていなくて、決してそんな感情など持っていないはずなのに顔が一気に熱されてしまった。
やるべきことに一切手を付けられなかった上、その理由が一人の男性に話しかけられないことを思い悩んでいたからだなんて、国の重要な機関に所属する一研究員としてあるまじき失態だ。ありとあらゆる恥に襲われ、いたたまれなさに耐えかねて頭を深々と下げる。

「申し訳ございませんっ! すぐに終わらせますので!!」

十分な休養も取れずに怠く鈍った体に鞭打って飛びだして、自らに与えられたラボに駆け込んだ。
ようやく迎えられそうだった安眠の一時が、またしばらく遠ざかってしまったことに嘆きながら。デスクから適当な紙とペンを手繰り寄せ、決意を込めて大きく文字を描いた。







大げさなため息が、無機質に続くタワーの廊下に潰えていく。パトロールを終えて戻ってきたガストは今、回収してきたサブスタンスをノヴァのラボに届けてきたばかりだ。
今日もパトロールは終始単独行動に終わった。同じセクターのチームメイトたちは皆、早々に各々が思うまま散り散りに消えていった。自分と同じくルーキーであるレンにも一緒に行動しようと声をかけたが、虚しくも冷たくあしらわれてしまった。
相変わらず協調性の欠片もない彼らには、何を言っても無駄に終わってしまう。トレーニングも個々で完結してしまい、メンター側からルーキーを指導しようという素振りなど一切見せない。入所式ではチームワークを学べだとか言っていたが、この惨状では無謀といっていいだろう。

「やれやれ、これからどうすっかな……」

どうにもならない焦りを抱えながら、この溜まっていくばかりの鬱憤を発散する捌け口を探す。

『何か困ったことや悩み事があれば、遠慮なくご相談いただけると嬉しいです』

不意に、つい最近知り合った彼女の声が脳裏に柔らかく降ってきた。彼女なら真摯に話を聞いてくれそうだと思ったが、それこそヒーローですらない彼女に相談したところで困らせてしまうだけだ。
誤解が解けたとはいえ、まだ彼女には少し怯えられている。ただでさえできれば女性とは関わらずに過ごしたいと思っていた自分にだって、昨日の今日でいきなり部屋を訪ねる勇気はない。用もないのに押しかけたところで、警戒されてしまうのがオチだろう。
とはいえ、彼女のラボの位置をジャクリーンに教えられて把握してしまっている以上、ちょうど近くを通りがかる際に多少意識してしまうのも否めなかった。
少し前を通るだけなら許されるだろうか。偶然出入りする彼女と鉢合わせられたならラッキーだと、ほんの出来心からそわそわと落ち着かない足を向かわせた。

「ええ……」

そんな淡い期待は、扉に貼り付けられた手書きの注意書きを前に呆気なく砕かれてしまったが。

『関係者以外立ち入り禁止』

関係者という字の下には括弧書きで特定の名前が連ねられている。当然ながら、自分の名前は入っていない。
恐らく部屋の主が書いたのだろうが、彼女の人柄には似つかわしくないと思われる少し乱れた字が鬼気迫る何かを物語っている。

「ああーッ! ガスト、入ってはいけマセン!」
「おわっ!?」

横から強く突きつけられる剣幕に意表を突かれ、びくりと体を大きく揺らしてしまった。丸みを帯びた白い機体は慌ただしくこちらへ駆けつけ、扉の前に立ち塞がった。

「セレーナは今、大事な修羅場を迎えているのデス! 用があるナラ、あと少しダケ待ってクダサイ!」
「大事な修羅場って……?」

言葉の意図を掴み損ねて困惑していると、何かが激しく叩きつけられるような音が部屋の中から大きく響いた。

「なっ、何だ?」
「無事に終わったようデスネ」
「あっ、ジャック! お前は勝手に入っていいのかぁ!?」

有無を言わさず遠慮なく部屋に入っていくジャックの後を慌てて追う。彼女の部屋に無断で踏み入ってしまうことに強い躊躇いが制したが、そんなものは床に俯き倒れる彼女を目の当たりにした衝撃で吹き飛んでしまった。傍らには倒れた椅子が横たわっている。

「まるで締め切り明けのノヴァのようデス……」
「お、おい、大丈夫か!?」

悲観しながらセレーナの体を揺り動かすジャックに続き、激しい焦りに揺さぶられて駆け寄ると、ぴくりと身じろぎした彼女がゆっくりと体を起こした。

「あ……アドラー、さん……?」

とろんと垂れた無防備な目にしばし見つめられて、不意に心臓を柔く掴み取られる。途端に体温が上昇して、かけようとしていた言葉を見失ってしまった。
そのまま硬直していると、事切れたように華奢な体が傾いた。

「えっ、ちょっ、ちょっと!」

床への衝撃から守るべくとっさに抱きとめたものの、胸元に顔を埋めたまま動かなくなった彼女の温もりを感じてますます胸の鼓動が逸る。
ジャックがいる手前、あまり動揺を表に出したくはなかったのだが、さすがにこの状況には耐えられそうにない。慌てふためいていると、神妙な面持ちでジャックが語りだした。

「セレーナは昨日カラ……イエ、昨日ドコロかもう何日もロクに寝ていないノデス」
「えっ……ジャクリーンも言ってたけど、それって俺が原因なんだよな? でも、俺のことなら昨日ちゃんと解決したはずなんだけど」
「その間、担当していたサブスタンスの分析がマッタク進んでいなかったヨウデ……昨日、期限を延ばしてもらって、全て徹夜で間に合わせたノデス」
「あー、確かにそんなことも言ってた気がする……って、結局全部俺のせいじゃねぇか!」

こちらは何も悪いことはしていないし、むしろ身の危機から助けたはずなのだが、それでも自分のせいでこうも追い込まれていたと知ると罪悪感に苛まれる。

「……礼なんて、気にしなくてよかったのにな」

彼女の意識がないのをいいことに、ぽん、ぽんと水の色をした肌触りのいい頭を撫でて慰める。真面目が過ぎるのも少し問題だが、その健気さを否定する気はない。知らない間に真っ直ぐに注がれていた優しい想いを今になって受けとめて、ふっと口元が緩む。
ひとまずはゆっくり寝かせてやろう。ぐったりとした体を横抱きにして持ち上げると、思った以上に軽々とした手応えに一抹の心配が生じた。

「軽いな。ちゃんと食ってんのか?」
「セレーナは少食デスカラ。特に研究に没頭すると、食べるのを忘れてしまうノデス。ホラ、あれは昨日ジャックが置いていった夜食……」

悲しげに腕で示された先、デスクに置かれた皿には手を付けられることのなかったであろう二切れのサンドイッチが寂しく乗っている。

「うん、綺麗に残ってるな。つか、それって昨日から何も食ってねぇってことか」

さすがにそれでは胃の中が空になっていることだろう。酷使されて疲れ果てた小さな体を労ってやりたくて、仮眠室のベッドに運びながら思案する。

「うーん。いつ起きてくるかわからねぇけど、一応軽くメシでも作っておいてやるか。さすがにあれだけじゃ足りねぇだろ」
「ジャックも手伝いマス。ちょうどこれからノヴァのゴハンも作ろうと思っていマシタ」
「おう、じゃあ一緒に作っちまうか」

ジャックならセレーナの好きなものを知っているだろうから、協力してくれるなら心強い。
セレーナの体をベッドに下ろし、風邪を引かないようにそっとシーツをかけてやる。健やかな寝顔をついまじまじと見つめてしまって、思わずぽろっと胸に疼く情がこぼれた。

「……やっぱ可愛いよな、あんた」

しんと静まり返った部屋に自分の声がいやに響いて、はっと我に返って口元を手のひらで覆う。
何やってんだ、俺は。すぐに自省して目を逸らした。自らの顔に触れる指先は、既に異常な熱を感じていた。





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