沸々と体の奥底から沸き上がり、体内を巡る熱。別れてからとうに時間は経っているはずなのに、自分のものよりもずっと太くて逞しい腕に強く抱きしめられた感覚が生々しく残っている。まだ彼の匂いに包まれている気がして、過剰に意識せざるを得ない。心臓がばくばくと壊れたかのように鼓動を打って、頭にまで昇り詰める熱に逆上せてしまいそうだった。
あんなふうになりゆきでガストと密着したのは初めてではなかった。けれど、以前はほとんど一瞬の出来事であったし、今回はガストの様子がいつもと違った。
苦手としている女の子に絡まれ、精神的に参っていたのかもしれない。その心境は身をもって知っているから、理解はできる。だけど、きっと、それだけではなくて。
耳元でいつになく真剣な声で吐露されたのは、こちらが自惚れてしまいそうな甘い言葉ばかり。彼を見つけた瞬間からざわりとさざめいていた不安が掬い取られて、代わりに熱を帯びて高まる喜びに心が満たされていった。
ただ、それを心置きなく享受するには後ろめたさもあった。

「ねぇねぇ、あのヴァンパイアカッコよくない?」
「わかる〜! 見たことないイケメンだけど、ルーキーなのかな?」
「わたし、あの人のこと応援しちゃおっかな〜。ルーキーだったらまだ知名度も低いし、今ならファンも少ないでしょ? てか、彼女とかいるのかな?」
「あははっ、ちゃっかり狙ってるんじゃん!」

周囲の女性たちの好奇と好意に沸き立つ声が、いやに耳につく。
スタジアムの中心では、ゴシックな仮装に身を包んだノースセクターの研修チームが会場内の注目を集めている。ジャクリーンも考案に携わったという衣装はとても様になっていて、靭やかで優雅にすら感じさせる彼らの動きを最大限に惹き立てている。
その長身を覆う黒のマントを華麗に翻しながら堂々たる振る舞いを見せるガストを、改めてじっくりと眺める。普段はどちらかというと開放的に制服を着こなしているけれど、ヴァンパイアに扮した彼は首元や手首まで厳格に覆われた衣装を纏い、それでいて髪型をすっきりと見せるカチューシャを外し、いつもと違った気品と色気を纏っている気がして──街での出来事をまた思い出し、鮮明に刻まれた羞恥に耐えかねて思わずやんわり目を逸らした。
肌で感じる限りでは、観客席の反応は上々。ガストの魅力がたくさんの人たちに知れ渡って、純粋に誇らしいと思う。彼が『ヒーロー』として愛されるようになっていくのは、とても喜ばしいことだ。なのに……否、だからこそ、ある罪悪感が棘となって胸をささやかに刺すのだろうけれど。

「マリオンちゃまたちの仮装、とっても好評で嬉しいノ〜」

はっ、と目の前の現実に意識を戻す。ジャクリーンの満足げな声が、暗がりに落ちていく思考を明るみに掬い上げてくれたのだった。
隣の座席にちょこんと座るジャクリーンを挟んで、そのさらに隣でジャックとノヴァも楽しそうにマリオンたちを見ている。

「うんうん。配役もピッタリだし、みんなよく似合ってる。マリオンの猛獣使いなんて、すっごく様になってるよ〜」
「ノヴァが褒めてくれたと知ったラ、マリオンもきっと喜びマス」
「そ、そうかな……?」
「そうナノ! 終わったら、マリオンちゃまに教えてあげなくちゃナノ〜!」

ノヴァの反応がややぎこちなくなったのは恐らく、近頃理由もわからずマリオンに避けられていることを気にしてのことだろう。忙しくて機会を奪われているだけだと思い過ごすようにしていたのが、どうやらヴィクターにも指摘されてしまったらしく、現実として受け止めざるを得なくなったのだという。
家族間の問題であって、他人が踏み込むべき領域ではない。そう線引きしても、ひどく落ち込む姿を度々目の当たりにしているとやはり心配になる。特に、マリオンがノヴァに対して執着することはあっても、よそよそしい態度を取るだなんて今まで見たことがなかったから。
それを知ってか知らずか、ジャックとジャクリーンの無邪気な言葉は、そっとノヴァの背中を押そうとしてくれているように思えた。

「ねぇねぇ、セレーナちゃまはどう思う?」

ぼんやりとノヴァのことを案じていると、不意にジャクリーンに問いかけられて我に返った。

「えっ……と、そうねぇ。皆さん、とても似合っていて素敵だと思うわ〜。あの『ハロウィンの悪霊』も迫力満点だし、さすがヴィクター博士とノヴァ博士の共同作といったところよね」
「そうじゃなくて〜。ジャクリーンが聞きたいのは、ガストちゃまの仮装のコト」
「えぇ……」

とっさに思いつくがままの感想を並べるとつい職業上の目線での評価に行き着いてしまったが、それは当然ながら求められていた回答ではなかったようで、ジャクリーンは不満を露わにした。なんだか小さな子どもに窘められているみたいで、ばつが悪くなって肩を小さく竦める。

「ガストちゃま、早くセレーナちゃまにも見てもらいたいってずっと楽しみにしてたのに、全然セレーナちゃまに会えなくて悲しんでたノ」
「何度かセレーナの部屋を訪れていたようデスガ、尽く留守だったと聞きマシタ」
「そ、そうだったのっ?」
「最近、おれのところにいることが多かったもんね〜」

まさか知らない間にそんな事態になっていたとは、心底申し訳なくなった。
そういえば、本番までに仮装した姿を見てほしいと、この間顔を合わせた時にも言っていたっけ。そう望んでもらえるのはなんだか特別みたいで嬉しくて、当時はとても楽しみにしていたけれど、作業に追われているうちにいつしか気にかける余裕もなくなっていて、気づけば今日を迎えていた。
先程だって、街でようやくヴァンパイアの姿を目にすることができたというのに、結局最後まで感想を伝えるタイミングを逃してしまった。
歓声が一際強く会場の空気を震わせる。どうやら彼らのパフォーマンスが終わったらしい。開始時よりも周りから黄色い歓声が増えているような気がするのは、既に名の知れているマリオンやヴィクターだけでなくルーキーたちにも注目が集まるようになったからだろう。
少し前の【LOM】ではチームの険悪な雰囲気が見る者にまで伝わっていたけれど、今ではまるで違って見える。

「ジャック、マリオンちゃまに会いに行こうナノ〜!」
「そうデスネ」

熱い余韻を残しつつ、席を立つ観客たちが通路へと流れていくインターバル。軽やかに座席から飛び下りて手を引くジャクリーンの後を、ジャックも続く。大切な家族であるマリオンの活躍を見守れて、それはもう嬉しそうだ。
その傍らで、ノヴァが重そうに腰を上げる。

「さてと、おれはそろそろ戻らなきゃ。まだまだ作業が残ってるんだよね〜」
「それなら、やっぱり私も一緒にお手伝いします。今なら私の担当したチームも終わって余裕がありますし」
「えっ、いいのっ? いやぁ〜、実はさっきはちょっと見栄張って大丈夫〜とか言っちゃったんだけど、やっぱり誰か手伝ってくれないかなぁ〜って思ってたところなんだよね〜。あ、でもガストくんに会いに行かなくて大丈夫?」

すかさず続けて席を立つと、ノヴァはやや疲労を滲ませた顔をぱっと明るませたが、すぐさまこちらを案じて優しく揺らいだ。

「そうナノ。ガストちゃまも、きっとセレーナちゃまを待ってるノ」

後押しするように、ジャクリーンが懸命に訴えてくる。きっと、タイミングが合わずに落ち込む姿を見せていたというガストのためでもあるのだろう。
ガストが喜んでくれるのなら叶えてあげたい気持ちはあるけれど、師匠が一人では手に負えないほどの作業量に追われているというのに、それを見過ごして甘えてばかりいるわけにもいかない。
それに、今はガストにどんな顔をして会えばいいのかもわからないから。ゆるゆると首を横に振ってみせる。

「ガストとは落ち着いてからゆっくりお話がしたいから、今は我慢しておくわね。それに、お手伝いをすればいろんなロボットに触れられるし、今後のイベント戦での参考にもなると思うの」
「そっか。セレーナちゃんがそう言ってくれるなら、甘えちゃおっかな〜」

弟子としての真剣な思いを汲み取ってくれたのか、ノヴァは穏やかに微笑を浮かべて頷いた。

「ジャクリーン、行きマショウ。お仕事の邪魔をしてはいけマセン」
「わかったノ〜」

ジャックに宥められたジャクリーンも、少々がっかりした様子ではあるものの大人しく従ってくれた。
そうしてマリオンの下へ向かう愛らしいロボットたちの後ろ姿を見届けてから、バックヤードへ戻るノヴァの後に続き、溢れんばかりの熱気を掻き分けて通路のなだらかな階段を上がっていった。
コンコースに繋がる通路口の手前で、思い立ってグラウンドを振り返る。どこかやりきった表情を浮かべるガストが仲間たちと退場していくのを眺めていると、温かな情が込み上げてきてふっと柔らかく唇が綻ぶ。

「お疲れ様」

そして小さく囁いた労りの言葉は、呆気なく周囲の賑わいに呑まれていった。



ノヴァが引き受けた依頼がとんでもない量だと聞いてはいたけれど、実際に目にすればそれはもう卒倒してしまうほどだった。バックヤードに保管された数多くのロボットやドローンの大半は、ノヴァが生み出したものだ。途中から、駄々を捏ねてヴィクターの手を借りることに成功したというが、これだけの量を一人でこなすのはいくら天才で常人離れしているノヴァでも無茶な話だと思う。
これでも半分以上は終わっているのだという作業に目まぐるしく追われ、気づけば【ハロウィン・リーグ】も終盤に差し掛かっているらしかった。

「うん、後は何とかなりそう。手伝ってくれてありがとうね、かなり助かったよ〜」

ついに終わりが見えてきたらしい。ノヴァは希望の輝きを小さく瞳に宿し、疲労を見せながらも真剣に引き締まっていた顔を晴れやかに緩ませた。

「いえ、お役に立てたならよかったです〜……」

つられて研ぎ澄まされた集中から解放されるなり、尖らせ続けるあまり擦り切れた神経が体をも疲弊させた。ひとまず凝り固まった身を解そうと背筋から腕の先までをうんと天へと伸ばし、ずっと俯いていた顔を上げるとほんのり目が眩んだ。ぱき、ぱき、と小さく体中から悲鳴があがっている。
少し手伝っただけの自分ですらこの有様だ、朝からずっと絶え間なく作業に打ち込んでいたノヴァの疲労度は計り知れない。『ヒーロー』たちの晴れ舞台のために身を削って貢献してきた師を労りたくて、せめて何かドリンクの差し入れでもしようと、気力を削がれて力尽きつつある体に気合いを叩き入れて立ち上がった。
しかし、スタジアムに関係者として足を踏み入れる機会などそう多くはない上、大抵はノヴァに付いて必要な場所だけを行き来していたものだから、位置関係をろくに把握していなかった。そんな状態で、当然ながら自販機の場所など知るわけもなく、迷路のように続く通路をさまよう羽目になってしまった。

「私、ちゃんと元の場所に戻れるかしら〜……」

人気がなく沈黙を貫く通路に、いやに響く自分の弱々しく情けない声。そもそもこのエリアは立ち入ってよかったのか、それすらも怪しい。これ以上闇雲に進むのはまずい気がして、一度引き返そうと踵を返す。しかし、帰り道は既にあやふやだ。
タワー内で迷子になったジャクリーンは、いつもこんな気分を味わっているのかしら。と、余計な同情を寄せながら、途方に暮れ始めたところ。

「あれ、セレーナ?」

背後から耳によく馴染む声が聞こえて、縋る思いで振り返った。

「ガスト……」

大人げなくも心細かったのかもしれない。先程まであれほど顔を合わせるのを躊躇っていたのに、今は顔を見ただけで安心してしまった。
一方、まだヴァンパイアの姿をした彼は、思いもよらぬ状況に目を丸くしてこちらを見ている。

「こんなところでどうしたんだ? 確かノヴァ博士の手伝いで忙しいって、ジャックが……」
「もう大丈夫みたいだったから、ノヴァ博士に飲み物でも差し入れしようと思ったのだけれど……自販機を探しているうちに、迷っちゃったの」

経緯を話しているうちに恥を晒している気分になってきて、次第に声がか細くなっていった。
すると、ふっとガストの弛んだ唇から笑いが吹き出る。

「なんか、ジャクリーンみたいだな」
「もう、それは言わないでちょうだい〜っ」
「ははっ、悪りィ悪りィ」

そこそこ気にしていたのに。こちらが小さく憤慨するのに対して、ガストは遂に堪えきれなくなった笑いに声を震わせた。それでは謝罪になっていないと文句を言ってやりたくなったが、自業自得でもあるのでぐっと固く飲み込むことにした。

「ほら、自販機ならこっちだぜ。案内してやるよ」

困ったように垂れる眉に呆れをほんのり浮かべつつ、通路の奥を指差しながら向けられた微笑は、損ねた機嫌を宥めようとしている。それがとても優しく見えて、素直に嬉しいと思ってしまった。

「本当? ありがとう、とっても助かるわ」

だから、差し伸べられた親切をありがたく手に取って、大人しく頼ることにした。
どんなに恋心を掻き乱されても、不安に思うことがあっても、ガストの笑顔と優しさに触れれば全て安心に変わっていく気がして。結局は、彼に会いたかったのだと思い知らされたのだった。

マントを揺らめかせて前を行くガストの真っ直ぐな背中を、歩きながらじっと見つめる。街では色々と慌ただしくてそれほどじっくり見ていられなかったけれど、やはり間近で目の当たりにするとその魅力がより伝わってくるものだ。

「改めて見ても、本当に素敵ね。とってもよく似合っているわ」
「へっ?」

率直に感じたままを呟くと、目の前の背中がぴくりと身じろぎをした。意表を突かれて強張る顔が振り向いて、こちらを凝視する。
すらりと伸びる長い脚が若干縺れているうちに、追いついて隣へ並んだ。

「衣装のクオリティーはもちろんだけれど、何よりガストってスタイルも良いし顔立ちも整っているから、やっぱり様になるわよね。周りの女の子たちもみんな、すっかりガストの虜になっていたわ」

なんだか気恥ずかしくなってきたのは、彼も同じらしい。ほのかに顔を赤らめて、困惑に染まったはにかみを見せている。

「えっとぉ〜……急にどうしたんだ?」
「さ、さっき言いそびれちゃったから、今のうちに言っておかなくちゃと思って。前に、聞きたがっていたでしょう?」
「あの時の話、覚えてくれてたのかっ?」

綺麗な緑の目を嬉しそうに煌めかせ、声を弾ませる様子に、胸を擽られた。他愛のない口約束だと思っていたけれど、まさかそこまで喜ばれると思ってなくて、同時に罪悪感を抱く。

「ジャックとジャクリーンに聞いたわ、何度か私の部屋まで来てくれていたのよね? 私がもっと効率良く作業を進められていたら、迎えてあげられたのだけれど……」
「いやいや! ほら、前に追い返される覚悟で来るって言っただろ? あんたもこの【ハロウィン・リーグ】のためにすげー頑張ってたんだし、俺のことなんて後回しにして当然だって。むしろ、俺たちの本番を観てくれたってだけでも嬉しいよ」

少しは愚痴の一つでも言ってくれて構わないのに、惜しむ様子もなく、懐の深い彼はいつだってこちらの事情を慮って許容してくれる。確かに気を遣ってくれているのだろうけれど、その優しさは真っ直ぐで、決して上辺の言葉ではないとわかるから、懐に心地良く沁み込んでいく。

「ガストは本当に優しいわね」
「そんなの、あんただって人のこと言えねぇだろ?」
「そ、そうかしら」

照れくさそうにするガストに指摘され、妙に意識してしまう。そういった言葉は他の人たちからも言われているはずなのに、胸の奥がざわめいてほんのり熱い。

「あ。ほら、あそこ」

黒いグローブに包まれ、鋭く尖った爪の先が指す先を目で辿ると、自販機が稼働音を低く唸らせてひっそりと佇んでいた。

「本当、よかった〜」

やっとのことで見つけられたおかげで、すっかり気が抜けてしまった。軽く足早にガストの隣を離れ、自販機の前を陣取って陳列された商品を吟味する。

「う〜ん、やっぱり疲れた時は甘いものがいいかしら」

くたびれたノヴァの姿を思い浮かべながら、小さく唸り声をあげて思案するうちに、ガストのことを意識の外に追いやっていた。だから、彼がどんな表情で自分を見ているかなんて考えもしなかったし、どんな思いを燻らせているかなんて知るわけもなかった。

「……なぁ。その、あんたも俺の虜になってくれてたりしたのか?」
「へっ!? あぁっ!」

ミルクティーのボタンを押そうとした瞬間、探るように投げかけられた問いが動揺を誘い、手元を狂わせた。声をあげた時には既に一つ上のスポーツドリンクのボタンに指先が当たっていて、取り出し口に缶が落ちる音が虚しく響き渡った。
嘆かわしく頭を抱え、力のないため息をこぼす。

「間違えちゃった〜……」
「な、なんかごめん」

決まりが悪そうに吐き出された謝罪が、傍らでぎこちなく揺れた。
放っていようが、そこに転がる商品は変わらない。諦めて、屈んで取り出し口へと手を伸ばす。その間、先の唐突なガストの発言の意図を汲み取る努力をしたが、静かに混乱した思考ではとても叶わなかった。

「えっと、いきなり何の話?」

スポーツドリンクの入った缶を片手に改めて向き合い、怪訝な目でガストの顔を見上げる。と、ガストは落ち着きなく目を泳がせながら、辿々しく唇を動かす。

「いや……みんなって言ってたから、あんたもそうなのかなって…………悪りィ、変なこと言っちまった。今のは忘れてくれ」

恐る恐る期待を疼かせつつ、弱々しく潰えていく言い分。そんなことを言われては、勘違いして自惚れてしまいそうだ。まるで、求められているみたいだなんて。
顔に熱が灯る。恥ずかしくてこのまま終わらせてしまいたいのに、真摯に応えてあげなければという思いが強く体を突き動かす。しかし、胸を張ってそうだと断言する度胸は持てなくて、後ろめたさが良心を引きずった。

「虜になるっていうことは、夢中になってその人のことを見ちゃうってこと、よね」
「えっ? そりゃあ、まぁ……そういうことだと思う、けど」

まさか返答があると思っていなかったらしいガストは、小さく狼狽える。そして、気まずく泳いでいた目が、じっと先を待つように緊張を帯びてこちらを見据える。
もう後戻りはできないのだと、悟らざるをえなくなった。

「だったら、わからないわ」
「わ、わからないっ?」
「ガストのこと、まともに見れなくなっちゃう時があるから」
「え……」

どんなふうに捉えられたかはわからない。ただ、ガストの表情には動揺が走っていて、優しげな緑の目が微かに見開かれていた。

「そ、それってどういう」
「今日のガストはなんだかいつもと違うから、妙に緊張しちゃうというか……どうしようもなくドキドキして、恥ずかしくなっちゃって……見て、いられなくなって」

自分は何を言っているのだろうと、自嘲する。こんなの、露骨に意識しているのだと告白しているようなものなのに、彼にはどうしても嘘を吐きたくなくて。固く強張る喉を震わせ、この胸に焦げつく異常な熱を正直に白状してしまった。次第に目を合わせていられなくなり、逃げるように頭を俯かせる。
しん、と静まり返る空間。自販機の働く音だけが廊下に響く。一向にガストからの応答がなくて、不安に駆られてそっと顔を上げた瞬間、大きな影が視界を覆った。

「ガスト……?」

気づけばガストが距離を詰めてきていたものだから、ぎょっとして後ずさった。が、すぐに自販機が背後を阻み、彼の腕が肩を掠めて自販機へ伸びて、呆気なく逃げ場を失ってしまう。

「そんなこと言われたら、もっと見てほしいって思っちまうんだけど」

ガストにしては珍しい、ねだるような声。先程よりもずっと色濃く緑の瞳に浮かび上がる期待を目の当たりにして、心臓を力強く掴まれたような感覚に息を呑んだ。いつも優しさを注いでくれる癒やしの緑の瞳が、今は溺れそうな熱を注ごうとしている。
ヴァンパイアの姿をした彼は、本当に別人みたいに思えて。だけど、目の前にいるのは紛れもなくガストで。これ以上は心が保たないと危機を感じ、慌てて拒もうとする。非力な腕で鍛えられた厚い胸板を必死に押し返したところで、びくともしないけれど。

「ま、待って、そんなに近づかないでっ」
「なっ、なんでだよ?」
「だって……ドキドキしすぎて、おかしくなっちゃう、から」

力なく頭をその胸に預けて、絞り出たのは今にも尽き果てんばかりの声で。激しい焦りと羞恥心に追い詰められるあまり縺れる舌は、抵抗するには頼りない言葉しか紡げなかった。
彼への過剰な意識を曝け出した今、いっそ消えてしまいたい。もう許してほしい。そう願っても、懇願するような低い声がすぐ間近で耳に甘い言葉を吹き込もうとする。

「だったら、いっぱいドキドキしてくれよ。俺がこんなに近づきたいって思えるの、あんただけなんだから」

ぞくりと体の芯にまで熱い刺激が走り、思わず身震いした。感じたことのない感覚に恐ろしくなって、助けを求めて縋りつこうと、無力な抵抗として彼の胸元に添えていた手に力が入る。痛いくらいに早鐘を打つ胸の鼓動が体中に強く響き渡るものだから、気分が悪くなってじわりと涙が目に滲む。
いっそ、このまま委ねてしまえば楽になれるのだろうか。熱に浮かされた理性がどろりと溶けて、胸の奥に秘めていた願いが甘く剥き出しにされていく。

『──あんなイケメン独り占めするとかズルいよねぇ』

そこへ脳内に重く沈むようにリフレインする、街で耳にした女性たちの妬み。急激に血の気が引くのを感じて、はっと目が覚めた。
あの時、それは彼女たちの勝手な想像で、自分にはそんなつもりはないのだと、きっぱり否定することができなかった。彼に特別だと言ってもらえて喜んでいるのは、つまりそういうことなのではないか──あの瞬間、ガストと過ごす幸せな時間を、他の誰かに奪われたくないと思ってしまっただなんて。
今だって、ガストに求められて、どうしようもなく取り乱しながらもきっと心のどこかで喜んでいる。だけど、それはいけないことなのではないか。
観客席で彼に熱を上げる女性たちを思い出す。『ヒーロー』はみんなに愛されるべきで、なのに自分がそれを取り上げてしまうことが恐ろしくて、だけど他の誰かに特別な時間を渡したくないという身勝手な感情が反発して、そんなことを考えてしまうことが苦しくて。

「──だめ!」

混沌に渦巻く負の感情を断ち切ろうと、とっさに力いっぱい叫んだ。

「えぇっ!?」

突然のことに、ガストは愕然としている。まさかこの流れで、拒絶に近い叱咤を受けるとは思っていなかったらしい。

「だって、私たち、お友達だもの。こんなの、お友達の距離じゃないわ」

震える声で彼に告げた言葉は、自分自身への戒めでもあった。いつしか曖昧になっていた線引きを、もう一度明確にするための。

「ええぇっ……で、でも、俺に近づかれたり触られるのは嫌じゃないって、前に言ってたよな?」
「そう、だけれど……でも、アキラやウィルだってこんなに近づいたりしないし、これは少し度を越していると思う」
「そ、そんな……」

途端におろおろしてこちらの顔色を窺おうとするガスト。その目を見つめればまた情に絆されそうな気がして、逃げるように視線を逸らす。

「私たち、最近少し近づきすぎたと思うの。見ている人たちに変な誤解を与えてもよくないし、もう少しお友達として適切な距離を保ちましょう?」
「な、なんで今更そんなこと言うんだよ。その、さっき街で色々あった時だって、何も言わなかったじゃねぇか」

焦りを見せるガストの切実な訴えは、尤もだと認めざるを得ない。今まで散々許しておいて、今更だと自分でも理解している。でも、元の距離に戻すのなら、もう今しかないのだ。

「だって、ガストはみんなの『ヒーロー』でしょう?」
「何だよそれ……」

今、自分は毅然と真っすぐに彼を見ていられているだろうか。納得がいかないと言わんばかりのもどかしそうな顔をした彼の、心底悲しげな呟きがすぐ傍でこぼれ落ちる。
ガストには笑っていてほしいのに、そうしてあげられない自分が恨めしい。でも、これ以上我儘になりたくないし、彼を身勝手な感情で縛りつけるわけにはいかない。たとえこの心が切り裂かれて傷だらけになっても、一線を引いておかなくてはいけないのだ。

「……私、そろそろ戻らなくちゃ」

ガストが言葉を失って立ち尽くすのをいいことに、話を強引に切り上げようとする。このままだと、なし崩しになってしまいそうだから。

「そうだわ。せっかくだし、このスポーツドリンクはガストにあげるわね。初めてのイベント戦、お疲れ様」
「え。あ、あぁ、サンキュー……」

平然とした態度を装って、少し温くなった缶を一方的に手渡すと、彼は呆然としながら流されるがままに受け取った。

「今度こそはちゃんとミルクティーを買わなくちゃ〜」

ぎこちなくほんのり上擦る声は白々しさを主張して、いたたまれなくなる。もっと上手く感情を隠せるようになれたらいいのにと叶わぬ願いを抱きながら、再び自販機にコインを入れる。

「なぁ、セレーナ。あのさ……」
「なぁに〜?」
「……な、何でもない」

至極何か言いたげに声をかけてきたガストだったが、こちらに対話をする気がないと察したのか、すぐさま口を噤んだ。ここで強引に問い詰めようとしないところが、彼の優しいところだと思う。
今度こそ正しいボタンを押して間もなく、また缶の落ちる音が硬く響いた。取り出し口から掴み取ったのは、確かにミルクティーの缶だった。ようやくここから立ち去れると、安堵する。

「無事にドリンクも買えたことだし、戻るわね」
「ま、待ってくれ」

なのに、目もくれず一歩踏み出した瞬間に腕を力強く掴まれて、軽々と引き戻されてしまう。どうして、と目で訴えると、彼は優しく案じるような眼差しを向けて。

「一人だとまた迷子になっちまうだろ? 送るよ」

きっと彼のことだから、純粋に心配してくれているのだろう。どこまで人が善いのか。しかしそれを拒みきれない自分も、人のことを言えないくらいに甘いのかもしれない。

「それじゃあ……お言葉に甘えて、お願いするわね」

ガストの表情が緊張から解けていくのを感じて、何故か自分も安心してしまったのだった。







初めてのイベント戦を成功に終え、そして迎えた今回の【LOM】。マリオンの熱心かつ指導の下、チーム内の連携が強化されたこともあって、ノースセクターは無事に悲願の一位に返り咲くことができた。とはいえ、サウスセクターと同率での一位だったために、マリオンは至極不服そうではあったが。
ともあれ、チームの雰囲気も以前より良くなってきたことだし、取り巻く環境は少しずつ改善されつつあると言ってもいいだろう。これがゴールだとは思っていないが、厳しいトレーニングを乗り越えたこともあって達成感もひとしおだ。
そういえば、セレーナは見届けてくれていただろうか。ちらりと満員の観客席を探しても、姿を見つけることはできなかった。たとえ友達としてはっきりと一線を引かれても、いつも応援して労ってくれていた彼女の思いやり深さは偽りではないと信じている。否、信じていたかった。あれから、まともに顔を合わせてはいないけれど。
あんなことがあってから、何となく彼女の部屋にも行きづらくなってしまった。ただの友達同士なのに、仕事部屋とはいえ女の子の部屋へ不躾に押しかけるのは実はまずいことだったのではないかと、今更ながら反省したのだ。初めこそそれなりに躊躇もあったが、彼女がいつも快く迎えてくれていたから、いつしか当然のように忘れていた。
そうやってふとした瞬間にセレーナに思いを馳せつつ、しかし不毛だと考えないように努めていた矢先。

「アキラ、ウィル。お疲れ様」

不意に視界の外から優しい声が心地良く響いてきて、どきりと心臓が過剰に反応した。

「お、セレーナじゃねーか!」
「セレーナ、今回も観てくれてたんだ」

アキラもウィルも嬉しそうに表情を明るませ、ジャックたちに付き添って現れたセレーナを迎え入れる。

「そんなの当然じゃない。それにしても、二人とも前回よりも堂々として見えたわ。これも成長の証なのかしら〜」
「そりゃあ、オレ様は日々進化していってるからな!」
「俺も、前回よりも活躍できたかなって自信を持てるようになったよ」
「そう、それはよかったわ」

セレーナも二人とは気兼ねなく楽しそうに談笑していて、密かに疎外感を覚える。この間までの自分なら、そこに難なく混ざれていただろうに。羨ましくてじっと眺めていると、視線を感じたらしいセレーナがこちらに気づく。

「ガストも、お疲れ様」
「え。あ……あぁ……」

労いの言葉と共に向けられた笑みは、いつも見せてくれていた花咲くようなものとは違ってどこかよそよそしくて。アキラとウィルがいる手前、微かな動揺も見せてはいけない気がして、こちらもぎこちなく笑って返すことしかできなかった。
せっかく会えたのだから、何かもっと話がしたい。そう願って声をかけようとした瞬間、彼女はさらりと躱すように視線を外した。

「それじゃあ、私はタワーに戻るわね」
「えぇっ、もう行くのかよ?」

思いの外淡白に済まされた挨拶に、アキラも拍子抜けしている様子だ。不満を垂らすアキラに対し、セレーナは小さな子を宥めるような調子で言い聞かせる。

「今日のうちに終わらせておきたい研究があるのよ。本当はすぐに戻ろうかと思ったのだけれど、ジャクリーンに誘われて、せっかくだし顔だけでも見ておこうかと思って」
「そっか、忙しいのにわざわざ時間を作ってくれたんだな」
「そんなことはないわ、私が応援したくてここにいるのだし。それに、おかげでいい息抜きにもなったわ」

気を遣って遠慮深く表情を翳らせるウィルに見せるのは、人を安心させる温かい微笑。実際、ウィルの顔は次第に和らいでいる。

「そっか……そう言ってもらえてよかった。俺、『ヒーロー』として頼りにしてもらえるように、もっと頑張るよ」
「えぇ、応援しているわ。でも、ウィルは頑張りすぎるところがあるから、程々にね」
「あはは、返す言葉もないな……でも、ありがとう」

朗らかに言葉を交わすウィルとセレーナを見て、胸が不安にざわめく。物腰の柔らかさが似ている二人が醸し出す空気はとても穏やかに馴染んでいて、勝手ながらお似合いの二人だと思ってしまった。
以前、セレーナが恋をしているという話を耳にした時も、同じことを感じたっけ。もしかしたらウィルがその相手なのかもしれないと、疑ったりもした。今だって、自分なんかよりもウィルの方が彼女に合っているのではないかと、余計なことを考えてしまっている。

「オレだって、すぐにでも【メジャーヒーロー】に昇り詰めてやるから、見てろよな!」
「あらあら、それは楽しみだわ。期待しているわね」

何故か張り合うように主張するアキラにも彼女は優しく乗ってやって、それから一瞬だけこちらを一瞥した。思わず身構えたが、彼女は何も言わず去っていってしまった。どこか、悲しげに目を伏せて。
傍にいたのに、まともに声もかけられないだなんて。もどかしさをひとりぐっと飲み込み、小さくなっていく彼女の背中をただ虚しく見つめた。







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