「んんん〜っ」

ベッドの上で上体を起こし、腕を突き上げて思いきり体の筋を伸ばす。心地良いほのかな痛みを感じながら、腰をゆっくり捻ってみたりした後、やがて深く息を吐き出して全身の力を抜いた。
こんなにもすっきりと爽快な目覚めを迎え、体が軽いと思えるのは久々だ。これも、ひとまず全ての心的不安と多忙なスケジュールから解放され、健康的な生活を取り戻したおかげだろう。特に睡眠時間をたっぷり確保できて、ここ数日で肌の調子も良くなった気がする。
ここしばらくなかったくらいに朝の支度が手際良く済んでしまい、それでもまだ時間に余裕があるものだから、久々に体を動かそうかと思い立った。日課にしようとしていたウォーキングも、色々あって二、三回しか決行できていない上に、気づけばもう一ヶ月はまともに運動していない。さすがに危機を感じて、いてもたってもいられなくなった。
ふと、ガストのことを思い出す。当初は一緒にウォーキングに付き合ってくれていたけれど、今でもあの約束は有効だろうか。とはいえ、今日はさすがに約束もしていないし、急に誘うのも悪いと思い、胸でささやかに疼く期待をすぐさま振り払った。
ともかく、今日の天気予報は快晴。ウォーキングを再開するにはちょうど良い。タワーの外へと赴く足取りは、とても軽やかだった。

ついこの間ハロウィンを迎えたはずなのに、いつしか季節は冬に差し掛かっていた。ミリオンパークに生い茂る緑も、今は少し寂れて見える。寒いのは億劫だけれど、今日はまだ柔らかな陽射しが暖かくて過ごしやすいし、冬の朝の澄んだ空気は嫌いではない。
朝のミリオンパークは体力作りや健康維持のために、黙々とランニングに打ち込む人々や、集って体操や太極拳などに励む年輩の人々が見られる。仲間がたくさんいると思うと、赤の他人なのに勝手に励まされる。隣にガストがいれば、もっと楽しく頑張れたかもしれない。なんて、つい考えてしまうのは内緒だ。

「ガストが忙しくなければ、また今度誘ってみようかしら」

ぽつりと独り言をこぼしながら、ガストの反応を思い浮かべてくすりと笑った。彼ならきっと、喜んで付き合ってくれるだろう。今なら、安心してそう思える。
それにしても、いざ歩いてみると不思議と脳もよく働いて考え事が捗るものだ。思考整理にも良いかもしれない。研究が行き詰まった時はウォーキングをしてみるのも手だと、前向きに検討し始める。

「オ、オマエっ!」

背後から駆け足の音が近づいてきたと思うと、やや狼狽えたような声が鋭く背に刺さった。ぴたりと足を止めて振り返ると、不機嫌に眉を寄せたマリオンが直に減速して隣で立ち止まった。
思いがけない出会いに、ちょっぴり身が引き締まる。既に芳しくない顔色を窺い、ひとまずは挨拶を済ませておこうと思った。

「マリオンさん。おはようございます。えっと……トレーニング中、でしょうか」
「そんなの、見ればわかるだろ。そんなことより、何でオマエがこんな時間からここにいるんだ」
「え。それは、少しは体を動かそうと思って……」

何故かこの場所にいること自体を咎められている気分になって、畏縮して肩を竦める。
Ꭲシャツ、ジャージ、そしてスニーカー。運動するのに適した格好をした彼に対し、制服にパンプスを履いた自分はどう見ても不釣り合いで。これでもヒールもなく最も伸縮性のある靴を選んだつもりだったが、比べているうちに決まりが悪くなって力なく口を噤んだ。
すると、じっとこちらを見定める視線が、哀れみを帯びて突き刺さる。

「確かにオマエ、見るからに貧弱そうだもんな」
「うぅっ」
「まぁ、それはノヴァにも言えることだけど。研究部は滅多に自分のラボから出てこないっていうし、みんなそうなのか?」

皮肉をこぼすマリオンだが、ノヴァの名を口にした瞬間には厳しく結ぶ表情にぎこちない綻びが少しだけ見えた気がした。可愛い息子に避けられて日々嘆くノヴァのことを思うと、その些細に見られた変化を見逃すことはできなくて。思いきって、切り込んでみようと覚悟を決めた。

「あの……ずっと気になっていたのですけれど」
「何だ?」
「ノヴァ博士と、何かあったのでしょうか」

畏怖を感じて、組んだ指先が力む。家族間の特別な領域に他人が踏み込むのを、マリオンは特に嫌っているのだと知っているから。
そして予想通りに、彼の表情はみるみるうちに怒りを発露させてこちらを責め立てる。

「なっ、何でオマエにそんなことを聞かれなくちゃいけないんだ!」
「ノヴァ博士が落ち込む姿をかれこれ一ヶ月以上ずっと見ているものですから、さすがに心配で……」
「ノヴァが……?」
「はい。マリオンさんがなかなか構ってくれなくて、寂しいと」

ノヴァを大切に想う気持ちは変わっていない様子。現状を真っすぐに伝えた途端、彼は反感の勢いを失って重く口を閉ざした。いつもなら確固たる自信を宿して前を見据える眼差しも、今は複雑な情を淀ませて惑っている。
その沈黙の中に何を秘めているのかは計り知れない。やはり、余計なことを言ってしまっただろうか。周囲のランニングの足音や息遣い、和気藹々とした老人たちの談笑、それらを背景にして流れる異質な空気の中で反省していると、やがて固く結ばれていた唇が鈍い動きを見せた。

「……その、ノヴァは」
「えっ?」
「ノヴァは………他に、何か言っていなかったか」

口ごもりながら問うてくるその視線には、塗り固められたプライドをぐらつかせて助けを求めようとする意思が見てとれた。が、問題の根本がわからなければ求められている答えもわかるはずもなく、懸命に考え巡らせた末に困惑してしまう。

「えっと……他、というのは、例えばどういう?」
「そ、それは……いや、やっぱり何でもない。今のは忘れろ」
「えぇっ? で、でもっ」
「大体、オマエは関係ないんだから、余計な口を挟んでくるな」

そうしている間に彼はほんの一瞬の迷いを厳しく振り払い、毅然さを取り戻した眼差しがこちらを睨みつけた。今度ははっきりと、拒絶の意志を剥き出しにして。
差し出がましいことを言って、また機嫌を逆立ててしまった。いつもそうだ。彼に寄り添ったつもりの言葉は尽く意にそぐわず、怒らせる火種にしかならない。そこそこに付き合いは長い方ではあるけれど、結局はマリオンのことをきちんと理解できていないのかもしれない。申し訳なさから、小さく頭を垂れる。

「確かに、部外者が踏み込んでいい問題ではありませんでしたね。申し訳ありません」

粛々と謝罪を口にすれば、彼の顔を見ずとも慄える息遣いが聞こえて。微かに顔を上げて様子を窺うと、より鋭く細められた眼光に貫かれて息を呑んだ。

「ボクは、オマエのそういうところが嫌いだ」

刃で切りつけられたかのように、胸が痛む。ただ、激昂されるかと思いきや、何故だか悔しさのようなものを滲ませて戦慄する顔を目の当たりにして、彼の心情がますますわからなくなった。

「もういい。部外者なら、もう二度と余計な詮索なんてしてくるな」

挙げ句の果てには、マリオンは憎しみすら感じさせる声色で吐き捨て、こちらの視線を遮断するように目を逸らして走り去ってしまった。
遠ざかっていく背中を見つめながら、幼い頃の無邪気に笑いあったほんのひとときを回顧する。こうなってしまったのは、かつて自分がノヴァやマリオン自身に迷惑をかけたせいなのだと、改めて思い知って小さく息を吐く。
今日はもうウォーキングどころではなくなってしまった。彼がこの場所でのトレーニングを日課としているのなら、ここはもう使えない。或いは、時間をもう少しずらしてみるべきか。ひとまず、タワーへ戻ることにした。
エレベーターホールで少し待たされた後、やっと到着した高層階行きのエレベーターに乗り込む。他に人気がなかったものだから、間もなく扉を閉めようとボタンに触れようとした瞬間。

「ちょ、ちょっと待ってくれ〜!」

聞き馴染みのある声がやや遠くから勢い良く駆け込んできて、びくりと肩が跳ねた。慌てて開くボタンに人差し指を移すと、ちょうど閉まりかけていた扉が開いたタイミングでガストが素早く乗り込んだ。

「ま、間に合った〜! サンキュ……って、セレーナ!?」

どうやらガストはこちらの姿を認識していなかったらしい。安心して力なく息を吐くと同時に、ようやく気づいて思わぬ偶然に目を丸めた。

「おはよう、ガスト。こんな時間から出かけていたの?」

朝、外出するにはまだ早い時間帯だ。自分と同じく制服を着て、トレーニングをしに出ていたとは思えない。首を傾げて見上げると、何故か後ろめたそうに目を逸らされた。

「お、おはよう。実は、ちょっと弟分から呼ばれちまって……そういうセレーナこそ、こんな時間からどうしたんだ?」
「私は、色々と落ち着いたことだし、そろそろウォーキングを再開しようと思って」
「えぇっ、そんな話聞いてねぇんだけど!?」
「だって、今日思い立ったんだもの。急に声をかけるのも悪いと思って」
「そ、そんな……」

現にガストはこうして用事に出向いていたわけだし、やはり急に誘わなくて正解だったと内心頷いていたのに。
誘えば喜んでくれるとは思っていたけれど、まさか誘わなかったことでこうも落ち込ませてしまうとは思わなかった。想定以上の反応に罪悪感が良心をちくちくと刺してきて、無性に焦りに駆られる。

「あのっ、だからね、ちょうど次のお誘いをしようと思っていたところなの。また付き合ってくれる?」
「えっ。も、もちろん!」

控えめにおねだりをしてみれば、ガストは目を輝かせて、そしてやけに力強く頷いてくれた。なんとなく反応が過剰に見えるのは気のせいだろうか。喜んでくれるのはありがたいけれど、少々勢いに圧倒されてしまう。

「本当? それじゃあ、もし時間があれば、この後一緒に予定を考えたいと思うのだけれど」
「パトロールの時間までまだ余裕あるし、大丈夫だぜ」
「それならよかった。そうねぇ……談話室か、それとも私の部屋に来る?」

それとなく与えた選択肢は、遠回しのお誘いのつもりでもあった。自分が彼を突き放すまでは当たり前に部屋を訪れてくれていたけれど、色々あった後だと改めて招き入れるのに不思議と勇気がいるものだ。
意図を察してくれたのか、はたまた純粋にそう望んでくれたのかは定かではないが、ガストはそわそわ落ち着かない様子で答えを口にした。

「じゃあ、あんたの部屋がいいかな。その方が、ゆっくり話せるし」
「わ、わかった」

誘っておいて、過敏になった意識は気恥ずかしさに熱を帯びていった。不意に途切れた会話。そして、エレベーターに揺られながら佇む微妙な沈黙。
高ぶる感情に身を任せて、互いに抱いていた特別な想いを必死に伝え合って、気持ちは通じ合ったはずなのに。思い返せば二人とも決定的な言葉を口にしていなくて、肝心な核心に手が届いていなかった。結果、『恋人』になりきれない『ヒーロー』と『ヒロイン』という曖昧な関係を持った二人は、かえってぎこちなく距離を探り合う羽目になっていたのだった。


「──よし、じゃあ決まりだな」

ガストを連れて部屋に戻った時には、互いに妙に意識してどぎまぎしていたけれど、紅茶を淹れてゆったり寛ぎつつ二人のスケジュールを照らし合わせているうち、次第に緊張も解けていった。おかげで次の約束もスムーズに決まり、ほっと一息。

「時間はどうする? 今日と同じぐらいにするか?」

しかし、何気ない相談を受けて、訪れたはずの安寧がすぐに翳りを見せた。
性懲りもなくあの場所で顔を合わせれば、いよいよマリオンの激昂を浴びることになるかもしれない。ガストも一緒にいる手前、空気が悪くなるようなことは極力避けたい。
それに、せっかく彼ら研修チームの関係も改善されつつあるのだ、あまりマイナスになる言葉を吹き込みたくはない。

「う〜ん……もう少し遅い時間でもいい?」
「えっ? 別にいいけど……何か都合悪いことでもあったのか?」
「い、いえ、その、ちょっと起きるのがつらくて〜」
「あれ、今日はめちゃくちゃ余裕でスッキリ目覚めたんじゃなかったっけ?」
「うっ」

こんな時、嘘を吐くのが下手な自分を恨みたくなる。それとなくはぐらかそうと試みたけれど、白々しかったのかもしれない。横で不可解だと細められる視線に追い詰められ、終いには小さく肩をすぼめて俯くしかできなくなった。
見かねたガストはため息混じりで頬杖をつき、じっと顔色を窺うかのように下から覗き込もうとする。やや強いて合わせられた視線に、どきりと胸が強張った。

「……あのさ、ちょっと気になってたんだけど」
「な、何?」
「会った時から何とな〜く落ち込んでるように見えるんだけど、マジで何かあったのか?」
「えっ。そ、それは……」

まさか、最初から気取られていただなんて。これでも気丈に振る舞っていたはずなのに。図星を突かれて露骨に動揺を見せてしまった今、いよいよ言い逃れができなくなった。
真剣な眼差しが真っ直ぐにこちらの心境を探ろうとしている。心臓がざわめくのは居心地が悪いからなのか、或いは──

「俺の気のせいだったらそれでいいんだけど。もし何か悩んでることがあるなら、俺でよければ相談に乗るぜ。あんたってただでさえ溜め込むタイプなんだろうし、一人で抱え込んでるとまた良くない方にばっかり考えちまうぞ」

それでも決して強引に引きずり出したりせず、あくまでもやんわりと諭してくれるに留まる辺り、人の善さがよく表れている。そんな彼なら、きっと告げ口のようなことだってしないのだろう。
だけど、本当に相談してもいいのだろうか。ガストへの信頼とマリオンへの罪悪感の狭間で揺れ、曖昧に口を開きかけたまま迷っていると、ガストはふっと緩く苦笑いを浮かべた。

「まぁ、無理にとは言わねぇけどさ。でも、これだけは覚えといてくれ」
「うん?」
「俺はあんたの可愛いヤキモチだって喜んで受け入れたんだ。幻滅される〜とか、そういうのはもう考えるなよ」

かつてそうやって避けてしまったことを、実はまだ根に持たれているのかもしれない。やや皮肉混じりに釘を刺され、とてつもなくいたたまれなくなって顔が熱くなる。返す言葉もなくこくりと小さく頷くと、ガストはどこか満足げに笑って姿勢を正した。
そんなつもりではなかったのに。すっかり気が抜けて、気づけば胸の内で蟠っていた躊躇も取り除かれていて。
確かに、一人で同じ場所で滞留した思考を働かせているよりも、第三者の視点──特にマリオンと多くの接点を持つガストの視点からの意見を求めた方が、事の真相を見極められるかもしれない。そんなふうに思いながら、言葉を慎重に選び取る。

「えっと……かれこれもう一ヶ月は過ぎているのかしら。ノヴァ博士がマリオンさんに避けられている気がするって、ずっと落ち込んでいて」
「ノ、ノヴァ博士……?」

素直に心配事を吐露すれば、ガストは何故だか拍子抜けした様子で、かくんと首を転ばせた。一体、何に悩んでいると想像していたのか。話が逸れそうなので、深く突っ込むのはやめておくことにする。

「全く会話がないわけでもないし、特別邪険にされているというわけでもないそうなのだけれど……どことなく態度がよそよそしかったり、一緒に過ごす時間が減っているみたい」
「あー、それならなんとなく心当たりがあるような」
「えっ?」
「いや、俺も詳しいことはわかんねぇんだけど。マリオンのヤツ、ノヴァ博士の話になると妙に思い詰めたような顔してさ。何かあったのかなって思ってそれとなく聞いてみたりしたんだけど、オマエには関係ないって突っぱねられちまった」
「そう……」

曰く、どうやらチームメンバーの前でも変化を見せていたらしい。語られるマリオンの様子は先程見たものを見事になぞらえていて、何とも苦い気持ちになった。

「家族と過ごす時間を何より大切にしてきたマリオンさんが、ノヴァ博士に対して距離を置くだなんて、信じられなくて。ふたりの間に何か重大なことがあったに違いないわね」

テーブルの上で組む指を一点に見つめて、思い返すのは過去の風景──そこには、ノヴァたち家族のことをそれはそれは嬉しそうに、無邪気に瞳を輝かせて語る幼いマリオンの姿があった。あの頃はまだ平穏に満ちていて、それほど接する機会があったわけではなくとも、決して今ほど仲は悪くはなかったはず。

「そういや、セレーナとマリオンって昔からの知り合いなんだったよな」

懐古に耽っていた意識を不意の指摘に掴まれて我に返り、自然と俯いていた視線をはっと彼の方へ戻した。
しまった。このタイミングで、自分自身と彼の間柄について触れられるのは悪手だ。焦りに体をほんのり強張らせて、興味を持ったガストの視線を受けとめる。

「え……えぇ。といっても、そこまで深く接点があったわけではないのだけれど」
「へぇ、そうなのか? 前にマリオンとあんたの話になった時は、むしろよく知ってる仲なんだな〜って感じたんだけど」
「わ、私の話っ?」

ぎょっとして、思わず声が大きく裏返ってしまった。心底不思議がる彼の口から出たのが、聞き捨てならない想定外の場面だったものだから。
すると責められたと勘違いしたか、或いは失言だったのか、ガストは途端にしどろもどろになって言い訳を始める。

「あぁいやっ、別に大した話はしてねぇんだけどさ。たまたま、何か流れでそうなって」
「流れって、どういう?」
「そ、それは〜……あれっ、何だったかなぁ」

何か疚しいことでもあるのだろうか。あまりにも露骨に白々しくはぐらかそうとする彼を、怪訝な眼差しでやんわり一睨みだけして。やがて諦めに至り、軽く目を伏せて小さく息を吐き出した。

「言いたくないのならもういいわ」
「あっ……も、もしかして怒っちまったか? 大丈夫、少なくともあんたの悪口とかそんなんじゃねぇからっ」
「別に怒っているわけではないのだけれど」
「そ、そうか?」

いよいよ機嫌を損ねたと思い込んだらしい。おろおろと顔色を窺って宥めてくる様には悲壮感すら漂わせていたが、困惑しつつもはっきりと訂正すれば、まだ僅かに不安を残しながらもほっと表情を和らげた。
隠し事をされているようで多少の不満はあれど、不必要に彼を脅かしたいわけではないし、無理強いしようとも思っていない。つもりだったのだけれど。
ふと思い出したように、まだ中身が半分ほど残ったティーカップに手を伸ばす。話し込んでいるうちにすっかり冷めてしまったようだ。かろうじて微かに温さを残したダージリンが一口、口内の渇きを潤している合間に。静まり返った微妙な空間の中、微動だにせずじっと佇むガストの姿をちらりと横目に一瞥すると、何やら後ろめたそうに目を泳がせているのに気づいた。

「……まぁその、悪口じゃないって言ったけど、マリオンってマジでセレーナに対しても変わらず当たりキツいんだなぁとは思ったかな」
「はいっ……?」

どうやら何気ない沈黙を叱責と捉え、良心が耐えかねたらしい。絞りだすように白状する彼の眉間には、苦悶が刻まれていた。
意表を突かれてきょとんとした声を漏らすと、焦りの奔った視線が瞬時にこちらへ吸い寄せられた。

「あぁでも、もちろん俺たちに比べたら全然っていうか、ほら、セレーナは鞭で打たれたりしねぇだろっ?」
「そ、それはさすがに……」
「それにマリオンのヤツ、何だかんだ言いながらセレーナのこと気にかけてるっぽかったし」

何だか見当違いな慰めの言葉を並べて早口に捲し立てられ、ついその勢いに圧倒されて呆然としてしまった。そんな中でも仲裁じみたフォローまでしっかり入れる辺り、やはり人の善さが窺える。それが気休めによるものなのか、実際にそう感じたが故のものなのか、定かではないけれど。
マリオンが自分のことを心配まではいかなくとも、それなりに配慮してくれていることはわかっているつもりだ。ただし、それが彼自身の意向に反していることも。
だから、彼の懸命な気遣いを甘んじて受けとめるにはとても心苦しくて、堪らず視線を手元に落とした。

「それは、ノヴァ博士に言われているから仕方なく……」
「えっ?」

これまで良心の奥底に蔓延らせてきた罪の意識を懺悔するように、ネガティブな事実をカップの底に薄く張った水面にこぼすと、目の前で不安げな声が揺れた。そちらを見やると、先程まで些細なことだと笑い飛ばしていたはずの顔が強張っていた。
いけない、これでは不要な心配を誘うだけだ。深刻さを拭うべく、どうにか口元に微笑を浮かべる。ちょっぴり苦さを残して。

「ほら、マリオンさんって『家族』に対して人一倍特別な想いを抱いているでしょう? だからこそ、家族の輪に赤の他人が入ってきたり、ノヴァ博士が誰かに取られるのを、強く拒絶する傾向にあるのでしょうけれど」
「あぁ、それなら俺もよ〜くわかるぞ。マリオンのヤツ、それでレンの姉ちゃんのことが気に食わなくて、顔がそっくりだって理由だけで何故かレンにまで当たりがキツかったんだからな」
「そ、そういえばそんな話もあったわね……」

やけに実感のこもった調子で力強く頷くガストの表情には当時の苦労が滲み出ていて、思わず同情を寄せてしまった。
かつて、ノヴァの婚約者であった如月シオンの弟とマリオンの間に一方的な確執があったことを、少し前にガストの口から聞かされた。弟の方は特にマリオンと関わりはなかったはずだが、マリオンのノヴァに対する激しい執着心を鑑みれば、もはや八つ当たりとも捉えられる態度にも納得がいったものだ。
如月シオンとは、子どもの頃に研究所で何度か顔を合わせた程度の面識だったが、そんな中でも随分と可愛がってもらった記憶がある。そして、彼女の活発的かつ社交的な性格が、マリオンとは至極相性が悪かったこともよく憶えている。何よりノヴァの婚約者という位置が、彼の毛嫌いを加速させていたことも。

「実は昔、少しだけそれに近い状況になりかけてしまったことがあって」
「うん……? それって、セレーナがノヴァ博士をマリオンから奪っちまったってことか?」

ガストは合点がいかないといった顔で、首を捻って思案する仕草を見せる。

「マリオンさんは、きっとそう感じていたと思うわ。誘拐から救助されてしばらく研究部で保護されていた時、研究部の人たち……特にノヴァ博士は、憔悴して塞ぎ込んでいた私のことをとても気にかけてくれていたから」
「あぁ、そっか」

なるべく暗くならないよう努めていたけれど、それでも優しい彼は当時の事情を飲み込むと気に病んで顔を歪ませた。

「けど、そういう状況なら仕方ねぇっつーか、心配するのが当然だろ? さすがにそれはマリオンも理解してるんじゃねぇかな」
「理解はしていても納得ができるとは限らないものよ。ましてやあの頃はまだ幼かったもの。唯一無二の大好きなお父さんが自分ではない他所の子どもを構っている姿を、黙って見ているしかできないだなんて、本当なら耐え難かったでしょうに。疎まれていても、仕方がないわね」

今でも鮮明に思い起こすことができる──自分に温かく声をかけてくれるノヴァの背を、少し離れたところから寂しげに見つめる幼い眼差しを。
あの頃は、ただ心の奥底に強く残り続ける恐怖に震えながら、周りの人々の優しさを享受して傷を癒やすのに精一杯だったから。その影で寂しい思いをしている人がいたことを、その瞬間に初めて知ったのだ。そして慌てて借りていたものを彼に返そうとしたけれど、もう遅かった。
当時のマリオンの心情に寄り添い、彼の拒絶を真摯に受けとめることが、せめてもの贖罪だと思っている。だから、悔恨の念をそっと伏せた瞼の下に秘め、こちらの痛みなど感じさせないよう静かに微笑を絶やさずにいたのだけれど。
ふと向けた視線の先、痛ましいものを目の当たりにしたような哀れみの眼差しが真剣にこちらを見つめているのに気がついて、どきりと胸が騒いだ。それが堪らなく居心地悪く感じられて、水面下で崩れてしまいそうな微笑を必死に保とうとした。

「そういうことだから、マリオンさんの前ではあまり私のことを話題にしない方がいいかも。ガストだって、不必要に機嫌を損ねたくはないでしょう?」
「え、いやまぁ、それはそうだけど……」
「それから、この話をしていたこともマリオンさんには内緒ね」
「……あぁ、わかったよ」

あくまでもマリオン自身とガストの平穏を慮って、ちょっぴり肩を竦めつつ軽く自嘲じみた忠告すると、ガストは明らかに腑に落ちていない表情を見せながらも小さく頷いた。
そうして話を切り上げるのに成功したわけだが、やや強引だったかもしれない。若干落ち着かないながらも、平然を装ってカップの底で薄ら冷めきったダージリンを今度こそ飲み干した。そして空いたカップが、隣で早々に空になったまま放置されていたカップと揃って並ぶのを、ぼんやりと眺めるのだった。
結局、胸に秘めていようと誓っていたはずの領域まで話してしまった。調和を望む彼の性分からして、こういった話をすれば気を回してマリオンに何かしらのアプローチを試みるだろうことは予想できる。そうすれば、マリオンはきっと彼に問い質すだろう。自分のせいで彼の善意が咎められるだなんて、あってはならない。だから、しっかり口止めをしておこうと釘を刺したわけなのだけれど、彼の態度を見るにどうも懸念を拭いきれずにいた。

「……なぁ、一つだけ聞いてもいいか?」
「な、なぁに?」

暗く沈んでいく思考に囚われている最中、遠慮がちに声をかけられ、びくりとして我に返った。とっさに動揺を笑顔の下に隠して。
何を聞かれるのだろう。これ以上、深く踏み込まれると苦しくなる。何気なくテーブルに置いた手の先にいやな力が入るのを感じながら、固唾を呑んで次の言葉を待つ。
どこか悩ましげに視線を迷わせていた彼は、やがて躊躇いを重く引きずって曖昧に口を開いた。

「その、あんたが研究部で保護されてた時のことなんだけど……ノヴァ博士やドクター以外のスタッフとも、顔を合わせてたんだよな?」
「え? えっと……そう、ね。全員ではなかったかもしれないけれど、お父さんが紹介してくれたからある程度の面識はあったわ。でも随分と昔の話だし、そこまで頻繁に顔を合わせていたわけではないから、はっきり顔やお名前まで覚えているのはごく限られた人たちだけね。マリオンさんぐらい記憶力が良ければ、覚えられていたかもしれないけれど」
「そ、そっか……」

投げかけられた問いはどうも想定よりも的外れなもので、すっかり拍子抜けして素直に答えてしまった。そして、それは期待された答えではなかったようで、彼は何とも微妙に気落ちしたような、或いは諦めの色を滲ませたような顔色で返事を呟いた。彼のそういった表情を目の当たりにするのは恐らく初めてのことで、心穏やかにはいられなかった。
先の話をする中で、彼の心に何かが引っかかったのだろうか。首を傾け、ほんのり憂いを落とした横顔を観察するように眺めて推測する。

「もしかして、当時の研究部にお知り合いでもいた?」
「あぁいや、そういうワケじゃねぇんだけど。なんつーか、ほら、あんたならいろんな人たちに可愛がられてたんだろうなぁって思ってさ」
「う、うん……?」

彼は一瞬慌てた様子を見せたかと思えば、へらへらと緩い笑みを貼りつけて突拍子もないことを言い出した。思考が追いつかず、呆然としてしまう。

「あー、悪りィ、なんか変なこと聞いちまったな。今のは忘れてくれ」

そう言って、彼は軽やかに声をあげてばつが悪そうに苦笑う。はぐらかそうとしているのが、露骨にわかる。
きっと彼にも踏み込まれたくない領域があるのだろう。自分だって同じような言葉で牽制したのだから、お互い様だ。別に無理強いするつもりもなく、小さく頷いた。

「……わかった」

ただ、今まで何でも話してくれた彼のことが、この瞬間、初めてわからないと思ったことは確かだった。





top