「また死体になってる……」

ノヴァに用があってラボを訪れたセレーナは、床に転がっている姿を足元に見下ろし、この悲惨な有様を悲観して嘆いた。
そういえば、論文の締切が昨日だとか言っていたっけ。この光景が今に始まったものではないとはいえ、さすがに人としての生活を捨てつつあるのは見過ごせない。ジャックたちが甲斐甲斐しく世話をしてくれているので、まだ安心していられるけれど。
こういう時の彼は起こさずにそっとしておいた方がいいと、初めてこの惨状と出会った際にヴィクターが教えてくれた。自分の貧弱な腕力では彼を運ぶこともできないし、今は不在らしいジャックの帰りを待つのが得策だろう。せめてもの慰労としてシーツだけでも被せておこうと、一度その場を離れようとした。

「失礼しまーす」

不意に開いた扉の先に思わぬ人物を見て、一瞬にして体が強張った。相手も目が合った瞬間に、顔を強張らせて。

「あ……よ、よぉ、お疲れさん」
「は、はい、お疲れ様、です」

互いにぎこちなく会釈をして、気まずい空気に身を引き締めた。
彼はラボに入るなりよそよそしく目を逸らし、隣に立った彼は床に転がるノヴァの様子をそっと見下ろして窺う。

「博士、寝ちまってるのか?」
「ええ。きっと、徹夜で論文と格闘していたのだと……」
「そっか、研究員ってのも大変なんだな。あんたもこの間、徹夜に追い込まれてたとこだし」
「い、いえ、あれはただ私が悪いのであって……えっ?」

何の疑いもなく親身に気にかけてくれるその言葉を受け入れそうになったところで、やや遅れて違和感に引っかかり、懐疑の目で彼の顔を見上げる。

「どうしてアドラーさんがそれを?」
「えっ。あ、いや、それはだな……そう、ジャクリーンから聞いたんだ!」
「ジャクリーン……?」

どこか慌てた様相で語られた名前が、意表を突きながらも妙に腑に落ちていった。何でも楽しくお喋りしてしまうかの小型ロボットに思いを馳せ、その憎めない無邪気さに対して微笑ましさと同時に困惑を覚える。

「もう、あの子ったら、また勝手に……」
「はは、ジャクリーンは何でも喋っちまうもんな」
「まったく、あの子のお喋りには困ったものです。悪気はないのでしょうけれど」

悩ましく深いため息を落とす隣で、彼は同情を込めた苦笑いを浮かべている。恐らくは彼も似たような被害に遭ったのだろう、同情に同情を返してしまう。

「ああ、そうだ。これ、代わりにあんたに渡しとくよ。さっきのパトロールで回収してきた」

思い出したように彼の大きな手のひらから差し出されたのは、小さなサブスタンスの入った容器だった。ヒーローたちが街で回収してきてくれる、大切な研究対象だ。

「あ……ありがとうございます。確かに、こちらでお預かりしておきま──あっ……!?」

丁重に受け取るべく、そっと手を差し出した瞬間。指先に微かな体温が触れ、びっくりして反射的に手を引っ込めようとしてしまった。
彼の手から離れた容器が、受け取ろうとしたセレーナの手元からこぼれ落ちようとする。

「──おっと、危ねぇ」

ひやりとした焦りに強張った両手が、すぐにしっかりとした温もりに包み込まれた。破損の危機に晒されようとしていた容器も掬われて、手中に収められている。
自分のものよりもずっと大きくて骨ばっている男の手の感触を味わった衝動が、熱となって体を駆け抜ける。途端に早鐘を打つ胸の鼓動と逆上せるほどの熱に襲われ、激しく混乱して涙が出そうになった。

「あっ……ご、ごめん!」

とっさに手を解放してくれた彼も、ひどく焦っている。心なしか顔が赤くなっているが、今のセレーナにはそんな軽微な異変を気に留める余裕もない。

「い、いえ! こちらこそ……その、男の人に触れるの、慣れていなくて……過剰に反応してしまって、申し訳ございません!」
「いやいや、あんたは男が怖いんだし無理もねぇって。でも、落とさなくてよかった」
「は、はい。ありがとう、ございます……」

名残に包まれた自らの手を、あくまでもこちらを気遣ってくれる彼の優しさと共にぎゅっと固く握りしめる。心臓の音が壊れたように煩い。
気まずさの深まる空気に落ちる張り詰めた沈黙が、二人を隔てていく。ただ手が触れただけでこれほどまでに動揺してしまう自分が無性に恥ずかしくて、まともに彼の顔を見ることもできずにひたすら床を見つめるばかり。彼はどんな顔をしているだろう。呆れているか、困っているか、それともそろそろ疎ましがられているかもしれないと思うと、ますます顔を見るのが恐ろしかった。

「あ、あのさ……」
「は、はいっ?」

負の感情が渦巻くのを彼の慎重に探るような声に払われて、不意に意識を引き戻された。とっさに喉を震わせたせいで、返事が弱々しく掠れてしまったが。
よく見ると、彼の人差し指は暗に下を示している。そう、今も床で伸びているノヴァを。

「……博士、さすがにこのままにしとくのもマズいだろ? あんたじゃ力が足りないだろうし、俺が運ぶよ」

申し訳ないことに、混乱するあまりノヴァのことをすっかり忘れていた。心から尊敬する師を放置してしまうだなんて、またとんだ失態を繰り返すところだ。
思考をあちらこちらへ巡らせながら立ち尽くしているうちに、彼は涼しい顔でノヴァの体を担ぎ上げていた。いくらノヴァが痩せ型だといっても、一人の成人男性を軽々と持ち上げてしまうだなんて。日頃から鍛えているヒーローの力を改めて目の当たりにして、深く感心する。

「ありがとう、ございます……」

覚束ない礼をこぼすと、彼は快く短い返事をしてノヴァをベッドに運びだした。その頼もしく大きな背中を呆然と見つめ、胸に疼くもどかしさを憂う。
彼に近づきたいのに、彼をもっと知りたいのに、そうすればするほど彼の懐の広さと男らしさを知って、ますます過剰に苦手意識を向けてしまう。怯む体も、急上昇する体温も、冷たくなる指先も、停止する思考回路も、全部そう。

『まずは相手をよく知りなさい』

父の教えは万能ではなかった。これ以上なす術なんて知らない。どうすれば、何事もなく彼と接することができるようになるのだろう。
ガスト・アドラー──彼という存在は、まだまだセレーナを思い悩ませる要因となるのであった。







ノヴァのラボから部屋に戻ってきたガストは、幸いにも一人だからと胸の内に閉じ込めていた悶々とした感情を解き放っていた。

「ああ……手ぇ握っちまった……俺としたことが……」

萎れたようにベッドに座り込み、彼女の小さくて柔らかい手の温もりを知ってしまった両手を見つめて、暴れ狂いだしそうなほどに慄える。容器に入ったサブスタンスを落とさないよう守るためとはいえ、ああもしっかりと触れてしまうとは、自分でも想定外だった。
触れた瞬間の彼女の反応を思い出せば、己の失態がありありと蘇る。女性を恐れている自分だからこそ理解できる、きっと恐がらせてしまったはずだ。あんなにも泣きそうな顔をしていたのだから、間違いない。
なのに自分は嫌だと思わなかった。むしろ、彼女の温もりを異常に意識して舞い上がってしまった。それは、まだ手に残る感触を味わっている今も──

「はあぁ……嫌われちまったかなぁ……」

懐に溜まっていく罪悪感や不安を何度もため息にして吐き出しているのに、それも追いつかないくらい膨らんでしまう。せっかく仲良くなれそうだったのに。一緒に、進んでいける気がしたのに。生まれる嘆きは尽きない。
次に顔を合わせた時にはどう振る舞ったものか、思い悩むあまり無意識のうちに唸り声をあげていた。それをルームメイトに疎ましがられるようになるまで、もう間もなくのことだった。






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