「──セレーナちゃん? おーい、セレーナちゃーん!」
「はっ、はいぃ!」

大きく呼ぶ声に、いつの間にかどこかへ浮遊していた意識を引き戻された。慌てて返事を上擦らせると、デスクチェアに腰を据えた状態で覗き込むように見上げてくるノヴァが、ほっと安心した表情を浮かべた。

「よかったぁ。おれ、とうとう不潔だ〜って見放されて無視されるようになっちゃったかと思ったよ〜」
「い、いえいえ、まさかそんな! まあ、不潔といいますか、博士がだらしがなくて困っているのは確かですけれど……」
「ううっ、そこは否定してほしかったなぁ〜」

とほほ、と項垂れる間延びした声が、尊敬する師を前に引き締めようとしていた気を呆気なく弛ませる。
彼が研究を優先するあまりその他のことに関して自堕落なのは確かなのだし、気を遣って有耶無耶にするのは彼自身のためにもならないのだから、おねだりするような甘えた視線は固く拒むに限る。
そんなことよりも、仕事中だというのに物思いに耽って我を忘れてしまっていたことの方が問題だ。最近はただでさえ、守るべき期限を忘れるという大失態を犯したばかりだというのに。思い出す度にいたたまれなくなる。

「セレーナちゃん、ひょっとして悩み事とかあったりする?」
「はいっ?」

そこそこに気分が沈みきってきたところへ、ぎくりと図星を突かれて狼狽えてしまった。

「近頃、ぼーっとしてることが多いからさ。何か悩んでるのかなぁって思って」
「も、申し訳ございません、注意力散漫になってしまいっ」
「あぁ、責めてるワケじゃないよ。おれは腐っても君の上司なんだから、優秀で可愛い部下が悩んでるなら相談に乗らないと〜……って、おれじゃ何の役にも立たないかもしれないけど」
「博士……」

人当たりのいい笑顔で厚意を差し伸べてくれる上司の優しさが、悩み疲弊した心に温かく沁みる。思えば、彼は昔からそうだった。
まだ子どもだった頃に父に連れられて研究所を訪れ、初対面の男の人全てに怯えていた時、毒っ気を一切感じさせない暢気な笑顔で彼は迎えてくれた。

『大丈夫、怖くないよ。ほら、おれって人畜無害な顔してるでしょ?』

不思議な空気を持っていて、だけど朗らかでどこか抜けているお兄さん。そんな印象を与えてくれる彼と打ち解けるには、そう時間はかからなかった。
再びこうしてこの場所で再会し、彼の下で研究員として働くようになった今でも変わらない。上司でありながら兄のように親身になってくれる彼には、今までもよく相談事を聞いてもらっていた。

「……今、仲良くしたい男の人がいるのですけれど、なかなか上手くいかなくて」
「あ〜、それってこの間ちらっと出てた話? 確か、ノースセクターのガストくん? だっけ。でもジャクリーンはもう仲良しさんになったノ〜って喜んでたけど、違ったの?」

そういえば、つい最近ここで露呈してしまった気がする。それも、ガストのチームのメンターであるヴィクターもいる前で。改めて挙げられると、無性に気恥ずかしくなる。

「あの……いえ、確かに一度はそういう方向で収まりはしたのですが。なんといいますか、アドラーさんと仲良くなろうとすればするほど、駄目になっていってしまって」
「う〜ん? それはまた珍しいパターンだなぁ。ヴィクの時でも最初はかなり怯えてたけど、だんだん平気になっていってたよね」

ノヴァは背もたれに体を投げだすと、深刻に首を捻って深く思案しだした。
セレーナがヴィクターと出会ったのも、随分と昔の話。彼に関しては特別高い背丈と決して穏やかとはいえない人相に加え、ノヴァとは違って表情の読み取りづらさを感じていたため、苦手意識を払拭するのには時間がかかったものだ。今でも彼の考えは読めないが、別段危害を加えられることもないし、科学者としての尊敬の方が上回っているので緊張こそすれど恐怖心などはもうない。
きっと同じように、ガストのことも苦手ではなくなっていくはずだと信じていたのに。前向きな意思に反する体の拒絶具合に、強いもどかしさを覚える。

「……私、実はアドラーさんのことがすごく苦手なのかもしれません」
「ええっ、そんなに? セレーナちゃんがそこまで言うなんて、結構珍しいような」
「だって、少し手が触れただけなのに体に異常な熱を感じて、動悸も急に激しくなって、頭も何も考えられないくらい真っ白になってしまって……通路ですれ違った時だって、せっかく声をかけてくださったのに、返事すら上手くできずっ……」
「あー、うん、わかった。わかったから、少し落ち着こう! ねっ!」

じわじわとぶり返す悔しさが、熱を持った涙へと変わっていく。思いの丈を吐露する声にも湿り気を帯びて、不安定に崩れていく様子を察知したノヴァが慌てて宥めてくれる。
これ以上は彼を困らせてはいけない。溢れそうになった感情をせき止めるべく一つ深呼吸をしていると、ラボの扉が開く音がした。

「入るぞ…………って、ノヴァ?」

一歩中へ踏み出したところで、燃ゆる薔薇のように紅い髪を持つ青年が端正に整った顔を怪訝に顰めた。

「あ、マリオン」
「……珍しいな、ノヴァが部下を泣かせるなんて」
「ええっ? ああっ、これは違うよ〜!」

明らかに誤解をされている。やんわりと棘のように突き刺さる視線にノヴァが必死に訴えるも虚しく、青年には響いていない様子。どうにか気まずさの漂う空気を打破しようと、あからさまに妙案を思いついた風を装った声を弾ませる。

「あ、そうだ。マリオンなら同じチームのメンターだし、ガストくんのことよく知ってるはずだよね」
「知らない」
「ええっ、メンターなのに!?」
「別に、天才のボクがわざわざあの凡人に教えることなんて何もないし、興味もない」
「うーん、こりゃダメだな〜」

結局取りつく島もなく、希望を淡々と斬り捨てられて終わってしまったが。
直属のメンターがこの様子では、ヒーローになって間もない彼も困っているのではないだろうか。もう一人のメンターであるはずのヴィクターも大方ラボに籠もっているか、サブスタンスの調査という名目で街へ繰り出しているかのどちらかで、ルーキーに関する話題をほとんど聞いたことがない気がする。お節介ながらガストの置かれている状況を案じていると、じろりと冷淡な視線がこちらに向けられた。

「何。オマエ、ガストに泣かされたのか?」
「えっ? あっ、いえ、決してそういうわけではないのですけれど」

まさか話しかけられると思っておらず、拍子抜けしてしまった。今までに彼の興味がこちらに注がれたことは、皆無といっていいくらいになかったものだから。

「セレーナちゃん、ガストくんと仲良くなりたいんだって」
「ふーん……?」

緊張から体に力が入って固まっていると、ノヴァが緩やかに間を取り持ってくれた。すると、マリオンは何やらじっと吟味するような目でセレーナを見据える。その中にはほんのりと呆れの色も混じっていて。

「オマエ、趣味悪いな」
「ええっ!?」
「あんなヤツ、ただ煩くて鬱陶しいだけだろ。つるんでる連中も騒がしくて品のないヤツらばかりだし……ていうか、アイツ、男とばかりつるんでるしやめておいた方がいいんじゃないのか。オマエ、男が苦手なんだろ?」
「ううっ……」

あまりにも容赦のない苦言にたじたじになっていたところへ、とどめの警告を突きつけられて返す言葉もなくなってしまった。力なく項垂れて沈んでいると、横からノヴァが慌ててマリオンを窘める。

「マリオン〜、そんなこと言っちゃダメだよ〜」
「コイツにもう少し優しくしろって言ったのはノヴァの方じゃないか。昔の仲間だか何だか知らないが、あれはたぶんコイツの一番苦手な部類の連中だぞ」

不満げに睨みつける眼差しもノヴァが相手なら他よりもずっと柔らかで、素直だ。厳しい言葉はセレーナの為であったという遠回しな主張を理解するまでには、少し時間がかかってしまったが。それを無下にすることもできず、かといって潔く諦めることもできず、曖昧な境界線を彷徨うばかりで踏ん切りがつかない。
こんな中途半端な自分が一番嫌いで、ぎゅっと奥歯を強く噛みしめる。

「同じ不良だったアキラが大丈夫だったので、アドラーさんも大丈夫だと思ったのですが……やはり、無謀だったのでしょうか」
「う〜ん、そこはガストくんに配慮してもらえるようにお願いしてみるしかないんじゃない?」
「そ、そのお願いはさすがに図々しいような……それこそ、面と向かって上手くお伝えできる気がしません」

一度自己嫌悪に陥ってしまうと、自信を失って何もかも後ろ向きに考えてしまう。せっかく仲良くなれそうだったのに、拒否されるのが怖くて。

「それじゃあ、手紙を書いてみるのはどう?」

泥濘に沈みゆく心を不意に掬い上げてくれたのは、やはりノヴァの手だった。俯いていた顔を少し上げると、屈託のない笑顔が映る。

「手紙、ですか……?」
「うんうん。直接話すのが難しいなら、文章で思ってることを全部伝えちゃえばいいんだよ〜」

盲点だった。直に言葉で伝えなければと、必死にそればかり考えていたから。手紙なら相手の反応を直接見ずに済むし、冷静な言葉を綴ることができる。
可能性を提示された瞬間、とうに空になったと思っていた勇気がどこからともなく湧いてきた。

「わ、私……やってみます!」
「うん、上手く伝えられるといいね」
「はい、頑張ります!」

和やかに背中を押してくれるノヴァに心から感謝して、先程までの絶望感を嘘だったかのように振り払い、力強く頷いた。今はただ、追い風だけを感じて。

「……随分と物好きなヤツだな。やっぱり凡人には付き合ってられない」

うんざりと皮肉をこぼすマリオンは相変わらず淡々と、大して興味もなさそうにセレーナを眺めていた。



それから研究の合間を縫って、手紙にしたためる言葉を考えるのに頭を悩ませる日々を過ごすことになったセレーナは、数日かかってようやく文章を纏めることができた。研究結果を書き記すのとは、当然ながら勝手が違う。
まさかこうも手間取るとは思わなかったが、日頃抱く想いを全て詰め込めたので悔いはない。これで返事がなければ、潔く諦める決意は固めている。

「ジャック、お願いね」
「任せてクダサイ! お掃除の隙に、そっと置いておきマス」

ここまで行動に移しておきながら、直接手渡す勇気までは持てなかったけれど。快く引き受けてくれたジャックに手紙を託し、緊張に引き締まる背筋を伸ばして見送った。
後は、ささやかな祈りを捧げながら流れに身を任せるだけ。







「ただいま〜っと、ん? 何だこれ」

トレーニングを終えて誰もいない部屋に戻ると、見覚えのないシンプルな白い封筒がテーブルにぽつんと置かれているのを見つけて、不審に思いながら手に取った。表にはもちろん、自分の名前が書かれている。
封筒のサイズからして、正式な書類というわけでもなさそうだ。裏を向けると、控えめに隅の方に記された差出人の名前を発見した。その名を認識した瞬間、慄くほどの緊張が体内を駆け巡った。

「えっ、あの子から!? な、なんでっ」

様々な疑問が入り混じり、動揺から混乱へと変わっていく。
まさか、先日の苦情か。わざわざ部屋の場所を突きとめて、無人の隙を狙って侵入してまで。手を握られたのがそこまで不快だったのか。
激しい不安に足が竦み、力なくベッドに腰を落とす。冷静に考えれば彼女にそのような図太さは微塵も感じていないはずなのだが、今のガストには悪い方向へしか考えられなくなっていた。
中を確認するのが恐ろしくて、開封する手が進まない。いっそこのまま何も見ていない振りでもしたいぐらいだが、それはさすがに良心が許さなかった。
半ば自棄ではあるが覚悟を決めて、封を切る。中には二枚の手紙が入っていた。

『アドラーさんへ。
突然のお手紙、申し訳ございません。決してお部屋に侵入したとかではなく、ジャックにお願いしてお掃除のついでに置いてきてもらっただけですので、どうか誤解なきを!』

なんだ、ジャックの仕業だったのか。腑に落ちた途端、ほっと構えていた心が柔らかく解れた。始めに細やかな断りを入れてくる辺り、真面目な彼女らしいと少し微笑ましくなった。が、まだ油断はできない。
先を読み進めると、対面すると上手く話せなくなるので、こうして手紙をしたためることにしたらしいことがわかった。なるほど、その手があったか。彼女とどう対話するべきか思い悩むのに精一杯だったから、そのような手段は考えつきもしなかった。

『本当はアドラーさんともっとお話したいし仲良くなりたいのですが、どうしても体が追いつかず、失礼なことばかりしてしまって申し訳ございません。でも決して、アドラーさんを拒みたいわけではありません。
なので、まずはこうしてお手紙で、アドラーさんのことをもっと知れたら嬉しいと思っています。アドラーさんの好きなもの、嫌いなもの、どんなことを考えているかなど、たくさん教えていただきたいです。そうすれば、きっと怖さなんてなくなるはずですから』

丁寧な字で綴られる言葉は懸命で、前向きで。わざわざこうして手紙にしてくれたのだから、社交辞令などではなく素直な気持ちなのだろう。
嫌われたわけではなかった。そうとわかると体から全ての力が抜け、強張っていた口元がだらしなく緩むのを感じて、誰も見ていないというのに慌てて手のひらで覆い隠してしまった。
すっかり浮かれながら、二枚目へ捲る。

『それから、恐れ多くも一つお願いがあるのですが──』

一枚目よりも長く、そして深刻に文字が連ねられている。
読み進めていくうちに舞い上がっていた熱は次第に落ち着きを取り戻し、彼女の胸の内のより奥深くにまで触れることで、また別の情を持った熱が胸の芯を燃やしていった。
消えることのないトラウマを持つ彼女にとって、この手紙を書くのに相当な勇気を消費したことだろう。そうまでして仲良くしたいと、真摯に向き合ってくれることが何よりも嬉しかった。
彼女の希望に応えたい。そして、傷つきながらも真っ直ぐに注いでくれるその想いを守りたい。衝動に突き動かされて立ち上がったはいいが、そういえば手紙を書く道具など持ち合わせていないことに遅れて気づく。その辺のメモ用紙ではさすがにまずいだろう。
今すぐ調達しに行きたいところだが、それ以前に自分には経験がないことを続けて思い出した。見切り発車ではきっと支離滅裂な手紙が出来上がってしまう。それでは彼女を困らせてしまうだろうし、それ以上にただ恥を掻くだけだ。

「ど、どうすればいいんだ……」

いっそ直接伝えてしまった方が早い気もするが、それこそ彼女と面と向かってまともに伝えられるかどうかという不安が大きい上に、そもそもそれが難しかったから手紙を書いてくれた彼女の勇気を踏み躙ることになるかもしれない。
手詰まりに前を塞がれ、から回る意気込みと共に再びベッドに崩れ落ちた。


「……何やってるんだ、お前」

頭を抱えているうちに部屋に戻ってきたルームメイトが、氷柱のような視線を向ける。今はそれを痛いと思う余裕すらなく、むしろ駄目元で縋ろうとしてしまった。

「あ、レン! ちょっと頼みがあるんだけど」
「断る」
「えぇっ、まだ何も言ってないのに!」
「どうせろくでもないことだろう。聞きたくない」
「そんなこと言うなよ〜。俺、女の子への手紙なんて書いたことないのに」

所詮は駄目元なので、呆気なく振られたわけだが。一切の関心すら向けてくれないルームメイトに見捨てられ、いよいよ絶望に打ち拉がれていると、そっぽを向こうとしていた彼が僅かに身動ぐ程度の反応を示した。

「女の子への手紙……? お前、女は苦手なんじゃなかったのか」
「それは、まあ……ちょっと事情があってさ……あ、言っとくけど、別にラブレターとかそんなんじゃねぇからな?」
「そんなことは聞いてないし、どうでもいい」
「ひでぇ……」

興味を示したかと思えば容赦なく斬り捨てられ、心を弄ばれている気分になる。肩を落として嘆いていると、深々としたため息が当てつけのように吐き出された。

「別に手紙なんて、お前の言いたいことをそのまま書けばいいだろう。いちいち人に聞くな、鬱陶しい」
「そ、そのままでいいのか……?」
「顔色を窺うために飾り立てた適当な言葉なんて、貰っても嬉しくないだろ」
「それは……確かにそうだな」

不意打ちで投げられたアドバイスはすんなりと懐に落ち、至極的確に感じられた。意外にもしっかりこちらの悩みに応えてくれたのかと期待を抱いたのだが。

「だったら自分で考えろ。そして俺に構うな。迷惑だ」
「結局そっちが本音かよ!?」

今度こそ彼の微々たる関心は完全に遮断され、背を向けられてしまった。壁際に備えられたテーブルの傍に控えたチェアに腰を下ろし、意識の全てを読書に注がれては、もう何を語りかけても無駄だ。

「言いたいことをそのまま、ねぇ……」

手紙でさえ気の利いた言葉が思い浮かべることができないもどかしさから頭を軽く掻き毟りながら、手にしたままの手紙に再び視線を落とす。
レンの意見は尤もだが、できる限り彼女の不安を取り除いてやりたいし、彼女に喜んでもらいたいという願いが先行して、どうしても言葉を慎重に選んでしまう。この調子では、そこそこ長期戦に突入しそうだ。
彼女も同じように頭を悩ませて書いてくれたのだろうか。その姿を想像すれば、何故だか胸が強く疼いた。






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