ノヴァにここ数日の研究結果を一通り報告し終え、一息吐いたところでノヴァがあっと何かを思い出した声をあげた。

「そういえば、ガストくんから手紙の返事は来たの?」

集中が途切れて緩んだ神経に、悲しみが鋭く突き立てられる。つい数秒前まで真剣に引き締めていた顔が、みるみるうちに影を落として崩れていった。

「それが……音沙汰なく……」
「そろそろ十日が経ちマスガ、ガストの部屋から手紙らしきモノは見つかりませんデシタ。ジャックはちゃんとわかりやすい場所に置いておいたノニ……」

他でもない手紙をガストの部屋に忍ばせてくれたジャックも、責任を感じて落ち込んでいる。決してジャックのせいではないと宥めても、気が気ではないといった様子。
事態は深刻だ。ノヴァも同調して首を捻る。

「う〜ん、忙しくて忘れてるのかな〜? マリオン、何か聞いてない?」
「ボクが知るワケないだろ」
「あはは、だよね〜」

元より期待などしていなかったと言わんばかりにあっけらかんと笑うノヴァの傍ら、テーブルに備えつけられた椅子に腰を据えて、静かに紅茶を嗜むマリオンはこちらに目を向けることもなく素知らぬ顔をしている。

「ジャクリーンが代わりに聞いてきてあげるノ!」
「そ、それはだめー!」

足元で張り切りだすジャクリーンを慌てて止める。ただでさえ必要以上の情報を振り撒きかねない彼女を、このタイミングで野放しにするのは危険だと感じた。

「ま、所詮はその程度の繋がりだったってことだろ。大人しく諦めたら?」
「うぅっ」
「マリオン〜、トドメ刺しちゃだめ〜!」
「ふん、面倒なヤツだな」

冷淡に刺さる彼の棘は、最後に僅か残っていた淡い期待を容赦なく削ぎ落としていった。自身が手紙に費やしたのと同じ五日目が過ぎた辺りから、少しずつ期待より不安の方が勝るようになっていったが、そろそろ本当に潮時かもしれない。
期待なんてしない方がよかったと、諦めが終幕のように下りていく。

「……マリオンさんの言うとおりね。アドラーさんにとっては、やっぱり迷惑だったのかもしれないわ」
「ガストちゃまはゼッタイそんなコト思ってないノ! 一緒にセレーナちゃまのゴハンを作った時だって、トテモ楽しそうにしてたノ〜!」

健気に励まそうとしてくれるジャクリーンの心遣いがとてもありがたく心に沁みる──はずなのだが、今、聞き捨てならない重大な情報が流れていった気がして、セレーナは眉を少し寄せた。

「えっ……私のごはん?」
「ああっ、ジャクリーン、それは内緒デスヨ!」
「ジャック、どういうこと?」

慌てふためくジャックの様子は、もはや隠し事をしていたと表しているようなものだ。やんわりと問い詰めると、懺悔のごとく観念して答えてくれた。

「この前、徹夜明けで力尽きて倒れていたセレーナのタメに、ガストが一緒にゴハンを作るのを手伝ってくれたのデス」
「え……それって、私が記憶もないのにいつの間にか仮眠室のベッドで寝ていた時のこと、よね……?」
「ちなみに、セレーナをベッドに運んでくれたのもガストデス」
「ええっ!? そんなの、初めて知ったのだけれど」
「セレーナに気を遣わせたくないカラ黙っていてホシイと、ガストにお願いサレテ黙っていマシタ」

思いもよらぬ衝撃の事実を打ち明けられ、思考が真っ白になって言葉を失った。
まさか、自分の知らない間にガストが世話をしてくれていただなんて。あんなにも無様な姿を見られていたというのも耐え難い恥だが、それ以上にまた恩を重ねていたにも関わらず、失礼な仕打ちをしてしまっていたことが許せなかった。

「そもそも、なんでコイツの部屋にヤツがいたんだ? 普通にアヤシイだろ」

気まぐれに挟まれるマリオンの言葉は、セレーナへの心配などではなく純粋にガストへの不信感を露わにしている。

「セレーナに用があったのデハ? ラボの前に立っていたノデ、入らないヨウニ注意しマシタガ……ちょうどセレーナのお仕事が終わったノデ、一緒に中に入りマシタ。するとセレーナが死体のヨウニ床に転がっていて、ガストが起こそうとシテくれたのデス」

当時の状況を語るジャックの言葉に紐付けられて、曖昧な記憶がふわっと脳裏に再生された。

「そ、そういえば、徹夜明けにアドラーさんの夢を見た気がする……ひょっとして、あれって夢じゃなかったのかしら」
「オマエ……」
「セレーナちゃん、時々おれみたいになる時あるよね〜」
「博士と一緒にされたくはありませんが……」
「え〜、ひど〜い!」

マリオンの呆れ返った視線が突き刺さると同時に、ノヴァが心外なことを言うものだからすぐさま否定してしまった。あからさまに傷ついたと言わんばかりにぶつけられる文句を受け流していると、ジャックが何かに思い当たったような反応を示した。

「ああ、そういえば、セレーナをベッドに運んでくれた時、ガストが何か呟いていマシタ。ええと、確か、カワイイ、トカ……」
「えっ……えええっ!?」

さらなる衝撃を与えられ、セレーナの顔が一気に沸騰した。
確か以前にもそのような言葉を口にされた気がするが、その時はきっと社交辞令のようなものだと自らを言い聞かせていた。惨めな徹夜明けの寝顔を見られた上で、同じ言葉を向けられるだなんて、恥ずかしすぎる。
そして、ラボに異様な空気が流れているのを感じて、ますますいたたまれなくなった。

「それはどう考えてもアウトだろ。過ちを犯す前に捕えておいた方がいいんじゃないか?」
「き、きっと何かの間違いよ。そう、聞き間違い!」
「失礼な! ジャックの耳は確かデス!」
「ヤッパリ、ガストちゃまはセレーナちゃまが大好きナノ〜!」
「うーん、それならすぐに返事をくれると思うんだけど……さすがに手紙は重かったのかな〜? 今時の子たちの感覚はわかんないや」
「うう、そんな……」

様々な感情が入り乱れ、もうわけがわからなくなって嘆きをこぼす。
仮にもジャックの話が本当だったとして、それはもう終わったことだ。実際に手紙は返ってこなかった。いい加減、諦めなくては。どうしても断ち切れない傷だらけの未練を垂らしていると、ラボの扉が来客を知らせた。

「失礼します。マリオン、こちらにいましたか。今日は検査の日だというのに、なかなか姿を見せないので心配しました」
「うっ。いちいち探さなくていいのに」

マリオンはヴィクターの顔を見るなり至極嫌そうに顔を歪める。一方、そんな彼の育ての親であるノヴァは対照的に、救いを求めて煌めく眼差しをヴィクターに向けた。

「あ、ヴィク〜。ちょうどよかった。ヴィクはガストくんから何か聞いてない?」
「ちょ、ちょっと、ノヴァ博士っ?」

セレーナは思わずぎょっとして、ノヴァの腕に両手で掴みかかる。もうこれ以上、話を広げないでほしいのだが。

「ガスト? 何の話でしょうか」
「セレーナちゃん、十日前にガストくんに手紙を書いたんだけど、返事がないみたいなんだよね〜」
「それは知りませんね。まず、ガストのプライベートにはまるで興味がありませんので」
「あっはっはっ、薄々予感してたけど、また聞く相手間違えちゃった〜」

皮肉に乾いた笑い声があがる隣で、ヴィクターが他人への関心を持たない人間で心底よかったと心から安堵した。もうこれ以上は、余計な情報を仕入れたくない。
なのに、今し方さらりとノヴァの期待を躱したはずの彼は、意外にも表情に含みを持たせだして。

「……あぁ、一つ思い出しました」
「おぉ、なになに〜?」
「ちょうど先週のパトロールの時に、ガストから妙なことを聞かれましたよ」
「妙なこと?」
「セレーナは何色が好きか、と」
「……はいっ?」

あまりにも脈絡のない問いに、まるで時が止まったかのように珍妙な沈黙が流れた。

「知らないと答えると、何やら思い悩みながらどこかへ消えていってしまいましたが」

結局、ヴィクターにも彼の意図するところはわからず、この情報をどう捉えていいのかも掴み損ねて終わってしまった。理解が追いつかずに呆然としている傍らで、ささやかな戦慄に一歩引いたマリオンの声がぽつりと落ちる。

「……そこはかとなく気持ちワルイな」
「そ、それは言いすぎかと」
「あ。もしかして、手紙を買いに行ったんじゃないっ? セレーナちゃんの好きな色のレターセットを選ぼうとしてたのかも!」
「きっとそうに違いないノ〜!」
「だったら、なんで未だに手紙を寄越さないんだ?」
「そこなんだよね〜」

先程からジェットコースターのごとく急上昇と急降下を繰り返す一喜一憂に、そろそろ疲弊してきた頃。ヴィクターはじっと探るようにマリオンを見据え、やがて真相を見透かしてどこか愉しそうに指摘した。

「……マリオン。貴方、注射が嫌だからとわざとセレーナの話に肩入れしようとしていますね?」
「は? そんなワケないだろう」

涼しい顔をしながらもぴくりとマリオンの眉が僅かに動くのを、セレーナは見逃さなかった。

「セレーナとガストのことに、マリオンがタダで興味を抱くとは思えませんからね」
「た、確かに……」
「セレーナちゃん、自分のことなのにそこで納得していいの?」
「う、うるさい。今、行こうとしてたところだ」

なるほど、だから今日のマリオンはセレーナがここを訪れてからも大人しく居座り続けていたわけだ。 いつもならすぐにどこかへ去るか、むしろこちらを追い出そうとするくせに。
当てつけに投げられた反発は、素直になれない強がりの子どものようで微笑ましい。口元を少しだけ緩めているとすぐに不満を訴えて睨まれたが、それすらもなんだか可愛らしく思えてしまう。
今この瞬間だけは、不安など忘れて和やかさを心に取り戻していた。本当に、一瞬だけ。







「ああぁ〜……やっと書けた……」

疲労を伴う達成感に集中していた神経を解放し、体中の筋を思いきり伸ばした。
テーブルにはセレーナを印象づける淡い水色と白が溶け合うようなデザインの便箋が、四枚ほど。全ての行が、繊細なデザインとは不釣り合いな濃い字で埋め尽くされている。ヒーローとしてそこそこに過密したスケジュールの合間を見つけては試行錯誤して出来た、努力の結晶だ。
ずっと同じ姿勢でいたからか、体が凝り固まっている。軽く首や肩を揉んで解そうとしていると、隣の生活領域から低く呆れを含む声が静かに耳に刺さる。

「お前……まだ書いていたのか、それ」

そちらを振り返ると、じっとりと地を這う冷たさを持つ視線を浴びた。
彼の言わんとしていることは理解できる。しかし、時間をかけたからこそ満足にやり遂げることができたのだから、今のガストにとっては実に些細なことだった。

「そう言うなよ、これでも俺なりに一生懸命書いたんだぜ。これでちゃんとあの子に俺の気持ちが伝わるはずだ」
「ラブレターじゃないとか言ってなかったか」
「いやいや、愛の告白とかじゃねぇから。まあ、それよりもっと大事なことだけどな」

これは厚い壁を越えて心を通わせるための、初めの一歩だ。醜い下心など一切なく、純粋に彼女と親しくなるための。何でもないはずなのに、彼女が相手だとそれがとても特別なことのように感じられて、なんだか無性に浮かれてしまう。
それはあくまでもガストの価値観のみでの話であり、事情を知らないレンには当然ながら全く響いていないようだが。

「ふーん」
「おいおい、そんなどうでもいいみたいな反応やめろよ。結構傷つくんだけど」
「実際、どうでもいいからな」
「相変わらずつれねぇなぁ。ま、いいや。無事に返事も書けたとこだし、届けてもらうようにジャックにでもお願いすっかな」

少々水を差されてしまったが、まだ胸を擽る期待は軽やかに躍り続けている。椅子に長時間縛りつけていた腰をようやく上げ、ひとまずはノヴァのラボを目指すべく部屋を出ようとした。

「……返事?」

が、レンの怪訝な声が妙に気に留まって、思わず足を止める。

「ん? あぁ、そうだけど」
「お前、一週間前から騒いでなかったか?」
「お、おぉ、正確には十日ぐらい? だけど……」

突然、固く閉ざされる会話。呆れを通り越して非難を訴えているような、救いのなさをその目に真っすぐ縫いつけられて、途端に居心地が悪くなった。

「な、なんだよ」
「いや……それだけ経ってたら、相手はもう忘れられてると思ってるかもな」
「えっ」

ただ彼女に応えることだけを考えて無我夢中で取り組んでいたから、そのような懸念は一切忘れていた。いよいよ高揚感を抉り取るほどの不穏な可能性に仕留められ、緩んでいた頬が強張る。そして、急激に込み上げる焦りに、だんだんと血の気が引いてきた。
さすがに目も当てられなくなってきたか、あからさまに視線を逸らされるようになってしまった。

「まあ、お前がどうなろうと俺の知ったことじゃないが」
「えええっ、そんなこと言うなよ! いや、ぶっちゃけ俺もちょっと時間かかりすぎたかなって思ったけどさぁ。何から書いていいかわからなくて散々迷っちまったし、書きだしたら書きだしたでペンが止まらなくなっちまったんだよ〜!」
「知るか、そんなこと」

必死の弁解も呆気なく払い除けられ、容赦なく絶望に沈められたガストは、立つ力すら失って弱々しく壁にもたれかかる。

「やべぇ、今度こそ終わりだ……」

慄く嘆きが虚しく床に転げ落ちていく。嫌われたと思い込んでいた彼女との繋がりを手にする、奇跡的に訪れたチャンスだと思ったのに、それすらも手放してしまうとは何と愚かだろうか。

「……その相手、遠くに住んでるのか」
「いや、タワーにいるけど」
「は?」

一瞬だけレンの声にほのかな同情にも似た色を感じたが、それは幻聴だったのかもしれない。たった今に発せられた声が、あまりにも理解に苦しむと言わんばかりにこちらを蔑んでいたから。

「お前、バカなのか」
「ええっ、なんでだよ」
「すぐ近くにいるのになんで手紙のやりとりなんてしてるんだ。どう考えても直接話した方が早いだろ」
「あぁ、それはだな……その子、男が怖くて俺の前だと上手く喋れないからって、代わりに手紙をくれたんだよ。それなのに、いきなり会いに行ってあの子をビビらせちゃ意味ねぇだろ? 俺も女の子と話すのは得意じゃないしさぁ」

真っ当な理由を語っているつもりなのに、我ながら言い訳がましく思えてきた。それは恐らく、レンの関心が完全に失せているのが見て取れるからなのだろう。

「…………トレーニング行こう」
「ああっ、待ってくれ、レン! 俺を見捨てて行くな〜!」

レンは全くの無感情で、ガストに目を触れることもなく部屋を出て行ってしまった。その場に取り残されたガストの悲鳴じみた叫びだけが、虚しく部屋に響いた。






top