硬い金属の寝台に寝かされ、四肢は頑丈に拘束されている。とはいえ拘束などされずとも、体は既に出された飲み物に混入していたという薬物によって麻痺させられているのだが。一切身動きの取れない状態で、ガストはせめてもの足掻きとして声を力いっぱいに大きく張り上げる。

「ちょっと待ってくれ、ドクター! 今日はそんな約束してなかったはずだぞ!」
「昨日の実験中に約束したではありませんか」
「いやいやいや、実験中にした約束なんて約束の内に入らねぇだろ! なぁ、俺、この後大事な予定があるんだよ」
「そうですか。では、早く終わらせてしまいましょう」
「いや、そうじゃなくて!」

涼しい顔を一つも緩めることなく、ヴィクターはガストの抗議を全て聞き流して事を進めようとする。
昨日の実験でもなかなかに酷い仕打ちを受けたが、まさか二日連続で強いられることになるとは思っていなかった。どうせこれからの実験も過酷に決まっている。そして、実験が完了するまで解放する気はないのだろう。
絶望的な状況下、そろそろ抵抗を諦めつつあったところに思わぬ来客が訪れた。

「ヴィクター博士、失礼しま……す……」
「あっ」

控えめに耳に届いたセレーナの声は、この異様な光景を目の当たりにして明らかに動揺していた。
どうにか首だけでも起こして彼女の姿を確認していると、不意に目が合ってどきりとしてしまった。が、今はそんなことで心を揺らがせている場合ではない。
一方、傍らに立つヴィクターはこれを包み隠す様子もなく、平然と彼女を迎えている。

「おや、セレーナ。どうしました? 何か面白い仮説でも立てられましたか?」
「ええっと、用件はだいたいそのような感じなのですが……こ、これは一体……」
「ガストが私の実験に協力してくれることになったんですよ。彼はとても優良な被験体ですから、とても助かります」
「た、助けてくれ、セレーナ! 頼む、何でもするから!」

確かに実験には協力するとは言ったが、さすがに内容による。ヴィクターの言い方では何か誤解を受けそうな気がして、恥を捨てて必死の形相で助けを訴えた。
優しい彼女は心配しておろおろとこちらに目配せした後、慌ててヴィクターに物申してくれた。

「あっ、あの、これは協力というより、強制なのでは? ご本人の承諾はきちんと得ているのですか?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。ガストは日頃から積極的に私の実験に協力してくれてるんですよ?」
「セレーナ、ドクターの言うことは信じるな! 少なくとも今日は何の約束もしてねぇのに、いきなりこんな目に遭わせられちまってるんだ! とにかく、俺を信じてくれー!」
「……とのことですが」

ヴィクターとガスト、二人の間を行ったり来たりする視線はひどく困惑している。上司との板挟みにしてしまっていることは申し訳なく思うが、今は自身の身の保全が最優先だ。

「やれやれ、往生際の悪い。こちらはしっかり言質も取っているのですが、聞いてみますか?」

気怠げなため息を吐き出すと共にヴィクターが懐から取り出したのは、小型の録音機器だった。まさか、実験時の音声を録音しているのか。抜かりなく用意周到なこの男の、容赦ない手段には戦慄してしまう。

「ひ、卑怯だぞドクター! あんなの誘導尋問みたいなモンじゃねぇか!」
「や、やはりこのまま押し進めるのはよくないのではっ?」

この強引な手法には、さすがにセレーナも腰が引けているようだ。懸命に庇おうとしてくれるその姿が、今のガストにとっては何よりもの救いだった。

「セレーナ。これから行う実験は、他ではなかなか見られない貴重なものになると思います」
「えっ」
「ガストの頑丈な体でなければ、この実験はそう叶うものではないでしょう。貴方ほどの研究員ならきっと、好奇心を掻き立てられるはずです」
「お、おい、ドクター……?」

なのに、この男は唯一の心の救いさえ平気で奪おうとする。
セレーナの肩に優しく手を添え、この期に及んで尤もらしく言いくるめようとしているではないか。
しかし、良識のあるセレーナならきっと拒んでくれるに違いない。強い期待を向けていると、セレーナの表情が次第に悩ましげになり、なんだか雲行きが怪しくなってきた。

「うぅっ……そう言われると、気になってしまうのですが」
「セレーナ!?」
「も、申し訳ございません。研究者の端くれとしては、どうしても己の好奇心には抗えないものでして……」

罪悪感と葛藤しながらも彼女の中に疼く期待感を垣間見て、愕然として言葉を失った。科学者には変人が多いという偏見があったが、所詮は彼女もノヴァやヴィクターと同じ類の人間だったのだと思い知った。

「科学者ってヤツは………………」

唯一の希望を打ち砕かれてはすっかり抗う気力を削がれ、力なく天井を仰いだ。
彼女の良心を奪い去ったヴィクターは勝ち誇るわけでもなく、些細な問題が片付いたと言わんばかりに淡々とガストに影を落として見下ろす。

「さあ、早く覚悟を決めてください。大事な予定とやらに間に合わなくなってしまいますよ」
「大事な予定っ? そ、それはいけないのでは?」

一度は己の好奇心に屈した彼女だが、さすがに有無を言わさず人の予定を妨害するほどの図太さは持ち合わせていなかったようだ。
深刻に受けとめて躊躇いを見せ始めた彼女を見ていると、なんだかばつが悪くなった。何故なら、大事な予定というのは実験を回避するためのでっち上げで、厳密にはつい先ほど不意に思い立って生まれた、一方的かつ些細な予定だったのだから。

「いや、大事な予定っつーか……あんたに会いに行こうと思ってたんだよ」
「えっ!?」
「おや、それならちょうどよかったではありませんか。セレーナに見守られながら実験台になれるんですから、もっと喜びなさい」
「いや、それはさすがにおかしいだろ」

一方、この男はどこまでも理不尽に話を纏めようとする。しかも、たとえ冗談であっても冗談には聞こえないのが厄介だ。
幸いにも良心を取り戻したセレーナは、口元に手を添えて再び葛藤を始める。

「うぅ、実験は気になりますが、やはりアドラーさんが犠牲になってしまうのは心苦しいですね」
「セレーナ……」
「気にすることではありませんよ。ガストの忍耐力は並外れたものではありませんから」
「それ、あんたが言うことじゃないよな?」

セレーナの慈悲深さと、ヴィクターの慈悲のなさに。あまりの落差に心を弄ばれ、そろそろ疲れてきてしまった。いっそ早く終わらせて、セレーナと友好を深める時間を少しでも確保した方が有意義である気がして、遂に一切の抵抗を諦めた。

「あー……どのみち俺が協力するって言うまで解放してくれるつもりはないんだろうし、腹を括るしかねぇんだよな」
「えっ。で、でも……」

身を案じてくれる優しい眼差しをありがたく受けとめ、楽観を演じて彼女に笑いかける。彼女の罪悪感を少しでも軽減させるために。

「ま、ドクターの言うとおりだ。あんたは気にせず俺の死に様を見届けてくれよ」
「し、死ぬのですか!?」
「いや、比喩のつもりだったんだが……」
「それでは、ガストが腹を括ったところで始めますよ」
「あんたはもうちょっと遠慮してくれ!」

目の前のちょっとしたドラマにさえ関心を向けようともしないヴィクターは、余韻に浸らせる間もなく大がかりな機械を操作しだした。
もういい、早く終わらせてくれ。半ば自棄になって、体に与えられるありとあらゆる苦痛を受け入れた。


「あ〜、今日も酷い目に遭った……」

どれだけ時間が経ったのかもわからないが、解放された頃には心身ともにひどく疲弊していた。拘束器具を外してくれるヴィクターの機嫌は相反して、いつもより良さそうだ。

「お疲れ様です。貴方のおかげでなかなか興味深いデータが採れました。助かりましたよ」
「おぉ、それはよかった。これで成果がなかったとか言われたらさすがに心が折れちまうところだったぜ」

せめて犠牲が実になってよかった。もはや彼を責める気もなく、安心して笑いながら重い体を起こしていると、傍らで彼女が信じられないと言わんばかりに目を丸くしてこちらを見つめた。

「す、凄い……あんなにもハードな実験を耐えてしまうだなんて……」
「はは。あんたが見守ってくれてたおかげで、いつもより頑張れちまったよ……なんてな」
「そうですか。では、これからは毎回セレーナに立ち会ってもらいましょう」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけどなぁ」

純粋な彼女への好意を尽く利用しようとする無慈悲な科学者に嘆いていると、セレーナが唐突に寝台に身を乗り出して、熱望を秘めた瞳を一心に向けられた。

「あ、あの、もしよろしければなのですが、今度、私の実験にもお付き合いいただけませんかっ?」
「えぇっ!?」
「あ、もちろん、ヴィクター博士のような惨い実験を強いるつもりはありませんよ? 無理にとは言いませんし……」
「あれ、今、惨い実験って言った……?」

彼女から見て、今の実験はそれほどまでに過酷なものだったのか。当たり前になってきた今となっては、もう基準などわかったものではない。
彼女ならきっとヴィクターよりもずっと優しくしてくれると信頼できるし、こうして遠慮なく頼ってもらえるのは喜ばしいことだから。断る理由は、当然見つからなかった。

「まあ、あんたがそれで喜んでくれるなら、別に構わないけど」
「本当ですかっ?」

ますます煌めきを増す瞳はとても純粋で、綺麗で、強くこちらの意識を惹きつけられる。すっかり絆されて、胸の内までぎゅっと甘く絡めとられてしまった。

「あぁ。俺の体、あんたに預けてやるよ」
「よかったぁ。アドラーさんの大切なお体、必ずよりよい未来のために役立ててみせますからね」
「ははっ……そりゃあ、光栄なこと、だな」

嬉しそうに蕩けていく笑顔が、視界を通して体の中へと熱を注いでくる。何でもないように笑ってみせたが、果たしてちゃんと笑えているかどうかも怪しい。
熱に浮かされて白んでいく思考に、タイミング良く水を差してくれたのがヴィクターの無関心な声だった。

「さて、私の用は済みましたから、もう行ってもらって構いませんよ。セレーナに用があったのでしょう?」
「お、おぉ、そうだった。あぁでも、セレーナもドクターに用があったんだっけ」

背を向けて分析結果を眺めているヴィクターから、ちらりとセレーナを一瞥すると、彼女は思い出したように手を叩いた。

「はっ、そうでした! 少しご意見を聞かせていただきたいことがありまして」
「ノヴァではなく、私にですか?」
「ノヴァ博士にも既にお聞きしているのですが、参考までにヴィクター博士のご意見も頂戴したくて」
「なるほど。いいでしょう」

気づけば研究者たちの領域に取り残されていたガストはなんとなく気を遣って、ようやく寝台から下りてよろける足をゆっくり動かした。

「だったら俺、いったん部屋に戻ろうかな。パトロール帰りにいいモン見つけて買ってきてあるんだ。あんた、甘いのは大丈夫か?」
「は、はい。好き、ですけれど」

自分で聞いておきながら、小さく首を傾けながら発せられる言葉に過剰に反応してしまい、ぐっと喉元に昇ってくる熱を帯びた慄えを慌てて呑み込む。

「じゃあ、一緒に食おうぜ。さすがにこっちの部屋にあんたを呼ぶのはマズいだろうから、どっかで適当に」
「でしたら、せっかくですので私のラボで休んでいかれますか?」
「えっ?」
「あ、えと、もちろん休憩スペースなどでも構わないのですけれど、私に会いに来てくださったというので。周りに誰もいない方がゆっくりお話できるかと思いまして……」

願ってもない提案に、また胸の鼓動が暴れだす。その誘いはきっと純粋な厚意の上で成り立っているのだろうが、どうしても疚しさを拭えずに躊躇ってしまう。
一応、彼女のためにも念入りに確認しておかなければならない。

「……ジャックもジャクリーンもいないし、二人きりだけど、本当にいいのか?」
「それはっ……アドラーさんさえ、よろしければ」

彼女もこちらの意図を察したのか急に焦りを見せたが、拒否されることはなかった。淡く色づいていく頬は、恥じらいを魅せていく。
そんな姿を見せられては、また軽率にも舞い上がってしまう。

「わ、わかった。じゃあ、あんたの部屋の前で待ってるよ」
「はい。なるべくお待たせしないようにしますので」

締まらなくなっていく顔を見せたくなくて、短く応えると足早にラボを立ち去ろうとした。早く一人にならなければ、何もかも崩壊していく気がして。

「ふむ……ついこの間まで思い悩んでいたのが嘘のようですね」

扉を潜った瞬間、ヴィクターの言葉がガストの心臓を不意に鷲掴んだ。

「えっ?」

振り返ると彼の視線はセレーナに向いていて、自分に向けられた言葉ではないとわかったものの、だからといって見過ごすことはできなかった。真意を確かめようとしたが、自動扉が阻むように閉まる。

「まさか……手紙のこと、ドクターにも知られてたのか?」

どうやら自分が思っていたよりもずっと、先日の一件は大事になっていたらしい。セレーナとの間では解決したとはいえ、あちらこちらにまだ恥が残っているような気がして、己の過ちを改めて猛省する羽目になった。



テーブルの上に、二人分のスイーツと紅茶がなみなみ注がれたティーセット。白い小皿の上には、透き通った水の色をしたゼリーが可愛らしく乗っている。中にはヒトデや貝殻を象る黄色や白のフルーツが揺蕩っていて、美しい海の中を連想させる。
硬質なテーブルを挟んだ向かいでは、そのゼリーと似た色をした瞳が爛々と輝いてそれを見下ろしている。まさにパトロールの帰り道、思い描いていた景色だった。

「わあ、とても綺麗ですね……!」
「マリンゼリーっていうらしいぜ。見てたらなんだかあんたを思い出してさ、思わず買っちまったんだ」
「私を……?」
「あんたの瞳も、限りなく綺麗に澄んだ海みたいな色してるだろ? 見てると心が癒やされるんだよな」

他意も嘘もなく、純粋な所感のつもりだった。無論、癒やしをくれるのは瞳だけではないのだが、それさておき。
しかし、きょとんとこちらを捉えた視線が、だんだんと焦りに揺らいでいく。

「ア、アドラーさん……?」
「ん?」
「そういう口説き文句は、恋人など愛する方のために取っておくべきかと思うのですけれど」

他へ泳いでいく視線は弱々しく、震える声は消え入りそうに苦言を呈した。
指摘されて、初めてガストは己の失言に気づいた。いくら何でも今のは馴れ馴れしすぎたか。省みれば省みるほど、気持ち悪いと思われたかもしれないと思うと気が気ではなくなって、恐る恐る顔色を窺う。

「あ………………ふ、不快にさせちまったかな?」
「いえ、そうではなく……どう反応していいのかわからなくて。今のはその、お世辞として受け取るべきなのでしょうか。それとも……素直に嬉しいと思っても、よいのでしょうか」

彼女もまた、正解を探るようにこちらの顔色を窺っている。ほんのり赤らむ顔は恥じらいに困惑して、不安と期待を織り交ぜた熱をこちらに注いで。そんな目で答えを求められては、張ろうとした虚勢もなし崩しにされて、上手く取り繕えなくなる。

「えっ……とぉ、一応、手紙にも書いたと思うんだけど」
「手……紙……?」
「俺はいつだって、あんたを喜ばせたいと思ってるからさ……」

回りくどい言い方だったかもしれないが、これが精一杯だった。震える声を絞り出して、真っすぐに見つめて伝えると、彼女は唖然として動かなくなってしまった。
まさか、だめだったのか。強烈な不安に耐えきれなくなってきたところで、おもむろに彼女はテーブルに突っ伏した。

「お、おい、セレーナっ?」
「そ、それ以上はちょっと、もう、お許しいただけると……嬉しいを越えて、恥ずかしくて立ち直れなくなってしまいます……」

悲鳴じみた声が、か細く絶え絶えに訴えた。表情は見えないが、テーブルに流れ落ちる髪の隙間から見える耳は真っ赤に茹で上がっているし、よく見ると肩が小さく震えている。
不謹慎にもそんな姿が可愛くてしょうがないと思ってしまい、心臓が激しく音を立てる。

「お、おぉ…………なんか、ごめん」

それすらも罪深く感じられて、見られてもいないのに慌てて手のひらで締まりのない口元を覆い隠しながら、つい謝罪が口を突いた。
きっと彼女に真意が伝わることはないだろう。伝われば、お互いもっと大惨事になってしまうだろうから。






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