『やっとモンドへ帰るので、また旅をしませんか?明日、風立ちの地で待っています。』

あの気の抜けた口調には似合わない、綺麗な文字でそう書かれた手紙をしまいこんだ。


二年前、ロストとの旅をやめた。そもそも、現在のことを全く知らなかった彼女がこの世界に馴染むまでの案内役を務めていただけで、大きなことはまるでなかったけれど。
当時は、別にこのままでもいいかなあと思っていた。帰る場所のない彼女が一人でいるよりも、同じように留まらないボクが一緒にいたほうが良いだろうから。
空が澄んでいることに喜ぶ彼女を見るのが好きで、少しづつ笑顔が増える彼女を見ることも好きで、手を引いてはしゃぐ子どもみたいな一面も好きだった。その程度には気に入っていた。
人が必要以上に大切になってしまうことを避けていたボクにとってこれはとても都合が悪いことに、ある日気がついた。
ずっと昔に戦死した友人たちのことを思い出してみれば、僕の中では彼女は彼らに近い場所で、嬉しそうに椅子を持ってきて座っていた。
そのとき、ふとこのままでいてはいけないと思った。執着することが怖い。失うことが、別れることが怖い。
早くこの芽を潰さなければいけないと。


「吟遊詩人さん!」

モンド城外の村で暮らす女性からの頼みだった。いわく、「ずっと泣いている娘に演奏を聴かせて欲しい」と。両親共働きで、面倒を見てやれないのが可哀想らしい。
言われた家に向かうと、少女は静かに泣いていた。ぽつぽつと人の名前を呼んで、しゃくりあげては涙をこぼす。
少女の呼吸を整えるために背中をトントンと叩いて、少し落ち着けばライアーを引いて意識を変えさせてやると少女は泣き止んだ。
近所に住んでいた少年が遠くへ引っ越してしまったことが淋しくて、涙が止まらないのだと少女は言った。

「いっしょにいるとね、楽しいの。キラキラしてね、じわじわ〜って胸が痛くなって、でもやっぱり離れたくなかったの」
「うん」

少女が話したのは可愛らしい恋の話だった。二人でモンド城でかくれんぼをして両親たちを困らせたこと、花で指輪を作って結婚の約束をしたこと。
楽しそうに話す少女の顔は少しずつ暗くなっていく。

「ずっといっしょって約束したのに、ずっと遠くに行っちゃった。ケンカして、嫌い!って言って、謝りに行ったらもういなかったの。
……吟遊詩人さんはしってる?おかあさんたちがいない家でひとりで遊ぶの、とってもさびしいの。いつもふたりであそんでたから、しらなかったの」

ポロポロと少女が泣くから、「泣かないで」とマントで優しく涙をぬぐった。

「いつか君が会いに行ったらいいんだ」
「嫌いって言っちゃったのに?」
「仲直りできるよ」
「吟遊詩人さんは、ともだちと仲直りしたことあるの?」
「……ボクのはそういうのじゃないよ」
「わたしに言っといて、へんなの!」

少女はボクを見て笑った。キラキラして眩しいのに、胸にじわじわと痛みが広がることはなかった。


「わあ、すごい雨」

少女の家の窓から外を見ると、ザアザアと雨が降っていた。ただの雨ならば水たまりではしゃぐことくらいはできるというのに、それすら許さない土砂降り。
自分はどんな天気でも楽しめることを自負していたけれども、土砂降りともなるといつものように歩き回るのはばかられる。
つまらない日だ、と多少の落胆とともに安堵感がした。
———この雨ならば、きっとロストは待ってはいないだろう。
会えばきっと、またあの肌に馴染まない感情に襲われる。そうならないことにほっとしたのだ。会えば、あまりにも失いがたいそれを手放せなくなってしまうから。

「吟遊詩人さん」
「なんだい?」
「傘あげる」

少女の小さな手から、子ども用の小さな傘が手渡される。返そうとすると、「あなた、行きたいところがあるんでしょ?ずっと外見てるもの」と押し返された。

「何で会いたいのに合わないの?今会わなかったら、もう会えないかもしれないのに」

———そんなことは、ずっと前から知っている。知っているから、会いたくないのだ。

「吟遊詩人さん、どこか痛いの?」
「ううん。どこも、痛くないよ」
「ほんと?」
「うん、本当。」

傘を押し付け続けて赤くなった手から、小さな傘を受け取った。


いくらボクが少年だった旧友の姿をしていても、小さなそれでは雨はろくに防げない。走るよりも飛んだ方が遥かにはやいことは分かるのに、何故か足が急く。
この大雨で待っていれば風邪を引くのは確実で、普通待っているはずがないのは明らかだった。
でも、ロストなら。もしかしたら。


風立ちの地はロストと縁深い場所ではない。ボクと出会ったのは風龍廃墟だし、彼女が好きだと言っていたのは望風山地だ。
風立ちの地に着くと、そんないつになっても分からない彼女の影があった。
咄嗟に足にブレーキをかけると、踏んだ水たまりがパシャンと音を立てて靴を濡らした。
指先で水元素を集めて遊びながら、彼女は傘も差さずに待っていた。

「あ」

目が合って一瞬無音が訪れる。それから、雨なんて降っていないかのように笑った。この瞬間だけ、雨があがったのだ。そう思うくらいの明るさだった。

「ウェンティくん!」
「……遅くなってごめんね」
「全然!」

ロストを抱きしめると、いつもの子ども体温が嘘のように冷たかった。当然だ、ずっと雨に打たれていたのだから。
腕をほどいて、自分のマントを彼女に被せた。自分もびしょ濡れかそこそこ濡れているかの誤差レベルだったことに脱ぐ途中で気付き、風元素で彼女と一緒にマントも乾かした。
ロストを七天神像の前から雨宿りのできる木の幹のあたりまで移動させると、「ウェンティくんがいなかったら私風邪ひいてましたねえ」と笑った。どこで習ったのか、彼女は自分を人質にとることが得意だった。

「……どうしてここにしたんだい?」
「ここが、一番ウェンティくんに近いかなあって」

ロストは優しく笑う。少女というよりも女性的な表情をしていた。それが綺麗で、言葉はいじらしくて、目を逸らしたいのに目を離せない。
いつも方向音痴で迷子になるロストがここにたどり着いたというのは変な話だ。けれど、きっと本当のことなのだろう。彼女は嘘をつかないし、そういうことにしたいと思ってしまった。

「……っ、」

彼女の手を引くことをやめた決意が揺らぐ。
もしもボクの隣で世界を見て欲しいと言ってしまえば、彼女はどうするのだろう。喜ぶのだろうか、困るのだろうか。いつか彼女はボクを置いていく。そういう生き物だ。
答えは分かりきっている。ロストはボクを拒まない。ロストにとってボクは「ウェンティ」という名前の人間であり、神だ。拒む理由なんてものは存在しない。

「ウェンティくん?」

ボクは。

「ロスト、ボクはね」

ボクは。

ロストの浅葱色の瞳が揺れる。
自分だって似たような色の瞳を持っているのに、この瞬間はそれが世界で一番美しいものだと思った。
手放すことばかり上手くなったボクにとって、この感情はひどく痛い。
出逢えば必ず人は別れる。けれど、それはもっと先でいい。ずっとずっと先で、出逢ったように別れたい。

「無理しなくていいですよお」
「……うん」

ロストの肩口に頭をうずめる。ツンツンはねているように見える髪は、肌に当たってみればとても柔らかかった。
もう少し、このままでいい?と訊くとロストは嬉しそうに笑った。顔は見えないけれど、きっとそういう顔をした。

「ロスト」
「なんですか?」
「ロスト、ロスト」
「聞こえてますよ〜」

トントンと背中を優しく叩かれる。人は、自分がされてきたことを人に行う生物らしい。だからきっと彼女は、こうやって泣きそうなときに抱きしめられて育ったのだろう。
ボクにはとても遠い温もりが、手放した執着が、傷痕から芽を出して苦しい。
それでいいのだと彼の友人に肯定して欲しいと思った。

「……ロスト」
「……聞いてますよお」

ただの女の子が、ボクを神様だと言う女の子が、慈愛とともに言葉を降らす。
傍目から観れば可愛らしい二人なのだろう。それこそ、からかわれるくらいに。いっそそうしてほしい。自分でもこれが恋なのか愛なのか、それ以外の何かなのかすら分からないから。
例えば全てを手放したとして、その先に残るなら君がいい。君の涙を拭うのはボクでいたい。それを伝えるには心臓の痛みが強すぎた。

「ロスト、あのね」
「はい」
「ボクはきみがすきだよ」
「そうなんですか」
「えー、ちょっと反応薄くない?」
「ウェンティくん、何で私がここに辿り着けたか分かります?」
「…分からない。どうやって来たの?」
「愛ですよ」
「え」

華奢な手でボクの頬を包んで、ロストはボクと目を合わせた。そして顔を近づける。ドクドクと心臓が鳴るのが分かった。
ロストはそれを知ってか知らずか笑って———コツン、と額をボクの額とくっつけた。

「キスすると思いました?」
「っ、きみがそういう子だとは知らなかったかな!」
「顔あかーい!」

ボクが知らないうちによく笑うようになったロストは前よりずっと眩しくてキラキラしている。胸のあたりがじわじわと痛くて、これじゃあの子と全く同じじゃないかと内心頭を抱えた。

「旅しましょう、旅。私、いつかお別れするウェンティくんが淋しくならないように、たくさんあげたいものがあるんです」
「……それは楽しみだなあ」

いつか、思い出が淋しさを増す理由になるかもしれないけれど。それでもいいから、お別れよりもずっと近い未来が欲しくなって、ロストを抱きしめ直した。
風晶蝶がきらきらと舞う。ずっと一緒だなんて言わない彼女の誠実さが、少しだけ痛くて優しくて、きっとそれだけが、ボクの感情への答えだった。
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