パチ、と目が覚めた。鳥の鳴き声は聞こえない。何故ならば時計の針は今現在三時を過ぎており、そこに時間のズレはない。平たく言えば寝坊、説明を加えれば私の生存に必要なコストが睡眠であるというだけの話だ。

「起きたか」
「鍾離さん、おはようございます」
「おはよう」

転生を重ねる度に睡眠時間が長くなることに気が付いてからもう随分経った。営んでいた花屋は後任を見繕い、温室は辛うじて維持しているもののいずれ手放すことになるだろう。
ベッドの縁に座っていたらしい鍾離さんが本を閉じて、私の顔にかかった髪を払った。

「お仕事はどうしたんです?」
「今日は非番だ」
「お出かけでもすればいいのに」
「わざわざお前を置いて?」
「私はここに来れば会えますけど今この瞬間の璃月は今しか見れませんよ。ちゃんと焼き付けなきゃ」
「それは無理な相談だな。俺にとっては天衣も今この瞬間しか会えないような気がしてしまう」
「まあ鍾離さんが知らないとこで死にたい気持ちはありますよね……いや鍾離さん怖い顔しないでください」
「お前には前科があるからな。それも何度も」

鍾離さんがため息をついて、私が差し出した手を取って上半身を起こしてくれた。老化もしていないというのに見事な介護である。しかも私が年下。

「……だって、私が死んだら泣いてくれるんでしょう」
「ああ」
「私、それ一番嫌なんですよ。あなたが悲しむのが一番悲しいし、私との記憶がお別れで染まるのもとても嫌なんです。生きてすらいないのに一生愛されるなんて、あなたの人生に責任も持てません」
「……だが、お前は凡人のままでいるのだろう?」
「鍾離さんが嫌なら、別に?」
「……」

微笑んで答えれば、鍾離さんは不機嫌そうな顔をして黙った。ああ、そういうところが嫌なのだ、とでも言うように。
鍾離さんはきっと私を人間のままにしておくのだろうと、何となく思う。そういうひとだ。神らしく傲慢なくせに、たまに神聖なものかのように私を扱う。それは多分、人間である私への彼なりの愛なのだと、最近気が付いた。
下手なのだ、このひとは。私に手を差し伸べることも、引き留めることも。わざわざ一人の凡人を尊重して、私が壊れないように抱きしめて、追いつけるように歩く。

「ふふ、鍾離さん、私の事案外好きですよね」
「笑わないでくれ」
「嬉しいんですよ」
「……俺はお前が大切なんだ」
「え、ちょ、なんで泣きそうな顔するんですか」
「きみのせいだろう」
「も〜……」

鍾離さんの頬に触れて、化粧が落ちないようにそっと目じりをなぞる。その手に鍾離さんの手が重なり、握りこまれた。

「すきだ」
「はいはい」
「きみは知らないだろうが、俺は昔から君を好いていた」
「言わないと分かりませんよ」
「天衣は察しが悪いからな」
「センチメンタルな割にはかなり殴ってきますね鍾離さん」

気付くのに時間がかかったと宣う鍾離さんの頬をちょっとつねった。鍾離さんは怒らず、されるがまま。
これが魈くんに知られでもすれば私は言葉通り伸されるのだろう。私も彼もこのひとに救われた身であるのに、関わり方は対照的だ。

「……よし、こうしましょう」
「?」
「私が今から十秒目を瞑りますから、閉じ込めたかったら閉じ込めてください。洞天でも何でも。鍾離さんなら簡単でしょう」
「……」

鍾離さんにそう笑うと、返ってきたのは沈黙だった。どこか仄暗い表情をした彼の瞳に、かつてのような人間離れした光が見える。不思議な話だけれど、全くもって怖くないのだ。
怒る赤子を母親が恐怖しないように、私も彼が怖くない。畏れこそあれそれは畏敬である。いや、鍾離さんは赤子などでは一切ないけれども。

「……本当にいいんだな?」
「はい、どうぞ」

じゃあ数えますよ、と言って私は十秒を数え始める。
午後三時の寝室は穏やかで、暖かくて、まあこれがこの世界とのお別れならそれはそれで。そう思うには十分だった。何と言っても鍾離さんがいる。これだけで事足りるのだ。

「三、」

急かすわけでもなく正確に秒数を刻む。昔伸ばして数えていたらモラクスさんに注意されたことがあったので。

「四、」
「……」
「五、」

六、と数えたあたりでベッドが軋み、抱きしめられた。それ以上はなく、それだけだった。がんばって言及するなら少し肩が重い。

「七、八、九、十。……終わりましたよ、鍾離さん」
「……もう少し目を瞑っていてくれ」
「え〜」

言いつけを破ってゆっくり瞼を上げると、肩口には鍾離さんの頭があった。サラサラの髪を撫でると、「瞑れと言っただろう」と言葉が飛んでくる。契約でもないのだからとごねてみれば抱きしめる力が強くなった。

「天衣。俺は悪い女というものが理解できなかった」
「はい?」
「好いた存在を貶す感情がどうにも俺には分からなかったんだ。恋愛小説や講談で聞く魔性も、俺には『そういう人物』としての設定にしか捉えられなかった」

鍾離さんは言葉を続ける。
前々から思ってはいたが、この人は色恋沙汰に小説やら何やらの創作物を頼りすぎるのだ。そんな恋、そう巷に転がっているものでもない。

「俺は天衣の意志で選ばない限り天衣をこちら側にできない。規則ではなく俺が許せない。可笑しいだろう、死にたい君を勝手に生かした俺がだ」

鍾離さんは訥々と、けれど滔々と言葉を続ける。

「きみに対して、俺はままならないものばかりだ」

それは恨み言のようでいて、はたまたとんでもない愛の告白にも聞こえた。鍾離さんの言葉が、私の心臓の裏側あたりに回って何かを溶かしていく。

「きみは悪い女だ」

鍾離さんらしくないな、と思う。この台詞も、この状況も。こういうのはそれこそ私たちの友である公子君が言うような言葉であって、彼らしいものではない。

「昔どこかで聞いたんですけど、外国ではそういうのファム・ファタールって言うんですよ」
「……ああ、それは俺も聞いたことがあるな。最も中々使われるものではないが」
「私も好きな人を破滅させたいわけじゃないんですけどね?」

私、悪とは正反対の清純派でやってきたつもりなんですけど……と言ってみれば鍾離さんは笑う。

「あながち間違いじゃないかもしれないぞ。天衣、元の意味を知っているか?」
「元?魔性とかそういうのでしょう」
「違う」
「また蘊蓄教室を……」
「運命の女だ」
「はい?」
「ファム・ファタールの原義は運命の女という意味だと聞いた」

ピシ、と固まる私を見て鍾離さんが楽しそうな顔をした。眉を下げて、幸せそうに。この人をこんな顔にしているのは誰だ。私か。それはまた、重畳の至だな。あと中途半端な知識でものを語るのは良くないな。いや、そういう話ではなく。

「鍾離さん、悪い女だと思ってるのに運命にしたいんですか」

霧散する思考をまとめあげて口から出た言葉は自分を追い詰める餌にしかならず。
鍾離さんはちょっと考える素振りをして、ピンと来たように「……ああ」と言葉を漏らした。

「きみが隣にいるなら何でもいいな」

比翼連理にでもなるか?そう提案する声は軽い。軽いのに重い。それじゃあ私がいなくなったら鍾離さん生きられないじゃないですか、と言うと「そうすればきみはまた来るだろう?」とまた笑われた。
このひと、やっぱり重要なこと何も分かってないんだよなあ、こんな身体になっても会いに来た時点で気付けばいいのになあ。
心の声は喧しいのに肝心の言葉は出てこない。恥ずかしいのか怖いのか、自分でもよく分からない。
鍾離さんに会えるなら路傍の石でも良かったのだ、なんて。
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