エンドロールまで灰色
始まりは、風神の化身からの伝言だった。伝言なのか、彼の独断なのかは微妙なところではあるけれど。
『モラクスが君を呼んでたよ。……まあ、正確には忘れちゃった誰かを、なんだけど』
急がなきゃ、急がなきゃ。急くのは心ばかりで、もたつく足は鈍い。見かねたウェンティ君が、「仕方ないなあ」と私を風に乗せて飛ばした。
それによって私はまた焦った。走るより飛ぶ方が速いというのは彼の言で、それはあのひとの時間がないということで。
何故こんなに遅くに、私は今更生を得ているのか。わけが分からない。私が彼にかけた呪い分くらいは、彼の手を握る時間を与えてくれたって許されるだろうに。
「鍾離さん!」
ドン!と怒られても言い訳のできないようなうるささで扉を開けて、私は部屋の奥に見える人影に立ち止まった。
相変わらず美しい佇まい、毛先へゆくにつれ石珀色に変化する艶のある長髪。
伏せた瞼を気だるそうに上げ、尚も漂う浮世離れした絶世が私を見た。
「———、」
「……誰だ?」
コトン、と言葉が床に落ちて転がった。
死のにおいではない。それこそ岩石が風化したような、そういう淋しさがそこにはあった。
岩王帝君と呼ばれた彼は、この小さな家で目を閉じるのだ。
「てんい、すきだ」
埃の積もった窓枠を拭く。必要かは分からないけれどご飯を作る。
世話係です、と転がり込んだ私に、「そうか」とだけ返して彼は家に入れることを許した。信頼ではなく無関心。なるほど磨耗とはそういうことかと学んだ次第である。
そしてどういうわけか私をすっかり忘れた鍾離さんの世話を焼いていたところに投げ込まれた言葉がこれだ。
いや、何か、こう、残酷すぎやしないか。
温度のない告白をされるとは思ってもみなかった。鍾離さんから贈られる言葉には、全て泣きたくなるような体温があったというのに。
「どうだ、わすれなかったぞ」
「……そうですね」
イントネーションは少しズレている。口が先に動いて、後付けで声が出てきたような音だった。
不思議だな、口に馴染む。そう言って鍾離さんは微笑んでいる。一方私はストンと消えそうになる表情を隠すのに必死で頭を抱えた。
今、私は過去の鍾離さんと会話をしている。何回も忘れないように口に馴染ませた言葉を、このひとは吐き出しているだけだ。だから、これは影と話しているだけ。忘れていると思っていた私に好きだと言って、驚かせたところに自慢げに忘れなかったぞと言う算段だったのだろう。残響まで可愛くて困る。
反芻されて噛み砕かれて、何度も擦り切れかけた何かの残り滓のような言葉。その外殻が私の鼓膜の奥に刺さって、抜けない。
痛い。ずっと痛いままだ。きっと、鍾離さんもずっと。
だから覚えていなくて良かったと、そればかりを思った。
それからまた数日経って、まだ私は私を好きではない鍾離さんの家にいた。愛おしいひとの、明確に目に見える終わりまでの日々を私だけは知っていたかった。彼が知る何千何万にも値しないかもしれない、残滓のような日々を。
「鍾離さん、少し眠っても?」
「好きにしろ」
「好きなんて告白した割に冷たいひとですね」
「…………」
「わ」
適当なことを言ってみると、鍾離さんは無言で私を自分のいるベッドに座らせた。基本的にこの鍾離さんは突拍子がない。
「好きだと言ったから」というわかりやすい理由で私を引き入れたであろう彼は、「靴を脱げ」と指示する。従って靴を脱いで足をベッドの上に上げると、私は布団をかけられた。少しだけ温い。
鍾離さんは私の手に自分の手を重ね、軽く握った。
「お前は体温が低いな」
「そうですよ、あなたと同じです。でも二人揃ったら温かくなるんですよ」
「……ああ、確かに」
そう会話をして、鍾離さんは重たいはずの腕で私の横髪を耳にかけた。昔よくされた仕草だった。
その手つきが優しくて、困る。その優しさのせいで、ただ痛いだけの毒が触れられた箇所の血と共に心臓へと至るのだ。
「おい、泣くな」
「私が泣いて何か困ることでも?」
「ずっと困っている。お前が現れてからだ。何か言わなければいけないことがあるはずなのに、何一つ出てこない」
「無理しなくていいんじゃないですか。もう十分でしょう、鍾離さん」
十分だ。どれだけ彼がこの長い時間を絶対多数の幸福のために歩んで、どれだけをすり減らしたのかなんて知る生き物はもう私とあの風の詩人くらいになってしまった。
「違う。責務の話ではない、はずだ」
「じゃあ尚更、必要ないでしょう」
「なら、っ」
「無理しないでください」
鍾離さんは声をあげかけて、咳き込んだ。抱きとめるようにして背中をトントンを叩くと、鍾離さんは私の肩に額をあてた。
「何故、お前を見るとこんなに、」
「こんなに?」
「……分からない。ただ、痛いと」
「嫌ですか」
「可笑しなことに、全く」
「……そうですか」
何だ、ちゃんと恋じゃないか。ずっと私を好きだと自分から呪いにかかった、バカな鍾離さんのままじゃないか。どうして誰も言ってくれなかったんだ。
「何故笑う」
「わたし、わらってます?」
「ああ」
鍾離さんは笑う私の顔を見て、首を傾げた。馬鹿にされているとでも思ったのか、不機嫌そうに。
「だとしたら簡単なことです。あなたが私を好きだから、笑ったんです」
「そうか。…………ああ、そうだった気が、する」
ピシ、とまた彼にヒビが入る音を聞いた気がした。微笑む度に、こちら側に近付く度に、このひとには傷がつく。切ったはずの痛覚が戻っていく。
終わりを待っている。死ではなく、おわりを。この小さな家で。
「天衣、好きだ」
「知ってますよ」
「これもすぐに忘れるのだろうな」
「私が教えますよ」
「俺がお前を好きだったと?」
「はい。信じてくれなくても」
「いや……信じるさ」
トントントンと軽やかに会話が進む。昔みたいだ。好き以外、なにも覚えていないのに。明日も話そう。明後日も、明明後日も、彼が起きている限り。
かつて彼が、眠りについていく私にそうしたように。そうして、緩やかに減速していく会話を愛するのだ。
『モラクスが君を呼んでたよ。……まあ、正確には忘れちゃった誰かを、なんだけど』
急がなきゃ、急がなきゃ。急くのは心ばかりで、もたつく足は鈍い。見かねたウェンティ君が、「仕方ないなあ」と私を風に乗せて飛ばした。
それによって私はまた焦った。走るより飛ぶ方が速いというのは彼の言で、それはあのひとの時間がないということで。
何故こんなに遅くに、私は今更生を得ているのか。わけが分からない。私が彼にかけた呪い分くらいは、彼の手を握る時間を与えてくれたって許されるだろうに。
「鍾離さん!」
ドン!と怒られても言い訳のできないようなうるささで扉を開けて、私は部屋の奥に見える人影に立ち止まった。
相変わらず美しい佇まい、毛先へゆくにつれ石珀色に変化する艶のある長髪。
伏せた瞼を気だるそうに上げ、尚も漂う浮世離れした絶世が私を見た。
「———、」
「……誰だ?」
コトン、と言葉が床に落ちて転がった。
死のにおいではない。それこそ岩石が風化したような、そういう淋しさがそこにはあった。
岩王帝君と呼ばれた彼は、この小さな家で目を閉じるのだ。
「てんい、すきだ」
埃の積もった窓枠を拭く。必要かは分からないけれどご飯を作る。
世話係です、と転がり込んだ私に、「そうか」とだけ返して彼は家に入れることを許した。信頼ではなく無関心。なるほど磨耗とはそういうことかと学んだ次第である。
そしてどういうわけか私をすっかり忘れた鍾離さんの世話を焼いていたところに投げ込まれた言葉がこれだ。
いや、何か、こう、残酷すぎやしないか。
温度のない告白をされるとは思ってもみなかった。鍾離さんから贈られる言葉には、全て泣きたくなるような体温があったというのに。
「どうだ、わすれなかったぞ」
「……そうですね」
イントネーションは少しズレている。口が先に動いて、後付けで声が出てきたような音だった。
不思議だな、口に馴染む。そう言って鍾離さんは微笑んでいる。一方私はストンと消えそうになる表情を隠すのに必死で頭を抱えた。
今、私は過去の鍾離さんと会話をしている。何回も忘れないように口に馴染ませた言葉を、このひとは吐き出しているだけだ。だから、これは影と話しているだけ。忘れていると思っていた私に好きだと言って、驚かせたところに自慢げに忘れなかったぞと言う算段だったのだろう。残響まで可愛くて困る。
反芻されて噛み砕かれて、何度も擦り切れかけた何かの残り滓のような言葉。その外殻が私の鼓膜の奥に刺さって、抜けない。
痛い。ずっと痛いままだ。きっと、鍾離さんもずっと。
だから覚えていなくて良かったと、そればかりを思った。
それからまた数日経って、まだ私は私を好きではない鍾離さんの家にいた。愛おしいひとの、明確に目に見える終わりまでの日々を私だけは知っていたかった。彼が知る何千何万にも値しないかもしれない、残滓のような日々を。
「鍾離さん、少し眠っても?」
「好きにしろ」
「好きなんて告白した割に冷たいひとですね」
「…………」
「わ」
適当なことを言ってみると、鍾離さんは無言で私を自分のいるベッドに座らせた。基本的にこの鍾離さんは突拍子がない。
「好きだと言ったから」というわかりやすい理由で私を引き入れたであろう彼は、「靴を脱げ」と指示する。従って靴を脱いで足をベッドの上に上げると、私は布団をかけられた。少しだけ温い。
鍾離さんは私の手に自分の手を重ね、軽く握った。
「お前は体温が低いな」
「そうですよ、あなたと同じです。でも二人揃ったら温かくなるんですよ」
「……ああ、確かに」
そう会話をして、鍾離さんは重たいはずの腕で私の横髪を耳にかけた。昔よくされた仕草だった。
その手つきが優しくて、困る。その優しさのせいで、ただ痛いだけの毒が触れられた箇所の血と共に心臓へと至るのだ。
「おい、泣くな」
「私が泣いて何か困ることでも?」
「ずっと困っている。お前が現れてからだ。何か言わなければいけないことがあるはずなのに、何一つ出てこない」
「無理しなくていいんじゃないですか。もう十分でしょう、鍾離さん」
十分だ。どれだけ彼がこの長い時間を絶対多数の幸福のために歩んで、どれだけをすり減らしたのかなんて知る生き物はもう私とあの風の詩人くらいになってしまった。
「違う。責務の話ではない、はずだ」
「じゃあ尚更、必要ないでしょう」
「なら、っ」
「無理しないでください」
鍾離さんは声をあげかけて、咳き込んだ。抱きとめるようにして背中をトントンを叩くと、鍾離さんは私の肩に額をあてた。
「何故、お前を見るとこんなに、」
「こんなに?」
「……分からない。ただ、痛いと」
「嫌ですか」
「可笑しなことに、全く」
「……そうですか」
何だ、ちゃんと恋じゃないか。ずっと私を好きだと自分から呪いにかかった、バカな鍾離さんのままじゃないか。どうして誰も言ってくれなかったんだ。
「何故笑う」
「わたし、わらってます?」
「ああ」
鍾離さんは笑う私の顔を見て、首を傾げた。馬鹿にされているとでも思ったのか、不機嫌そうに。
「だとしたら簡単なことです。あなたが私を好きだから、笑ったんです」
「そうか。…………ああ、そうだった気が、する」
ピシ、とまた彼にヒビが入る音を聞いた気がした。微笑む度に、こちら側に近付く度に、このひとには傷がつく。切ったはずの痛覚が戻っていく。
終わりを待っている。死ではなく、おわりを。この小さな家で。
「天衣、好きだ」
「知ってますよ」
「これもすぐに忘れるのだろうな」
「私が教えますよ」
「俺がお前を好きだったと?」
「はい。信じてくれなくても」
「いや……信じるさ」
トントントンと軽やかに会話が進む。昔みたいだ。好き以外、なにも覚えていないのに。明日も話そう。明後日も、明明後日も、彼が起きている限り。
かつて彼が、眠りについていく私にそうしたように。そうして、緩やかに減速していく会話を愛するのだ。