もえている
くしゅん。小さなくしゃみが洞窟に響いた。
天候が読めない日だった。
雨は旅人たちと往生堂の客卿としての仕事をした帰り、この後に冒険者協会の依頼があるのだという彼らと途中で解散した直後に降りだした。
天衣と会ったのは偶然で、近くの洞穴で雨宿りをしていたときだった。
「あれ、鍾離さんじゃないですか!こんにちは!今日も好きですよ!何でこんなところに?」
「仕事をした帰りに雨に降られた。直ぐに止むだろうから雨宿りをしている。お前こそ何故ここに?」
「わあスルーですか。いいですけど。私は研究のために瑠璃袋が欲しくて崖の辺りを探してたんですけど、雨が酷かったから逃げてきたんです。私だけの秘密基地だと思ってたのに」
彼女はびしょ濡れのまま、残念、とポイポイ薪を投げて神の目を使い火を焚いた。
「あーあったかい……鍾離さんもどうですか?あったまりますよ」
こちらを振り向いて言った天衣の腕と足には怪我があり、腫れていた。
大方足を滑らせて打ったのだろう。彼女は、普段そういうミスはしないタイプのはずだが。
「ああ、少し暖を取らせてもらう。ところで天衣、その怪我は?」
「え?あー……ちょっとうっかりしていたもので」
彼女は目を逸らして、ポリポリ頬をかく。よく見れば手の甲も少し擦りむいていた。
「お前は崖を登るときに手を滑らせるほどのミスはしないだろう。何か問題でもあったのか?」
「問題というか、悩みといいますか……」
「悩み?」
尋ねると、天衣は頷く。どこかバツが悪そうに。
話くらいは聞いてやろうと思い、彼女の隣に腰を下ろした。焚き火の火のおかげであたたかい。
「どんな悩みなんだ」
「知ってると思いますけど、私が悩むのなんて鍾離さんのこと以外中々ありませんよ」
「そうだな」
それは知っている。天衣という人間の行動は、その多くが俺への好意で構成されている。
彼女は多くのことをこなし、その上失敗することは少ない。それは失敗すれば俺に合わせる顔がないから、らしい。
「貴方はもう、凡人なんですよね」
「ああ」
「それって、いなくなれるってことじゃないですか。神様をしているうちはそんなこと、できなかったけど。出来るようになっちゃうってことじゃないですか」
そういうことを考えてました。そう言って彼女は両膝に顔をうずめた。
天衣を知る人間に彼女について聞けば、ほとんどの人間が「明るい」と答えることだろう。天衣無縫、天真爛漫。そしてその認識は、概ね正しい。
初めて出会ったあの日の「死にたがり」は彼女の本質ではあるが、全てではないのだ。
俺に生きていて欲しい。生きることが辛いことだと思っている上で、彼女はそう願っている。
彼女が明るくある理由が、そんな昏い欲望のおかげだということは、きっとこれからも俺と彼女だけの秘密なのだろう。
契約は、していないが。
「俺が居なくなればどうするんだ?もちろん、死ぬ気もそうする予定もないが」
「酷いこと聞くんですねえ、鍾離さんは」
彼女はそう言って少し不機嫌そうな顔をして、「今の顔めちゃくちゃブスだ……」とハッとしたように自分の頬を叩き、いつもよりも寂しそうな顔で口角を上げた。
「……そうしたら、またこの世界に生まれることが、怖くなる。鍾離さんの一部があるこの世界が好きだから、死ぬこともできなくなって、でも生きるのも疲れちゃって、数千年前よりもずっと地獄ですよ」
彼女は生まれては失い、守ろうとしては手からすり抜ける生命を見届けてきた。
神として生まれた俺と違い、天衣の魂は凡人と同じようにできている。ただ、またこの世界に産まれ直すだけ。
新しい家族を愛し、友人を愛し、傷つけられ、喪う。そんな中で生きることを辞めなかったのは俺がいたからだと、決まって笑顔で言う天衣はここにいなかった。
一歩後ろを歩くつもりなど更々ない背中がこんなにも華奢に見えたのは初めてだった。自分が天衣の肩に手を伸ばしかけたことに気付き、それを止める。
凡人とは、こういうときどうするものだったか。
数千年の記憶を辿るが、そういうことに関してはやはり俺よりもずっと天衣の方が知っているようだった。
「………もう、鍾離さんってば、そんなに静かにならなくても。濡れ鼠の女の子一人くらい、抱き寄せてくれても良いんですよ?」
俺が彼女の肩に回しかけた手は見えないはずなのに、彼女はそう言ってポスンと頭を俺の方に預けた。
完全に行き場を失った左手が宙を彷徨う。無駄な足掻きで彼女の横髪を耳にかけてみたが、ただ心の臓のあたりがむずがゆくなるだけで、どうにも居心地が悪い。
ずっとこのままで良いのに、早く離れなければと思う。そんな自分の思考が矛盾ばかりで理解できない。
「……そんな歳でもないだろう」
「いやいや、私は貴方に恋をしてからずっと女の子ですから。好きな人の前では誰だって若者ですよ」
「そういうものか」
「そうですとも!」
確かに、彼女の笑顔は昔から変わらない。
好きだ好きだと言ってこちらの懐に入り込んでは、気付いた頃には隣にいない。時間の変化を最も感じさせる存在であるのに、いざ再会してみれば昨日もそうであったように心に馴染む。
それは彼女が向けてくる燃えるような鮮烈な感情ではなく、雪が融ける春の日のような心地がする。
「俺はお前に再会するたびに、そんなに時間が経っていたかと思う」
「私の転生、別に先生の時報じゃないですよ……」
「そんなことは言っていないだろう。……もう一度言おう。俺はお前に出逢う度、そんなにお前を待っていたのかと思うんだ」
一瞬、時間が止まった。正確には、腕の中の彼女からいつものような雰囲気が消え、微動だにしなくなった。
そして丁度十秒。顔を赤くした天衣がバッと俺から離れ、自身の胸元を掴んで叫んだ。
「なんで鍾離さんそういうこと言うんですか!?」
「何で、とはどういうことだ?ただ思ったことを言ったまでだが」
「待ってないと思うから押しかけられるんですよ!どうとも思われてないから好きって言えるんですよ!待ってるなんて、そんなの、私が貴方を、」
「俺を?」
「貴方を、縛ってるみたいじゃないですか」
「そうか?」
「そうですよ」
縛っている。それはまるで俺が彼女に選択肢を奪われているような言い草だ。それを望むのに、怒っているのか泣いているのかも分からない表情で俯くのか。
「……っはは」
「何で鍾離さん笑ってるんですか……」
「いや、お前は存外傲慢なのだなと思ってな」
「……」
「俺が魔神モラクスであった頃からお前は俺を待たせる存在だった」
それは俺が岩王帝君として璃月を治めてからも変化することは無かった。ふらりと現れて嵐のように花を咲かせては、椿が落ちるように終わる。
いつか、嵐が来る日を待った。その日からずっと、俺は俺の意志で天衣を待っている。
立ち上がって、一歩、天衣に近付く。
「俺は『天衣が待っていることを望むから』待っていたわけではない。俺がお前を、待っていたいと望んだ」
「え、あ、はい、?」
「天衣。俺はお前が思うよりずっとお前を気に入っている」
天衣の頬に、手袋を外した右手をあてた。冷えていて、冷たい。これもまた、彼女によく馴染む温度だった。
どうすれば彼女が笑顔でいられるかを考えたことがある。何を渡せば喜ぶのか、何をするのが好きなのか。結局彼女を何も知らないことを知っただけだったが。
「……気に入るって、神様みたいなこと言うんですね」
もう凡人なんだから、もっと「好き」とか、そういうかわいい形容をしてくれたっていいのに。天衣はぼやいて、俺の手に手を重ね、頬を擦り寄せた。
「そう言えば、お前は喜ぶか?」
「そりゃあ……いえ、待ってください、恋されてもいないのにそういうこと言われると辛いです」
「そうか」
頬から俺の手を離して、うんうんと唸る天衣を見つめていると、少し強い風が吹いた。
やや乾きだした天衣の髪先が揺れ、少し寒いですねと彼女は震える。そして鍾離さんも冷えますよ、そう焚き火の火を強めた。
何故かはわからないが、このとき何となく、言える気がしたのだ。
何千年も生きたにしては稚拙で、真っ直ぐで、伝えられ続ければ穿たれる言葉。
「すきだ」
場面設定としては、どうやら失敗らしかったが。目を合わせてはいないし、あまり大きい声でもない。彼女が今までぶつけてきた好意とは雲泥の差。発音すらまともだったのか怪しい。
彼女はポカンとしてから、言葉を消化し、焚き火から目を逸らしてこちらへ振り向く。その顔があまりにも面白かったので、俺はまた「好きだ」と言った。今度は目を合わせて、聞こえるように、少し笑って。
天候が読めない日だった。
雨は旅人たちと往生堂の客卿としての仕事をした帰り、この後に冒険者協会の依頼があるのだという彼らと途中で解散した直後に降りだした。
天衣と会ったのは偶然で、近くの洞穴で雨宿りをしていたときだった。
「あれ、鍾離さんじゃないですか!こんにちは!今日も好きですよ!何でこんなところに?」
「仕事をした帰りに雨に降られた。直ぐに止むだろうから雨宿りをしている。お前こそ何故ここに?」
「わあスルーですか。いいですけど。私は研究のために瑠璃袋が欲しくて崖の辺りを探してたんですけど、雨が酷かったから逃げてきたんです。私だけの秘密基地だと思ってたのに」
彼女はびしょ濡れのまま、残念、とポイポイ薪を投げて神の目を使い火を焚いた。
「あーあったかい……鍾離さんもどうですか?あったまりますよ」
こちらを振り向いて言った天衣の腕と足には怪我があり、腫れていた。
大方足を滑らせて打ったのだろう。彼女は、普段そういうミスはしないタイプのはずだが。
「ああ、少し暖を取らせてもらう。ところで天衣、その怪我は?」
「え?あー……ちょっとうっかりしていたもので」
彼女は目を逸らして、ポリポリ頬をかく。よく見れば手の甲も少し擦りむいていた。
「お前は崖を登るときに手を滑らせるほどのミスはしないだろう。何か問題でもあったのか?」
「問題というか、悩みといいますか……」
「悩み?」
尋ねると、天衣は頷く。どこかバツが悪そうに。
話くらいは聞いてやろうと思い、彼女の隣に腰を下ろした。焚き火の火のおかげであたたかい。
「どんな悩みなんだ」
「知ってると思いますけど、私が悩むのなんて鍾離さんのこと以外中々ありませんよ」
「そうだな」
それは知っている。天衣という人間の行動は、その多くが俺への好意で構成されている。
彼女は多くのことをこなし、その上失敗することは少ない。それは失敗すれば俺に合わせる顔がないから、らしい。
「貴方はもう、凡人なんですよね」
「ああ」
「それって、いなくなれるってことじゃないですか。神様をしているうちはそんなこと、できなかったけど。出来るようになっちゃうってことじゃないですか」
そういうことを考えてました。そう言って彼女は両膝に顔をうずめた。
天衣を知る人間に彼女について聞けば、ほとんどの人間が「明るい」と答えることだろう。天衣無縫、天真爛漫。そしてその認識は、概ね正しい。
初めて出会ったあの日の「死にたがり」は彼女の本質ではあるが、全てではないのだ。
俺に生きていて欲しい。生きることが辛いことだと思っている上で、彼女はそう願っている。
彼女が明るくある理由が、そんな昏い欲望のおかげだということは、きっとこれからも俺と彼女だけの秘密なのだろう。
契約は、していないが。
「俺が居なくなればどうするんだ?もちろん、死ぬ気もそうする予定もないが」
「酷いこと聞くんですねえ、鍾離さんは」
彼女はそう言って少し不機嫌そうな顔をして、「今の顔めちゃくちゃブスだ……」とハッとしたように自分の頬を叩き、いつもよりも寂しそうな顔で口角を上げた。
「……そうしたら、またこの世界に生まれることが、怖くなる。鍾離さんの一部があるこの世界が好きだから、死ぬこともできなくなって、でも生きるのも疲れちゃって、数千年前よりもずっと地獄ですよ」
彼女は生まれては失い、守ろうとしては手からすり抜ける生命を見届けてきた。
神として生まれた俺と違い、天衣の魂は凡人と同じようにできている。ただ、またこの世界に産まれ直すだけ。
新しい家族を愛し、友人を愛し、傷つけられ、喪う。そんな中で生きることを辞めなかったのは俺がいたからだと、決まって笑顔で言う天衣はここにいなかった。
一歩後ろを歩くつもりなど更々ない背中がこんなにも華奢に見えたのは初めてだった。自分が天衣の肩に手を伸ばしかけたことに気付き、それを止める。
凡人とは、こういうときどうするものだったか。
数千年の記憶を辿るが、そういうことに関してはやはり俺よりもずっと天衣の方が知っているようだった。
「………もう、鍾離さんってば、そんなに静かにならなくても。濡れ鼠の女の子一人くらい、抱き寄せてくれても良いんですよ?」
俺が彼女の肩に回しかけた手は見えないはずなのに、彼女はそう言ってポスンと頭を俺の方に預けた。
完全に行き場を失った左手が宙を彷徨う。無駄な足掻きで彼女の横髪を耳にかけてみたが、ただ心の臓のあたりがむずがゆくなるだけで、どうにも居心地が悪い。
ずっとこのままで良いのに、早く離れなければと思う。そんな自分の思考が矛盾ばかりで理解できない。
「……そんな歳でもないだろう」
「いやいや、私は貴方に恋をしてからずっと女の子ですから。好きな人の前では誰だって若者ですよ」
「そういうものか」
「そうですとも!」
確かに、彼女の笑顔は昔から変わらない。
好きだ好きだと言ってこちらの懐に入り込んでは、気付いた頃には隣にいない。時間の変化を最も感じさせる存在であるのに、いざ再会してみれば昨日もそうであったように心に馴染む。
それは彼女が向けてくる燃えるような鮮烈な感情ではなく、雪が融ける春の日のような心地がする。
「俺はお前に再会するたびに、そんなに時間が経っていたかと思う」
「私の転生、別に先生の時報じゃないですよ……」
「そんなことは言っていないだろう。……もう一度言おう。俺はお前に出逢う度、そんなにお前を待っていたのかと思うんだ」
一瞬、時間が止まった。正確には、腕の中の彼女からいつものような雰囲気が消え、微動だにしなくなった。
そして丁度十秒。顔を赤くした天衣がバッと俺から離れ、自身の胸元を掴んで叫んだ。
「なんで鍾離さんそういうこと言うんですか!?」
「何で、とはどういうことだ?ただ思ったことを言ったまでだが」
「待ってないと思うから押しかけられるんですよ!どうとも思われてないから好きって言えるんですよ!待ってるなんて、そんなの、私が貴方を、」
「俺を?」
「貴方を、縛ってるみたいじゃないですか」
「そうか?」
「そうですよ」
縛っている。それはまるで俺が彼女に選択肢を奪われているような言い草だ。それを望むのに、怒っているのか泣いているのかも分からない表情で俯くのか。
「……っはは」
「何で鍾離さん笑ってるんですか……」
「いや、お前は存外傲慢なのだなと思ってな」
「……」
「俺が魔神モラクスであった頃からお前は俺を待たせる存在だった」
それは俺が岩王帝君として璃月を治めてからも変化することは無かった。ふらりと現れて嵐のように花を咲かせては、椿が落ちるように終わる。
いつか、嵐が来る日を待った。その日からずっと、俺は俺の意志で天衣を待っている。
立ち上がって、一歩、天衣に近付く。
「俺は『天衣が待っていることを望むから』待っていたわけではない。俺がお前を、待っていたいと望んだ」
「え、あ、はい、?」
「天衣。俺はお前が思うよりずっとお前を気に入っている」
天衣の頬に、手袋を外した右手をあてた。冷えていて、冷たい。これもまた、彼女によく馴染む温度だった。
どうすれば彼女が笑顔でいられるかを考えたことがある。何を渡せば喜ぶのか、何をするのが好きなのか。結局彼女を何も知らないことを知っただけだったが。
「……気に入るって、神様みたいなこと言うんですね」
もう凡人なんだから、もっと「好き」とか、そういうかわいい形容をしてくれたっていいのに。天衣はぼやいて、俺の手に手を重ね、頬を擦り寄せた。
「そう言えば、お前は喜ぶか?」
「そりゃあ……いえ、待ってください、恋されてもいないのにそういうこと言われると辛いです」
「そうか」
頬から俺の手を離して、うんうんと唸る天衣を見つめていると、少し強い風が吹いた。
やや乾きだした天衣の髪先が揺れ、少し寒いですねと彼女は震える。そして鍾離さんも冷えますよ、そう焚き火の火を強めた。
何故かはわからないが、このとき何となく、言える気がしたのだ。
何千年も生きたにしては稚拙で、真っ直ぐで、伝えられ続ければ穿たれる言葉。
「すきだ」
場面設定としては、どうやら失敗らしかったが。目を合わせてはいないし、あまり大きい声でもない。彼女が今までぶつけてきた好意とは雲泥の差。発音すらまともだったのか怪しい。
彼女はポカンとしてから、言葉を消化し、焚き火から目を逸らしてこちらへ振り向く。その顔があまりにも面白かったので、俺はまた「好きだ」と言った。今度は目を合わせて、聞こえるように、少し笑って。