恋なんてものは、先に惚れた方がいつだって弱いのである。「かわいい」も「好き」も、率先して白旗を振っているに過ぎないことを忘れていた。

「野伏衆絶対許さない……」

私に負けるくせに無駄に力だけ強いおかげで、回避しなければ私の腕力では吹っ飛ばされる。血石華を取りに行っただけなのに襲われて海にダイブするはめになった。
臙脂色の服が海水で濡れ、より濃い色になり身体にはりつく。

「だから手伝うって言ったのに」
「蛍ちゃん、稲妻来てから頼まれてばっかりだから少しくらい休んで欲しかったんだよ」

大丈夫か?とパイモンちゃんが私の髪をタオルでわしゃわしゃと拭う。小さくてふにふにとした柔らかい手でそういうことをされると眠たくなる。

「天衣、いつも花の匂いがするのに今日は海の匂いだな!」
「えっ臭くない?鍾離さんに距離取られないかな」
「お前は俺を何だと思っているんだ」
「わあ」

パイモンちゃんのタオルで前が見えないが、上の方からよく耳に馴染んだ声がした。いつからいたのだろうか。

「鍾離さん海産物苦手でしょ」
「いや、さすがに海の匂いとは繋がらないだろ……」

恋をするとバカになるって天衣がこの前言ってたのはこういうことなのか?とパイモンちゃんが言う。
そうだよ。
タオルを手でどけて、ボサボサの髪を適当に髪止めでまとめた。

「蛍ちゃん、この髪可愛い?」
「うん」
「良かった」

蛍ちゃんに確認してから、くるっと回って鍾離さんの顔を見た。相変わらず綺麗な顔をしている。ここで考えるほどのことでもないけれど、まあ呆れるほど綺麗な顔なのだ。

「どうしたんですか?」
「その、祭りのことだが……一緒に回らないか?」
「?蛍ちゃんたちと回る予定じゃなかったんですか?」
「俺は最初から天衣を誘うつもりでいたが」
「何でまた。二人は久しぶりにできた友人でしょう?」
「天衣が前に俺と行きたいと言っていただろう」

ほんの少し赤い耳と対照的な、全く変化のない表情。このひと、人間になったのだなあと数度目の実感が訪れた。綺麗な人がこういうことをするととんでもない破壊力になるのかと、一周回って冷静になる。
こんなに有難いお誘いを頂いて嬉しいけれど、私にはお祭りに行きたいと言った記憶は無かった。最近鍾離さんはタルタリヤくんや蛍ちゃんたちと出逢って、凡人生活をそれなりに楽しんでいた。だからあまり鍾離さんの予定を縛るような誘いはしないようにしていたはずなのだが———
無駄な気遣いだったか、と鍾離さんが言った。心做しか、彼は照れているような、しょげているような表情をしていた。

「……もう予定があったのならすまない。俺は、お前に喜んで欲しかったのだが、」
「行きましょう」

いつもと違ってすぐに返事をしない私に、鍾離さんがいつもの堂々たる雰囲気とは打って変わり、手を引っ込めたのを見て食い気味に返事をしてしまった。
それはズルいだろう。こんなに可愛らしいひとに言われてしまえば困惑する暇もない。
曰く、私が喜ぶものが自分関連以外に思いつかなかったらしい。私に詳しいのか詳しくないのかよく分からないし、自分が誘えば私はほぼ確実に喜ぶことを分かっているのも何だか悔しい。正解だ。

「でもお財布持ってますか?私、今そんなに出せませんよ」
「持っている」
「ええ!?」
「驚くようなことか?」

驚くようなことである。少し前まで完全に鍾離さんの財布と化していたタルタリヤくんが見れば私と同じ反応をするに決まっている。

「あ、その、でも私さっきの戦闘で服が汚れてて」
「服の一つや二つくらい買う」
「お財布の次は金銭感覚ですね。……宿で着替えてからでもいいですか?」
「ああ」

いつの間にか蛍ちゃんたちはいなくなっていて、鍾離さんは宿まで一緒に来てくれた。荷物を取る様子も無かったから、本当にお財布は持ち歩いていたのだろう。人とは成長する生き物である。私はどれほど生まれ変わってもバカみたいに恋をしたままだというのに。
ならば一層、先にお祭りでも何でも観光していればいいのに。知識人の彼でも、ずっと国を離れてこなかったから稲妻に関しては初めて見るものだってあるだろう。


さっさと着替えて、宿を出ると、鍾離さんは近くの雑貨屋で待っていた。こういうとき私の服装は簡単で助かる。そもそも予備なので先程よりも余程ラフな格好なのだが。
鍾離先生のような服を着ることが許されるのは服が汚れることのない強者だけなのだ。

「私、こういうとき大体怪我とか泥んことかろくな状態じゃないですよね。初対面もびしょ濡れでしたし……」
「あれに関してはお前が望んだ結果だろう」
「まあそうですけど……」

あのときは見た目なんでどうでもよかったのだ。どうせ死ぬしな、なんて思いがあったから。今は違う。
なんていったって、私はこのひとに恋をしているのである。
思ったよりも明るい笑い声だとか、大きな手だとか、嫌なくらいに真っ直ぐな視線だとか。その全てが自分には値しない気がしてしまって、気が付かれるかも分からない着飾りをしないと不安になる。いや、別に着飾ったところで好きでいる限り結局不安にはなるけれども。

「好きな人に誘われたなら一秒でも長く一番可愛い私でいたいじゃないですか……」
「……着物でも買って欲しいのか?」
「何でそんなに買おうとするんです?いくら私でもたかってるって思われるなら百年の恋も覚めますけど」
「ははっ」
「何笑ってるんですか」
「いやなに、百年どころじゃないだろうと思ってな」
「……まあ数千年も私の恋に付き合ってくれてるのは感謝しますけど、言い方!鍾離さん本当に言い方が……」

なんてやつなのだろうか、鍾離というひとは。
遠ざけることもせず放置してるのは貴方でしょうが、という言葉を言わないまま恨めしげに彼の腕を肘でつついた。

「でも鍾離さん、分かってます?鎖国令で反物は今値段が高騰してるんですよ」
「俺はモラを持ち歩く習慣がないだけだ。金に困っているわけじゃない」
「言わせてもらいますけど、持ってても使う場面がなきゃ同じです」

鍾離さんはさも不名誉だというふうな顔をして私に言う。そんなことは知っている。
この人も感情豊かになったものだ。モラクスだった頃なんて、私に対して無感情にすら見えたのだから。

「察してください。鍾離さんがどれだけお金を持っていたとしても、高いものを買わせるのが申し訳ないんです」
「……すまない。どうにもこういうことは不得手でな」
「謝ることじゃないでしょう」
「気疎くはないか」
「まさか」
「顔が赤いが」
「…………これは照れです」
「……そうか」

ホッとしたような顔にため息をつく。
何だこの情緒赤ちゃんは。
顔が暑くなるのも仕方ないだろう。鍾離さんから誘われたのだ。あの鍾離さんから。好きな人からお祭りに誘われて、嫌な女などいるわけがないのだ。
それくらいいつものこのひとなら気が付く。本当に六千年生きているのか、この御仁は。

「値段だけじゃなくてですよ。女性に服を贈るのは意味があることくらい鍾離さんなら知ってるでしょう」

全く罪作りな人ですね、と鍾離さんに言うと彼の足が止まった。
振り向いて先生に声をかける。

「鍾離さん?」
「……そ、んな、つもりは———」
「えっ」

鍾離さんが手の甲で口元のあたりを隠して、私から目を逸らした。あの、絶対に目を合わせて話してくる鍾離先生が。
おかしい。今日の鍾離さんは、おかしい。今こそ感情が量れるものの、昔は言葉や数少ない行動以外から何一つ伝わってこなかった鍾離さんがこんな思春期の青年のような反応をしている。言ってしまえば、驚くほどかわいいのである。

「不快にさせたか」
「いえ別に」
「お前はこういうことをされるのは苦手だっただろう」
「鍾離さんならいいですけど」

まただ。嫌か、とか、気疎くはないか、とか。
今日の鍾離さんは逐一私に確認する。鍾離さんがしてくれることならば、全て私が喜ぶことを知っているのに。
ふと、私の中に一つの答えが浮かぶ。いや、まさか。あまり調子に乗るものではない。
自分の願望が混ざった考えを捨てて鍾離さんをからかうように笑った。

「ふふ、脱がしたいんですか、私の服」
「なぜお前はそうなんだ………」
「鍾離さんがおもしろくて。昔は私にこんなに構ってくれなかったので」
「そんな立場でもなかったからな」
「じゃあモラクスさんは私に構ってあげたかったんですね」
「……」
「黙らないでくださいよ」
「すまない」
「今日ほんとにどうしたんですか」

鍾離さんに手を差し出すと、いつものように握られた。いつもは子供に手を引っ張られる親のような感覚なのに、今回は違う。

「行きましょうか、お祭り」
「ああ」
「いつ言ったんでしたっけ、お祭り行きたいって」
「あれは稲妻が鎖国される前に……」
「…………前前世くらいの話してます?」
「おや、そんなに前だったか」
「……鍾離さん」
「どうしたんだ?」
「めちゃくちゃ好きです………」
「ははっ」

知っている、と鍾離さんが神には似合わない顔で笑った。
back