「膝枕してくれませんか」

太陽が沈んで数刻。突然の訪問に、突然の頼み事。相変わらず突拍子もないことを言い出すものだと思うのは当然のことだろう。

「膝枕?」
「はい、鍾離さんの太腿の上に頭を乗っけて……」
「言葉の指す意味は分かるぞ。だが、些か俺の脚は枕にするには固いと思うが……」
「甘雨ちゃんには仕事で断られて……ピンちゃんにさせるにも気が引けちゃうんですよ」
「……」

天衣の言葉をまとめると、要は代役というわけである。俺のことを好きだと言う割に、天衣はいつもこういうところで失礼な人間である。
鍾離さんだと、緊張しちゃうので。と俺の表情から何も察さないまま続けられた言葉にため息をついて了承した。


「これでいいか?」
「緊張するのであんまりこっち見ないでください」
「おい」

天衣を覗き込むと、あからさまに目を逸らされた。持ちかけたのはお前だと言えばごにょごにょと何かをボヤいた。

「何故膝枕なんだ?」
「最近寝付けなくて、人の体温があれば寝れるかと思いまして」
「……そうか」

正直な所、俺は気が進まなかった。たかが膝枕だと人は言うだろうが、昔から俺はこうやって天衣の温度を感じることに少しばかりの躊躇を覚える。
かと言って、目に隈を作られ頼まれては断ることも出来ない。今は過去よりずっと時間を持て余している。

「添い寝では駄目だったのか」
「鍾離さん私と添い寝したかったんですか」
「膝枕では身動きが取れないだろう」
「鍾離さん欲しい言葉何一つくれないですよね本当に」

別にそれでも好きですけど………と彼女がこぼす。こうやって天衣が文句を言う度自分で解決してしまうおかげで、俺は彼女への正解の言葉を聞いたためしがない。

「寝付けないのには理由があるのか?」
「うーん……最近ちょっと夢見が悪いので眠るのが怖いんですよね」
「夢見が悪い?」
「ええまあ、ちょっと……」

天衣は言葉を濁す。じっと見つめて言うように促すと、うー、だのあー、だのと言いながら表情を様々に変え、やっと口を開いた。

「鍾離さんが私を忘れる夢を見ました」
「それは、……」
「そうですよ、私、鍾離さんの隣にいれればいいとか言っておいて忘れられたらって夢だけで眠れなくなったんですよ。恥ずかしいんですけどね、本当に」
「落ち着け。まず俺はお前を忘れない」
「家、別に忘れたっていいですよ。記憶は心を傷つけることばかりですから」

この言葉がきっと本来の彼女なのだろうな、と言外に思った。擦り切れた、彼女の根底の部分。どこまでも人間種としてしか存在できない精神にかかった負荷の代償。自分の記憶が俺に寄り添うことなど全く考えもしない、自信の無さ。

「俺は、きみとの記憶で傷付くことを後悔するつもりはない」
「…………なら、私がいなくなったあと、一万年生きるとして一万年ずっと私のことを思い出して、夢に見るくらい傷ついてくれますか」

天衣はいつもよりも暗い瞳で俺に訊ねた。それがどうにも幼子のように見えて微笑む。

「その程度なら。契約するか?」
「しません。遠ざけてもらうために言ったんですけど……」
「それならば見当違いだ。お前は俺に何も分かっていないと言うが、お前も俺のことを何も分かっていない」
「……結構絆されましたよね」
「こうも時間を共にすればな」
「それを許したのは鍾離さんでしょ。恥ずかしいので寝ます」
「寝れるのか?」
「がんばります」

五分ほど経ったころだった。
もぞ、と膝の上で臙脂色が動く。読んでいた本を閉じて天衣を見ると、薄くまぶたを上げていた。

「……鍾離さん」
「寝ないのか」
「ちょっとドキドキして……」
「すぐに分かる嘘はやめろ」
「嘘ではないです!」
「それはそうだろうが……」

言葉に反して泣きそうな表情をした顔を撫でてやると、彼女は目を瞑ったまま擦り寄った。
ちょっとお話してもいいですか、といつもとは比にならないほど小さな声で言うのに肯うと、律儀に彼女は礼を言った。

「私、家族には恵まれてる方なんです。私が多少いびつでも、ちゃんと愛してくれる人たちのもとに産まれるんです」
「そうか」
「でも、家族が優しくしてくれても、やっぱり私は彼らを壊す。私へ向けられる奇異の視線も、言葉も、噂も全部、家族ごと傷つけるから。だから離れたのに、私、一人じゃ眠ることも上手くいかないんですよ。小さい頃こうされたからって、私が傷つけた彼らの愛ばかりなぞってるんですよ」

なんで一人ぼっちになれなかったんでしょうね、とぽつりと呟かれた言葉は夜に融けた。彼女のこれまでの人生は、どれもきっと恐ろしく凄惨なものでも、瑕疵ひとつない幸福なものでもない。ここにあるのはただ、痛覚だけが麻痺しないままここまでの数千年を生きてしまった凡人の結果だった。
頬に触れている指先がほのかに生ぬるく濡れたことに気が付かないフリをして、顔にかかる天衣の横髪を耳にかけさせた。

「おやすみって言ってくれませんか?今日はわがままを言いたい気分で」
「……ああ。おやすみ」

ふふ、と笑って彼女は目を瞑る。
おやすみと言うだけのことの何がわがままなのだろうか。天衣は昔から、俺から与えられることを何一つ望まない。与えることが、まるで俺から何かを奪うような事のように思えるらしかった。
彼女の言った「懐かしさ」はいつのものなのだろうか。こうやって彼女が凭れて、髪を梳かれ、頭を撫でられる。そういうことを、天衣はいつ失ったのだろうか。
静かに眠る彼女から聞こえるのはかすかな寝息だけで、ピクリとも動かない様は死んでしまったのではないかとすら思わせる。

「天衣」

再び頬に触れ彼女の体温を確認すると、冷たくなっていく身体とともに夜を超えた記憶が少しずつ上書きされていく。
花のように笑うことを、鈴の音のように話すことを、子供のように表情を変えることを、その全てを失った亡骸の体温を、未だに覚えている。
いつか、俺は彼女と契約をしようと考えたことがある。手を繋ぐと天衣が喜ぶから、俺が笑うだけで幸せそうな顔をするから、ならばずっと隣に置けば良いと。結局契約が成されることなどなかったが。

生まれ変わりを重ねる度に長くなる睡眠時間を抱える天衣を引き留めたのは、紛れもなく俺だ。
ただ俺が再会を待っているというだけで、彼女はそのくらい迷わずに背負う。契約でも約束でもなく、自分の意志で。昔から、俺たちの関係は不公平だ。彼女にとって、あまりにも。
俺を守りたいと天衣は言う。俺の終わりに自分がいなくとも、俺が孤独でなければ良いと。俺がそれだけでは足りなくなってしまったことは、どうすれば彼女に伝わるのか。

「しょうりさん」
「何だ?」

むにゃむにゃと天衣が寝言で俺の名前を呼ぶ。

「しょうりさ、」
「ふ、そんなに呼ばなくても聞こえるぞ。………?」

自分の手に彼女の手が添えられ、目を細めて天衣を見た。そのときに彼女の身体が震えていることに気付く。初めて出逢ったときのような震え方だった。
柔らかい髪と項、そして背中の後ろに手を回してソファから彼女の身体を起こして抱きしめる。苦しくならないように、不得手なりに手加減をして。

「ふふ」

天衣は笑った。どうやら失敗はしなかったようだ。
夢枕に立つことも考えたが、本当に俺がいるだけで問題がないらしい。
抱きしめたまま寝転がるにはソファは狭く、諦めてそのまま天衣の肩口に頭をうずめた。
もし、このまま彼女が起きなくなればどうすればいいのだろうか。死んだわけでもない人間を葬るわけにもいかないし、病気だという説明もつかない。
……本当は分かっている。そういうことを恐れているわけではないことを。本当に恐ろしいのは、隣を見たときに視界が開けていることであり、春の日を待つことができないことであり、彼女が笑う顔を見ることが出来なくなることであると、俺は知っている。

「……おまえが夢に見てどうするんだ」

これだから気が進まなかったのだ。
愛おしいのか、恋しいのか、或いは別の何かなのか。どこか恨み言のように言ったそれはどうにも胸を痛めて、彼女の温度に融けた。
back