もういいよ、それでいいよ、

正しく熱い。握られた手も、細まる瞳を綺麗だと思うこの脳が。
この罪悪は、向日葵のようなまぶしさを孕んでいる。


「たっつーおつかれ。どしたの?」
「……」
「たっつー?」

手首を掴んだ手が熱かった。相変わらず優しい強さで掴まれているおかげで振りほどくわけにもいかず、様子のおかしいたっつーの顔を覗き込んだ。
多分、私の落ち度はここにあったのだと思う。
私と彼の身長は八センチ差だ。覗き込むといっても少し見上げるといった程度のもので、少し背伸びをすれば額同士がぶつかる。
躊躇はなかったし、近過ぎるという感覚もなかった。これは恋だとか愛だとかではなく、今までそういう距離感で、これからもこのままだと信じて疑っていなかったのだ。
昨日も今日も明日も変化のない関係に、私たちは一石も投じない。だからドラマは始まらないし、だからこそ平穏があった。停滞ではなく、そういう在り方だ。
顔を近付けられることに抵抗はない。俳優としてでなくとも、別に彼ならば。手を握られることも、髪に触れられることも何一つ不快感などない。
あれはそういう「特別」が重なった結果なのだと思う。私だけではなく彼も。

「た、たっつー」
「……は、……」
「は、……んん……」

恥ずかしいので思い出したくない。キス上手いな、とかそういうのじゃない。いや上手かったけれども言いたいことには関係がない。きちんと否定しておくと嫌悪感でもない。
可愛らしい抵抗をしてみても効かなかったのなら武力行使に出るしかないのだ。何故なら私たちは友人なのだから。
後悔するのは彼である以上、止めてあげるのは義務だと判断した。私はファーストキスというわけでもないのでやたらと速い鼓動をおさめることに集中すれば良い。

「————巽くん!!!起きろ!!!!!」

スコーン、とスマホをたっつーの頭にぶつけた。それはもう、手加減なく。死ななければ少なくとも現在の状況よりマシだと確信して。
私は緩んだ腕の中から抜けて彼の肩を揺らし、少し赤い頬を叩いた。

「たっつー起きた!?何してんの、ライブ後に興奮してても無理矢理は良くないって」
「————、!?すみません、俺は何を……」
「あ、いや、怒ってるとかじゃなくて!早くみんなのとこ戻りなよ」
「ですが」
「良いからほら、行く行く!怒ってないし奪われたとも思ってないから」

呆然として血の気が引いた顔をするたっつーの頭を撫でる。襲われたのはこっちなのに何故フォローをしているのだろうか。私も混乱していた。あと人にキスをしておいて顔を青ざめさせるのはやめて欲しかった。

「あ、たっつー待って。リップ残ってる」
「……あ、」
「えっ」

移った桃色を彼の唇から拭い取ろうとして、それは彼本人に止められた。さっきやらかしたくせに距離近くない?ということならばそれなりに納得が行くのに、表情が見たことも無いものだったことを覚えている。
形容するならば、申しわけなさそうな顔というよりもいくらか十九歳に近かったと思う。

「……自分でやります」
「あ、そう」

赤みのさした頬に、怒っているのか困っているのか分からない眉。色付いた唇は引き結ばれて、彼は仲間たちのいる方へ向かって行ってしまった。
そうやって現場には変な顔をした私だけが残されたわけである。そしてそれから、たっつーは分かりやすく私のことを避け続けた。私はとても怒っている。これが分かりやすい説明だ。


「暑すぎるから森に行こう」
「はい?」
「いつ空いてる?」
「ら、来週の木曜日なら?」
「迎えに行くから」

現場で会って一言目の誘い。これにより決定した日帰りヤケクソ避暑ツアーは案外悪くなかった。
田舎の森といえど何だかんだ暑いんじゃないか、と若干疑いつつも出かけた平日夏休みの避暑地は思いの外人がいなかった。
車を封印して公共交通機関を使うことにあった恐れは杞憂だったらしい。
会うまでは私と全然言葉を交わしてくれなかったたっつーも割り切ったのか何なのか、またいつものように話している。もう少し気にしてくれていても良かったのに。

「大丈夫?このくらいならあんまり足の負担ないと思うんだけど」
「はい。むしろこういう場所に来ることが少ないので楽しいですな」
「良かった。マイナスイオン〜って感じしない?」
「マイナスイオン?」
「オウム返し良くないよ」
「ふふ、すみません。マイナスイオンは人体にあまり関係ないらしいですよ」
「えっマジ?」
「はい。昔そういう記事を読んだ記憶があります」

でもここは落ち着きますな、涼しいですし。そうたっつーは続ける。私が迷信に踊らされていたことをさらりと告げてこれである。もう少しからかうとか、こう、そうしてくれれば。そういう奴じゃないけれども。

「たっつー、手繋ご」
「冷たくないですか?皐さんの手」
「冷え性なんだよ」

人のことを言うほどたっつーが暑がりなわけではない。そもそも、私たちは二人ともそんなに体温が高くないのだ。涼しい森の遊歩道は時間を経て少しだけ肌寒さに変化してきている。
今日は動いているからか彼の手は温かいけれど、私は友達をやって長くなるので知っているのだ。ちなみにこんなことを下手に言おうものなら炎上である。この世界は怖い。
そんなことを思いながら保育園児のように繋いだ手を降って歩いていると、私の鼻先にポツンと水滴が落ちた。

「わ、雨」
「小雨ですが、随分と歩きましたし……引き返しましょうか」
「コンクリートの地面に戻りたくない……ただ蒸し暑いだけじゃん……」
「今帰っても遅くなっても明日には家ですよ」
「そういうこと言う?森抜けたらまた人の視線を気にしなきゃいけないのに」
「皐さんは視線が苦手なんですか?」
「たっつーと好きに手を繋げないのが嫌なだけだよ」

あと暑さ。
そう付け加えると、ギュッと手を握りこまれた。キツい。乙女に対して多少は力加減をすべきだと思う。


森から引き返してきて、私たちは山道と言われればそうかもしれない、といった道路を走るバスの停留所に立っていた。
小雨も長く当たればかなりの水量であり、私たちは想定よりも濡れた状態である。無計画の危険さを身をもって知る羽目となった。

「濡れても暑いのおかしくない?」
「むしろ先程の小雨で湿度が上がってしまった感じがしますな」
「次のバスは……二十五分後か……」

時刻表を指でなぞり、平日の時間を確認した。何故か私の言葉を最後にたっつーは黙り、私も何故か黙った。
夏特有の湿った空気が私たちを二人とそれ以外で分断したような心地がした。
また手持ち無沙汰に古びた時刻表を見る。二十五分後に来るのは変わらない。
皐さん、といつもの調子でたっつーに名前を呼ばれて私は時刻表から目を離した。
どんな空気が流れていようと、名前を呼ばれると条件反射で顔を向けてしまうのはどうしようか。振り向いたら、多分何かが変わることはわかりきっているのに。

「横髪が、」

する、といつも通りたっつーは私のこめかみのあたりに綺麗な指を通し、私の耳に髪をかけさせる。
夏のせいだろうか。別に珍しいわけでもないその行為が何故だかスローモーションに見えた。

「……」
「……」

髪から手を離したたっつーと目が合って、沈黙が訪れる。
彼がいつも浮かべている温和な笑みはない。機嫌が悪そうというわけでもなく、ただはっとしたような。夏の奥で揺れているような瞳を見て、やっぱり彼は綺麗なひとだと思った。
つい先程離れた距離がまた近付いて、少し汗ばんだ手が同じように汗ばんだ私の頬に触れる。じわじわと同じ熱が彼の指先で融け合った。

「さつきさん、」
「……ん、」

くちびるとくちびるが触れて、ふと、皮膚が邪魔だと思った。実際になくなったら困るけれど、そんな当たり前な隔たりすらも邪魔だった。
ジリジリと鳴く蝉の声とともに汗が一滴落ち、田舎特有のデコボコなコンクリートに染み込む。
数秒だ。たった数秒、唇が触れ合っただけ。
私は仕事柄ファーストキスというわけでもなかったし、必要以上の意味を求めたこともなかった。

「……少し、あついですな」
「……うん、あつい」

今日、何度暑いと言っただろうか。そのどれにも、きっとこの会話は似ていない。
ならこの熱は何だ。夏の毒とも言えるこの暑さがついに心臓にまで回ったのだろうか。

「無遠慮に触れてしまい、すみません」
「いいよ」
「はは……即答ですな。これでも少し、緊張したんですけど」
「あのときのことも許すよ」

私たちは春の夜のような温度を愛している。多くを置いていってしまいそうな夏ではなく、冬を越えて何も持たない優しい春を。
だから、こんなのはおかしい。おかしいと、きっと彼は。
何か言わなければと顔を上げると、たっつーはひとり大罪でも犯したかのような顔をしていた。まるで母親に怒られる前の小学生だ。もっともその形容が正しいのか、私にはよく分からないけれど。
少し怒った顔をしてみれば、彼は一層眉を下げた。そうじゃない。そうじゃないけれど、私も奴にも言葉が足りない。今までは言葉がなくても通じたし、足りなくても補完する必要がなかった。そういう関係だった。

「——————」
「あのさ!」
「はい、」
「慣れてるとかじゃないから!」

最後に離れようとする彼の左手を掴んだ。抵抗されないのを良いことに、そのまま手のひらを私の心臓の位置に当ててみた。

「……わかる?」

伝わるだろうか、この毒が動かす心臓の音は。今まで自覚がなかったとはいえ私も同じように裏切っていたことに、気がついてくれるだろうか。

「……俺の頭は都合が良いようにできてしまっているので、勘違いしてしまっていけませんな」
「……勘違いのほうが、良い?」
「……いいえ」

たっつーが私の肩口にとん、と額をあてた。少し丸まった背中を抱きしめる。
あのさ、巽くん。私も同じ泥濘を飲み込むから、それで良いよ。でもこれってそんなに醜いかなあ。君が好きで、私が好きならただ一言で足りやしないか。さっきの熱だって、繋いだ手の優しさだって、濁りなんてなかったじゃないか。そんなことにも気付かないほど罪悪感に満たされていたのなら、私は。
言いたいことは色々あった。けれどそのどれもが言葉として成立しない。

「きみだからいいよ」
「おれはさつきさんがいいです」
「すごい口説き文句じゃない?それ」
「口説けていますか」
「もう落ちてるから意味ないけどね」

本当に伝わっているのだろうか。伝わっていなくても、別に良い。私は彼に甘やかされたと思うし、ならば同じものを返したい。優しいものだけ選り分けて、
とりあえずバスが来るまではこのままでいよう。首が痛くないように、背伸びをした。抱きしめてもらえているのが嬉しいから。

「……それはまた、熱烈ですな」
「こういうときはどうするんだと思う?」

バスが来てしまったら、せめてこの毒が熱に解けるまで手だけでも繋いでいよう。
そうして、それで。どうすれば触れている理由が見つかるだろうか。
何も分からない。そのときには好い加減、理由もなく繋げていれば良いなと思う。
彼が顔を上げる間も、私たちは抱きしめ合ったままでいた。

「リップ残るよ」
「拭ってくれるんですか?」
「残すつもりで選んだんだけど」

彼が嬉しそうに、困ったように笑う。私は背伸びしたまま、ただ目を合わせた。