きみは心臓の隣


「皐さん、あーん」
「皐さん、手を」
「皐さん、」

「…………………」

まあよくある事故、というわけではなかった。
それなりの規模で、それなりの損害があるそれに巻き込まれて、後遺症なく済んだだけマシなのだと思う。
だからって、これはないだろう。

「たっつーさあ……」
「?はい」
「過保護じゃない?」
「……そうですか?」

手を握られ、手を引かれて支えられ。
熱い食事はフーフーと冷まされてから口に運ばれる。
重病人でもないというのに、私の表情に首を傾げたたっつーは、はい、最後。と続けて私の口に食事を差し出した。

「んむ……ごちそうさまでした」
「はい。よく食べきれましたな。偉い、偉い」
「こわ……確かに手まだ動かないけどさあ、片手でも食べれるのに」
「俺がこうしたいだけなので」

この会話ももう何回か繰り返した。
繰り返して、彼はこの世話焼きをやめようとしない。車椅子を押していた手が必要なくなり、松葉杖をつき始めた現在も転ばないようにと隣を歩き、利き腕の使えない私の手の代わりだとでも言うように食事を私の口に運ぶ。

「嫌ですか」
「嫌っていうか……」

お茶を、とカップを渡される。飲み物くらいは1人で飲ませてくれるようになった。
この過剰なまでのお世話は、今のところ一ヶ月間続いている。

「たっつーなしで生きていけなくなったらどうしようって思う」
「……それではダメですか?」
「ダメだよ」
「あはは……」

たっつーは動きを止めて、誤魔化すように笑った。多分、何も伝わっていない。
私達が友達になったときからこうなのだ。自分の隣にいることの価値を、彼は知らない。少なくとも私にとってはとても尊いものだということを、分かっていない。

「それじゃあさ、離れたくても離れられないみたいじゃん。それはやだよ。私は私の意志で、きみが大好きだから一緒にいるのに」
「…………」
「……照れた?」
「……少し?」

たっつーはふ、と笑って、困ったような、泣く直前のような顔をした。
照れただけならそんな顔しないでしょ、そういう言葉を飲み込んで、手を繋いでみた。
最近のたっつーは何だかおかしい。後遺症は今のところ出ていないし、回復も順調だ。けれど、どこか不安そうに、その不安に動かされるみたいに私の世話をする。
ギュッギュッと彼の手と組ませた私の手を握りこむ。

「……皐さん?」
「大丈夫だよ。何が怖いのか分からないけど、今生きてるし」
「はは……敵いませんな、皐さんには」

私よりも大きい手のひらが私の手をきゅっと握り返して、かがんだ彼は額にそれをあてた。祈るみたいに優しい握り方をしていた。
ふわりと触れた髪の毛が柔らかくてくすぐったい。サイドテーブルにカップを置いて、片手で彼の頭を撫でた。
拒まれず、かといって歓迎もされず。ただ受け取って、彼は私にされるがままにしていた。

「安心できたりしない?」
「……すみません」
「謝るようなことじゃないって」

私はまだ上手に歩けないから、かつての自分と重なる私のことが心配なのだろう。過去を詳しく聞いたことはないけれど、何となくわかっている。それにしても過保護じゃないかとは思うけれど。
もう一度、頭を撫でる。
たっつーは一度繋いだ手に入れる力を強めて、解いた。
握ったままで良いのに。

「皐さんが事故に遭ったと聞いたとき、俺は息が止まりました」
「うん」
「後遺症が残らないとしても、皐さんが、俺の……」
「たっつーの?」
「……忘れてください」
「いや気になるんだけど」
「忘れてください」
「はい」

私は変な彼に笑って、事故に遭ったことを後悔した。注意不足とか、そういうので何とかなる事故でもなかったというのに。
彼は滅多に痛みを訴えない。足の傷が痛むと自分から言ったことがない。
だから、こんなことは珍しい。
自分も痛かったのだと、だからせめて独りで痛みを抱えないようにと、その優しさを自分に向けない彼が認めた、痛覚だ。
彼は痛かった。痛かったと聞いたことはないけれど、彼が遭ったという「事故」は古傷が未だ痛覚を鳴らす程度には大きなものだった。だから私が負った傷にここまでここまで心を尽くしてしまう。

「たっつー、ちょっと近付いて」
「はい。ええと……これで良いですか、な……?」

近付いた彼を抱き寄せる。解かれた手をまた伸ばすのは少し恥ずかしい。
でもまあ、伸ばしたいと思ったから仕方がないのだ。
抱きしめるのは慣れていない。いつか両親に抱きしめられたように抱きしめて、私が安心したように安心させたい。

「嫌?」
「いいえ」
「怖い?」
「……はい」
「心臓の音、安心する?」
「……幼子のようで、恥ずかしいですが」
「恥ずかしくないよ」

もう少しこのままでいようよ、と彼の頭を抱きこむと、少し躊躇いながらもたっつーは抱きしめる力を強めた。
私もそうされると安心する。本当に、家族に抱きしめられているみたいで。そんなこと、たっつーは知らないだろうけど。

「私、きみにお世話されるの好きだよ」

本当に、思い出す。私は家族の中のアイドルだったから、大切に大切に育てられたから。
私たちのこれは愛だと思う。けれど、どこまでも他人だから、心を砕く権利なんて与えたくない。
痛くならないで欲しい。都合が良くたって構わないから、優しさだけが良い。
縫ってから随分と経つのに、頭が痛んだ。こんなものの比にならない痛みを、私は知っている。

「でもさ、たっつーが家族じゃなくて良かったって、たまに思う」

愛されていることを知っている。種類なんて関係なくて、どうでも良くて、ただこんな事故ですら傷ついてくれるひとに心臓の鼓動を晒すことばかりが嫌だった。
心臓の隣に置いても許されるのは家族くらいだ。もしも私が彼と家族だったのなら、隣どころか左心房にでも置いていた。
怖いなあ、と思う。だってそれはもうただの、緩やかな心中だろう。


それからはまあ、たっつーの過保護は控えめになった。控えめになったというよりも、元に戻ったというか、なんというか。使用人にすら思える態度はなくなって、けれど病院に来る頻度は下がらないまま。
春はいつの間にか気温を上げ、ゆっくりと梅雨が訪れていた。

退院というのは案外あっけない。経過観察でこれからも通いはするわけだけれども。
久しぶりの出勤が雨の日となったスニーカーできちんと歩けるかを再三確認する。未だ少し重い頭以外は絶好調のようだった。


「たっつー」
「こんにちは。退院、おめでとうございます」

葉桜が雨に濡れている病院前で、何故だか彼は私を待っていた。
松葉杖もほぼ必要ないところまで回復した体を見ても、頭に巻かれたままの包帯に目を留めて彼は眉を顰める。

「私、もうちゃんと歩けるよ」

何で私を待つのだろう、と思う。あの日に私は臆病を晒した。もうケガは治ったし、面倒を見ると言ってもすることがない。
私の言葉にたっつーは少しはにかんで、「余計なお世話だとは思うんですけど」と笑った。

「皐さんに傘を届けに……というのは、建前で。皐さんと歩きたくなって、来てしまいました」

昔、雨の日は傷痕が痛みやすいのだと聞いた。そして、今日は小雨でも、大雨でもなく、ただしとしとと雨が降っている。これぞ梅雨といった塩梅の雨だ。
つまり、多少は痛んでいる。どれほど回復したのかは知らないから、もしかしたらもうそんなに痛みはしないのかもしれない。その方が良い。その方が良いけれど、そうじゃなかったとしたら、彼は。

「一緒に帰ってくれますか」
「うん」

差し出された傘を受け取って、少し大きい彼の傘の下に入った。少し狭い。狭い方が、きっと良い。

「ここで良いんですか?」
「ここが良いな」

狭い傘に入って、歩く。当たり前のことだけれども薄桃色の花びらなんてどこにもない。

「桜見たかったのに」
「病室からは見えませんでしたか」
「桜の下を歩きたいんじゃん」

病院の前の通りは見事な桜並木が植えられている。動こうにも動けない体に対して健在な視覚から入ってくる春の風物詩はなんとも堪え難いものがあった。
分かってないな、と少し背の高い彼を笑う。笑い返される算段だったというのに、彼はやけに真剣な顔をしていた。

「また桜が咲いたら一緒に桜を見に行きましょうか」
「お、良いね。来年が楽しみになるし……」
「はい。そしてまた次の桜が散ってしまったら、再来年もその後も、一緒に行ってくれませんか」

どうやら、一人で見る桜は淋しいらしい。そんなこと知りもしなかった。
否、趣旨がそんな場所にないことは私にも分かっている。ただ、してやられた、と思っているだけで。

目を丸くした私を見て、たっつーは笑った。笑って、泣きそうな顔をした。そんなに苦しそうな顔をする必要なんてどこにもありはしないのに。

「皐さんは俺がいないと生きていけなくなりそうだと言いましたよね」
「……言ったね?」
「そうなれば良いと思ってしまったんです。俺が綺麗なものを見るたび皐さんを思い出すように、皐さんが俺を思い出してくれるならきっとこれほど幸福なことはないと」
「……息するたびに思い出してほしいの?」
「あはは……言葉にされてしまうと自身の醜さを実感しますな」

罪悪を吐露するようなプロポーズだと思った。
雨が傘の中と外を分けていて、湿度が体温すらも保持させたまま鼓膜に彼の声を届ける。
私は今、鼓膜から伝った振動で、彼の心臓に触れている。
彼が私の方を見て、足を止めた。急に停止したものだから、地面の水が跳ねて私のスニーカーにかかった。
気持ち悪い感覚なのに、それよりもずっとずっと大切なものが私の瞳を捕えて離さない。
本当に綺麗な色をした目だと思う。桜なんて並ばないほどに美しいことを、たっつーは知っているのだろうか。少なくとも私にとっては盲目的なほどに綺麗に見えることは知らないのだろう。

「皐さん。我儘を、聞いてもらってもいいですか」
「……うん、いいよ」
「俺は、皐さんとの未来が欲しい」

私もひとつ、白状しよう。皐さん、と名前が呼ばれたあたりで、私は何故か「仕方ないか」と思った。何が仕方ないのか、自分でも分からない。確かなことは、病室で見せた臆病な私は今たっつーに弱い私によって亡き者にされたということくらいか。
届いた言葉はプロポーズというよりも懇願に近く、それでいてひどくやさしかったものだから、ズルい男の子だなあと思ってしまった。
私がこれに弱いことを、このひとはよく知っている。知らなくても彼はきっと同じ言葉を言った。つまるところ、私が風早巽という生き物に弱いだけである。
そんなものだから、お願いになんかしなくたって私は受け入れるに決まっていた。

「未来も呼吸も、全部あげるよ」

背伸びをして彼にキスをする。キスである必要なんてなかったけれど、キスをした。
何をどうすれば正解なのかなんて分からないけれど、美しい菫色が私の好きな形にゆるんだから、きっとこれが世界で一番正しい返答だった。