はるのみなと

「巽先輩は春が好きなのかい?」
「そうですな。他の季節が嫌いというわけではありませんけど、春は特に」

何の意図もない、ただの世間話として投げられた質問に、自分もなんの意図もなく返した。
何故好きなのかも考えることなく、ただ「好きなもの」として。

叢咲皐が死んだ。昨年の話だ。
ニュースで人気俳優の死として一時期世間を賑わせたそれも、冬を過ぎて春が来ればまるでなかったことのように忘れ去られる。
「彼女しかいなかった」と嘆いた映画監督も、望んでいたのは彼女という才能だ。それは当たり前の話だというのに、俺はその映画監督の映画がどれだけ流行っていても、彼の言葉をテレビで耳にしてからは見る気が起きなくなった。
いなくなってみれば彼女が日常にいた時間は大きく、空いた時間に押し込むように仕事を増やした。そのせいで体調を崩しかけ、藍良さんに叱られてしまったのが一ヶ月前。
疲れというものも一ヶ月あれば癒され、多めに空けられたオフを持て余すことになる。読書をするのも良かったけれども、家に篭りきりになってしまうのもよろしくない。こちらにも訪れたという開花前線でも見に行こうか、と来ただけの土手だ。

去年、皐さんと来たときには一際綺麗に見えた景色があったはずなのにそれは桜並木をどれだけ辿っても見つからない。
景色が美しくないわけではないのだ。川に映る桜も、流れて行く花弁も自分には等しく綺麗に見えただけで。
満点の春の景色のどこかに潜んだ欠乏感に思考を巡らせていると、右横を誰かが俺の体に当たるスレスレで駆け抜けた。

「っと……」
「お母さん、はなびら!」
「こら!走らないの!すみません!」
「いえ、大丈夫ですよ。当たっていませんし」

先ほどぶつかりかけた子どもの母親と思しき女性が俺に頭を下げるのを見て、自分が桜並木から一人分のスペースを空けて歩いていたことに気が付いた。どうやら意識しているわけでもないのに、そうなっていたらしい。まるで隣に誰かが歩いていて、桜の花弁を見上げて歩いているように。
俺の心臓では未だに彼女が呼吸をしていて、その血が足を動かしている。
まだ、彼女は俺の中に生きている。それで良い、と思うべきだろう。心臓があたたかく鼓動を刻んでいるのだから。だというのに、この寒さはなくなりそうにない。きっとこの桜が葉をつけ、夏の訪れを知らせてもきっとこの肌寒さは消えない。底冷えでないことだけが救いであり、救いようがなかった。

春が好きだ。
それは皐さんがあたたかかったから。手を引いた彼女の手が優しかったから。皐さんと越えた冬の日の先にあったから。
そんなことに、俺は今やっと気が付いた。
一緒に生きたかった。
二人で春を待つ冬だけで、きっと良かった。心臓なんて冷え切っても良いから、少し寒いと肩を寄せ合って、その温もりを、俺は。

「​──────」

桜が舞う。花弁が足元に降り積り、地面に水滴の染みができるのを防ぐ。当たり前の話だが、あてどなく伸ばした手は、誰一人として掴まなかった。
彼女がいない春を、俺は好きだと言えるのだろうか。
相変わらず春は綺麗で、彼女のいない世界でもそう思えてしまうことへの淋しさに縋ることでしか、俺は「ただしい春の日」を再生できそうになかった。