海馬まで手のひらのうえ
欲しいと思った。所有欲ではなく、独占欲でもなく、ただ欲しいと。既に彼女は腕の中にいるというのに、そう思った。「海行こう」
もう晩夏と言っても差し支えのない夏の暮れ。未だ蒸し暑さが残る気温を携えて彼女はドアの前に立っていた。
訪ねて来たのは午後六時を過ぎた頃で、海水浴なんてする時間ではない。散歩でもするのだろうと、断られるとは微塵も思っていない彼女の誘いを受けた。
昔は向日葵のように見えた彼女の瞳が、最近は木漏れ日に見える気がする。人を識るというのがこういうことならば、俺はいくらか皐さんを識り始めていた。
彼女が運転する車に乗り、少しすれば埋立地に造られた人工の砂浜に着いた。住まいからもそう遠くないのに、初めて来る場所だった。
海風が強く吹いていて、風力発電のための風車が回る。
最も、風の強さに気が付いたのは車のパワーウィンドウから吹いた風に皐さんの髪の毛が揺れたときだったので風車はあまり関係がない。
「涼しいね」
「どうしてここに?」
「人少ないから」
「人?」
「二人きりになれるから」
「なる、ほど……?」
「ねえたっつーってそんなおとぼけだったっけ、もしかして私たち付き合ってなかった?それとも言わせたくてやってんの?」
繋いだ手をぎゅっと握って早口で皐さんが捲し立てる。可愛らしいと思って笑っていると、繋いだ手で小突かれた。
「たっつーのせいで暑いんだけど。せっかく来たし海入ろっかな」
「風邪を引いてしまいますよ」
「別に泳ぐわけじゃないよ。遊泳禁止だし」
手を解いて、サンダルを手早く脱いで、彼女は一人で海へと入っていく。浅瀬でパシャパシャと足を濡らすだけかと思っていたが、気が付けば皐さんはショートパンツの裾に波が触れるほどの深さまで海へと入っていた。
「皐さん」
もう一歩、と足を進めようとした彼女を引き止めるように名前を呼んだ。否、呼ぶだけではなく、足も動いていた。
「もう少し、浅瀬に」
「うん」
海に足が浸かり、彼女の手を掴む。せいぜい八センチ差の身長では、俺も彼女と同じように体が濡れた。
波に押されるように、膝ほどの深さまで引き返す。
「服濡れるよ」
「いいんです」
「足に良くないんじゃない?」
「……考えていませんでした」
「あはは。いなくなると思ったの?きみがいるのに?」
焦りが顔に出ていたらしく、皐さんは俺にそう言った。掴んだ手が振り解かれなかったことにホッとして、「すみません」と離そうとすれば指が絡められる。
変なの、と皐さんは笑った。こちらの気持ちなど知らないように、知っていてもそれを振り払うように。
「謝ることじゃないよ、全部」
「俺が謝りたいだけなんです。自分のために」
「はは、なら付き合うよ」
伸ばされた綺麗な髪の毛を耳にかけた彼女が、波と共に月の光に融けていく。
それが怖くて皐さんの手を握り込めば、低い体温同士が特に必要もなく行き交った。
好きだと言った。一緒に生きたいと願った。それを彼女は簡単に叶えてしまった。それで十二分だと言えたはずだ。
「皐さん」
「なーに」
「皐さん、」
「聞こえてるよ」
「……あまり、遠くへ行かないでください」
肩口に顔を埋めて、彼女から俺の表情が見えないのを良いことに出た言葉に自分でも驚いた。
これは執着だ。居心地の良い日々を手放したくない自分の醜い執着。それに気が付いた瞬間、彼女に触れていることがどうしようもない罪悪に思えた。
それなのに離そうとした手は離れない。彼女の意志で繋がれたままだった。
「忘れてください、皐さん」
「ええ?」
もし、今の自分がどこかの可能性の一つに過ぎないとして。他の可能性の自分がどれだけ幸福だとしても、彼女と出逢いたい。
こんなことを願っている俺の手を、笑って握るような彼女と呼吸をしていたい。
彼女との明日が、明後日が、その先が欲しい。いなくなってしまわないように触れていたい。
欲ばかりが滲む自分にため息が出る。俺は彼女に、何が出来るのだろうか。
「間違えたの?」
「はい……いいえ、」
「……忘れたほうが、いい?」
「……お願いします」
目を合わせようとする彼女に、自分の顔が見られてしまわないように俯いた。
欲が薄いと俺に言った彼女は、こんな俺を知れば何と言うのだろう。あっさりと受け容れて、また同じように俺の手を握ってしまうのかもしれない。
俺は、そうであってほしいと、今。
「……いいの?」
「え?」
きょとんとした顔の彼女は首を傾げて、俺の手を包むようにして握った。
「忘れて、いいの?」
皐さんの頬が赤い。いつも朗らかにゆるむ瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていて、まるで何かを祈っているようだった。
綺麗だと思った。長い睫毛も、指先も、柔らかく伸ばされた髪も。ずっとそう思っている。いつからなのかは、知らないが。
「私は忘れたくないんだけど」
波が引いて、また押し寄せて、それが数回繰り返された。その十数秒をかけて、立っている場所の砂がどんどんと海にさらわれて、そうやって消えてしまいそうだと思った。
「……きみがいつもそうやって受け容れてしまうから、俺は自分がどんどん我儘になっていく心地がします」
「それで良いのに」
「そうですか」
「そうだよ」
「本当に?」
「疑うんですか、キミは」
「ふふ」
「遊んでんじゃん!」
怒ったような表情に変わった皐さんが、次の瞬間には柔らかく咲く笑みになることを知っている。正確に言えば、彼女がそういうひとだと、知っている。
それを綺麗だと思った。美しいと、愛しいと。
「ほんとにさ、それでいいんだよ」
彼女が俯いて、一拍。
「だってそんなところ、私以外に見せないでしょ?」
悪戯が成功した子供のように皐さんは笑う。俺は不意を突かれて、自分の心臓が鳴る音を聴いた。
何か返事をしようとして、「綺麗だ」と、そんな言葉が口をついたものだから、皐さんはいつものように眉を下げて笑うのだ。