みはなされるよ、きみ
隣町で背教騒ぎを起こしたという悪魔が運び込まれてきたのは冬の暮れのことだった。翼も尻尾も、悪魔として描かれる生き物とはかけ離れた生き物。ただどこにでもいる、同年代の女性。それが彼女だった。
くるくる、ふよふよ。いつの間にか教会に馴染んでいる彼女は高く浮かんで天井の埃を取っていた。
十字架やマリア像に近付くことは「ちょっとしんどい」らしいが、それ以外の場所では悪魔と言われた彼女は割と居心地良さそうにくつろいでいた。
「掃除、ありがとうございます」
「ご飯もらってるからこれくらいはするよ」
「あまり人前ではバレないようにしてくださいね」
「この前見られたけど天使だって言われたよ」
「…………」
まあ、こういった感じのひとだ。善でも悪でもなく、宙を浮くこと以外あまり人間と乖離しているところはない。
皐さんは俺の手を引くのがマイブームらしく、教会をうろつくときにはよく俺を呼びたがる。今回の興味の対象は教会に設置されたオルガンのようだった。
「弾けるの?オルガン」
「聖歌なら」
「うわ、やめてよ」
魔物が教会の中で堂々としている時点で聖歌に是非も何もないのではないかと、顔をしかめている彼女に笑う。「牧師のくせに」と皐さんは俺の頬をつついた。
「私、歌うの得意だよ」
「どんな音楽を?」
「きみはどんな音楽が好き?」
俺が答えるまでもなく、私、それが得意だよと彼女は笑った。皐さんにはこういうところがある。しかし彼女のことだから、俺が何を答えても本当にこなすのだろう。彼女はそういう、人を魅了することに長けた生き物だ。
笑顔を可愛いと思うのも、割と適当な相槌を愛おしいと思うのも、そういうものだから。俺は彼女の生態に恋をしたのだと、きっと人は言う。
たった一人の彼女に恋をしているのだと証明する手段を、「そうでなければ良いと願っている」こと以外、俺は何一つ持っていなかった。
「何か明るい曲でも練習しようよ、私歌うからさ」
「パイプオルガンで?」
「確かにこれ音重たいね」
まあ別に良いんだけどさ、と彼女は続ける。
ふわりと浮かんで、距離を詰めてから綺麗に微笑む。美しいと分類されるはずのそれが、俺にはやけに可愛く見えた。
「きみと何かしたかっただけなんだ」
「……なら、教会の手伝いを」
「それ怒られるの巽くんでしょ」
「そもそも教会に入っている時点でお叱りは受けるでしょうな」
「怒られちゃうじゃん、なんで許してんの巽くん」
「ここ以外にいる場所がないでしょう」
そう言うと、慈悲だなんだと皐さんは俺を拝むフリをした。悪魔が一介の聖職者を拝むというのもいかがなものだろうか。
「あとは、きみと話すことが好きなので」
「えっ」
「皐さんは嫌いですか」
「いや、好きだけど……」
牧師さんがそう言うのってどうなの。
皐さんは目をそらす。逸らしただけで、距離をとられることはなかった。可愛い。
ほんのり赤い頬を撫でてみる。手袋越しでは熱さは分からなかった。
「最低だよ、巽くん」
「何故そう思うんですか?」
「私が人間だったらそんなこと言ってくれなかったでしょ」
ツンと人差し指で鼻先をつつかれる。
「みんな私のこと、都合が良いように好きになって、私かもわからない誰かに魂を渡してくるんだよ。そうじゃなくてもほら、殺しちゃえ〜って」
拗ねたような、淋しそうな顔が人間のようだと思った。
「……俺もそう見えますか?」
「…………そうじゃなかったらいいなって、思ってる。いち個体の知ろうとしてくれたのはきみだけだから」
へにゃりと彼女の言葉は床に落ちる。それを俺の聴覚は幸せそうに拾い上げた。
「……皐さん、」
好きなんですか、俺のこと。そう言おうとしたはずなのに、言葉は喉につかえて消える。
彼女が俺の首元に触れていた。彼女が俺の魂を奪うには、絶好の機会だった。
「でも人間だったら出会ってもないもんね」
ドクドクと自分の血潮が俺の身体をめぐっているのが分かった。
指先一つで俺は死んでしまう。それは恐るべきことだ。そして悪魔に奪われた魂が昇ることはない。
彼女のものになったのなら、俺はどこへゆくのだろうか。彼女のひとりぼっちの子供のような声は、俺たちがひとつになることで終了しやしないか。
「皐さん」
浮かんでは消える、熱に毒された考えが彼女の瞳に押し流されて表出する。
これが恋でなければ、愛でなければ、どうして甘美な誘惑がそこにないのだろうかと思った。
彼女の指先は動かない。
「良いですよ、俺は。きみがさびしいのなら」
「——————」
目が合ったまま、数秒だったか、数十秒だったか。皐さんは動かずそのままでいてから、パッと手を離して俯いた。
「皐さん?」
「…………ドキドキした…………」
「はい?」
「ドキドキした」
皐さんが自身の胸に手を当てる。
あまり見ることのない彼女の表情を見て、俺も自分の発言をふと振り返った。聖職者としては批判されて当たり前、悪魔からすれば罠にかかった餌。そういうセリフを俺は吐いた。
一種のプロポーズのように聞こえてしまったのかもしれない。否、本質的にはもっと重たい感情なのだけれども。
赤い耳が綺麗な髪の間から見える。もしかして脈でもあるのだろうかと、自分でも嫌になるくらい熱に毒された考えが頭をもたげた。
「……あの、」
「巽くんの声ビリビリした……」
「え?」
「思ってたより声低いんだね、男の子って感じで。びっくりしちゃった」
「……あ、はい」
「ごめん、怖かったよね。何となく手を首に置いただけで……何の話してたんだっけ」
「聖歌の話です。弾いても?」
「え、何、なんでそんな耳赤いし機嫌悪いの」
「若気の至りです」
「まだ十八でしょ!あと弾かないで!弾くなら練習してくるから!」
「体調崩しませんか」
「きみと楽しく過ごす方がいいの!二人で!」
浮かぶ彼女が俺の手を引いて、椅子から俺を強引に立たせながらそう言った。
ひとつじゃふたりでいられないよ、と続ける彼女はやっぱり俺の告白まがいの言葉を拾い上げていて困った。
「プロポーズだったら受けたのに」
ふざけたように顔を綻ばせる彼女の手が解けないように、少し強く握り直して引き寄せる。彼女はそれを拒まなかった。
「本気にしますよ」
ステンドグラス越しのボヤけた光で俺たちの影が重なって、何も起きることはなかった。
空は晴れたまま、俺も彼女も生きたまま。ただのふたりの影が触れ合って、離れた。