きみだけだけど
どうして求婚を受けてくれたんですか、と巽くんは私に訊ねた。いつも通りになった二人の食卓での一幕だ。求婚とはなかなか俗世離れした言葉を使うなあと思ったけれど、彼らしかった。
「綺麗なものを見たときも、良いことがあったときも、いつも一番に話したいって思うのもきみだから」
鍋から湯豆腐を取って器の中に入れる。箸で小さく分けて、フーフーと冷ます私を彼は見つめていた。
「……俺は」
そんなに見られたら照れるよ、と。そう言おうとしたのに本当に照れてしまって言うことができなかった。
恋をされるのは好きじゃない。得意ではあるけれど、こんな風に優しいものは苦手だった。心地が好くて、少し心臓が痛い。
「俺は、綺麗なものを見るのも、良いことも、皐さんと一緒が良い」
今思えばあれが正しいプロポーズだったのかもしれない。少なくとも、恋愛という過程を丸ごと飛ばして結婚した私たちにとって、自分たちの関係に戸籍以上の価値が付けられたのはこの瞬間だった。
「きみの見る世界の中にいたいんです」
彼と私の目が合って、じわりと熱が心臓に沁む。
雨の中で走り出すような熱さでも、かき抱きたくなるような激情でもなんでもなく、それはそこにあった。
そうして私たちの関係は今更とも言えるタイミングで変質した。
「う〜〜〜ん……」
「お悩みですか?」
「はい……」
デパートの地下。平日でも人がごった返す食品売り場に私はいた。毎年来ているけれど、人が多い場所ではむしろ芸能人だと気が付かれにくい気がする。今の時期はみんなショーケースに釘付けなのが理由なのかもしれない。なるほど、彼女たちはこんな気持ちで溢れる宝石みたいなチョコレートを見つめていたのかと今更に体験ているところだ。
毎年この時期だけは食べたいチョコレートを悩むことなく自分のためだけに買い漁っている私にとって、これは中々に難しい問題だった。
甘いものに目がない私が十分も買わずにショーケースの前に立っているなんて彼が見たら笑うことだろう。きみに宛てるから困っていると言うのに。
「どなたに宛てる予定なんですか?」
「夫に」
「それでしたら———」
店員さんが私にいくつかおすすめのチョコレートを紹介していく。全部食べたい。いや、実際彼の性格的に分けてくれる気がするけれど。
演じてきた彼女たちならどんな風に選ぶのだろう、と思いかけてやめた。そのほうが楽なのに、と自分でも思う。
「むむ……」
私が、私だけで悩みたい。彼のことを考えて悩むのは、何だか幸せな心地がした。
「ラッピングは致しましょうか?」
「お願いします」
そういえばバレンタインフェアでパッピングを頼むなんて初めてかもしれない、とふと思った。
両手に持った紙袋。戦利品を手にぶら下げて帰宅すると、彼はリビングで本を読んでいた。
「おかえりなさい」
「ただいま!」
ガサガサと紙袋をテーブルの上に置く私を見て巽くんが笑う。手に持った文庫本にはいつの間にか私があげた栞がはさまれていた。
「去年より増えましたな」
「いや減ったよ。これ半分くらいたっつーの分」
「俺の?」
「うん。脳内のたっつーが何あげても喜ぶから全部買った」
なんですかそれ、とまた彼が笑った。そうそう、そういう反応をするだろうと思っていた。
手を洗ってうがいをする。うがい薬まで買ってくるところが彼らしい。これは同居初日にも思った気がする。巽くんのおかげですっかりきちんと生活するようになってしまった。今彼に放り出されたら多分体調を崩す。死にはしないのが薄情なところだ。
「紅茶でいいですか?」
「うん。沢山あるから今食べたら夕食食べられないかも、たっつーは」
「皐さんも食べ過ぎはいけませんよ」
「わかってるって」
食品だから受け取ることができないとはいえ、今頃事務所にはファンからのバレンタインチョコが山ほどあることだろう。もったいない。
「じゃあ改めて。愛しの巽くんに」
「……ありがとうございます」
ラッピングされたチョコレートたちを渡す。複数だと何だか情緒がなく見えるな、これ。愛は詰まっているのに。
「……」
「どうしたの?」
箱を黙って見つめる彼の顔を見る。ぼーっとした紫色は少し遅れて私に焦点を合わせて、くすぐったそうにはにかんだ。
「いえ、その……夢のようだと思って」
「チョコが?」
「はい。正確には、皐さんからもらうチョコレートが」
「去年もチョコまん半分こしたじゃん」
「あのときは友人でしたから」
「本命チョコってこと?」
「……まあ、はい。俗に言えば」
「俗以外の言い方あるのかな……」
私は自分用に買ったチョコレートの箱を開ける。少し大粒のチョコレートが二粒、かしこまって並んでいた。
「はい、あーん」
「え?あ、あーん」
「味わって食べてね」
少し苦い方のチョコレートを巽くんの口に放り込む。困惑した様子でチョコレートを賞味している彼が真面目で可愛い。
「私、きみにしか半分もあげないよ。きみみたいに優しくないから」
二つ入りのアイスを半分こしたのは出会った年の夏の暮れだ。寒いと言いながら二人で食べた。何回そういうふうに一緒に何かを食べたのかは覚えていないけれど、肉まんだろうとチョコまんだろうとひとつのものをわざわざ半分にしてまで分けるなんて、少なくとも今の私はしない。
「夫婦じゃなくても、恋人じゃなくても、私にはきみだよ」
私はそれにラベルを貼っていなかっただけで、ちゃんと彼の中で私がいる場所に、私は彼を置いていた。
分かりやすいのだから気がつけば良いのになんて、私が言えた口ではないから言えないけれど。
「これじゃ本命チョコあげた意味ないね」
彼から向けられる視線に何だか恥ずかしくなって、誤魔化すように紅茶を飲む。
おいしい。出会った頃よりもずっと淹れるのが上手くなったのだろう。変わっていくものばかりだ。彼も、多分私も。
けれど変わらないと思ったから、私は彼とここにいる。彼にだけ許した場所に彼を座らせて、好きなものを半分にして分け合って、こうして紅茶を飲んでいる。
巽くんを見れば、向こうは私に言われた通り律儀に味わって食べたようで、やっとマグカップに口をつけていた。
マグカップを静かにテーブルに置き、彼が口を開く。別に重い話をしていたわけでもないのに私は緊張していた。
「……キスしてもいいですか」
「説明が欲しいかも」
何か色々飛んだ。ついでに緊張も切れて脱力感に襲われた。何だこれ。真面目な顔で言うことじゃない。
「可愛いと思ったので」
「じゃあいつもキスしたくないとおかしくない?」
「いつもしたいですよ」
「ふ、ふーん……」
皐さん、と名前が呼ばれる。
私が席から立って彼の肩に手を置くと、少し驚いた顔がそこにあった。
「……皐さんからするんですか?」
「え、自分からが良かった?」
「いえ、積極的だなと」
「からかってる?」
「ふふ」
「ねえ」
「かわいい」
大きい手が私の頬に触れて、彼は私に唇を寄せた。優しく触れて、ゆっくり離れる。
まだ彼とのキスは苦手だ。物語の中でするキスとはかけ離れて、私の心に触れられている気がして。
「このチョコやっぱりちょっと苦いね」
「美味しかったですよ」
「甘い方も食べる?」
「今度は二人で一緒に食べましょう」
「浮かれてるカップルみたいだね」
「お嫌ですか?」
「ううん、好きだよ」
きみが。
そう続けると、彼の目が丸くなってから嬉しそうにゆるんだ。