我儘を言わせてよ




「わたし、きみがいないと嫌よ」

「わたしのきみでいて」

そうならないと知っていた。それはできないと断られたくてそう言った。
彼が嘘をつかないひとだと知っていたから、私はそう言ったのだ。
それなのに返ってきたのは少しふにゃりととけた「ウム」なんて返事で、私の得るはずだった安心も、失うつもりだった甘えも全て跳ね返されてしまった。
正しい彼に憧れて、正しい彼に恋をした。


「よ、妹ちゃん」

この人、本当はこんな声色だったのか。
上背のある彼の兄の顔を見上げながら、そんなことを思った。

天城一彩が死んだ。理由は公開されていないが、確かに天城一彩は死んだ。その身体は彼らの故郷まで運ばれ、葬儀は終わった。
余所者であるため葬儀に出席できなかった私はその連絡を受けただけなのでその内容は知らないけれど、つつがなくそれは行われたらしい。


「一彩が『愛してる』ってよ」

私へ小さな壺を渡したとき、燐音さんはそう言った。憔悴しているはずなのに、愛する弟の殻を他人に手渡した彼の声音は酷く優しくて、「そうですか」と冷たく落ちる私の言葉に怒ることもなくそこにいた。
「上がってください」とかけた言葉は予想と反し断られることなく、彼は食卓の椅子に座った。一彩くんに似て姿勢が良い。いや、一彩くんがあの人に似ていたのか。基準が一彩くんになってしまっていていけない。

「燐音さん、どうぞ」

兄弟で好みが近いかと思って出した熱い緑茶に、燐音さんは「あっち」と声を漏らした。お兄さんの方は少し冷ましてから飲むタイプだったらしい。
着席して十数秒は、そのお茶から立つゆらゆらと揺れる湯気を二人して見つめていた気がする。
私たちが話すとき、いつも間には一彩くんがいるか話題が一彩くんであるかのどちらかで、距離も話の切り出し方もはかりかねていたのだ。
その沈黙を先に破ったのは私だった。燐音さんの隣にある骨壷が、そうさせた。

「……あの、燐音さん。どうして一彩くんを私に?」
「は?一彩と約束してたんじゃなかったのか?」

燐音さんはフーフーとお茶を冷まして飲んだところで目を丸くする。
話に聞くところによると、燐音さんは故郷のしきたりを破って一彩くんの骨を私の元まで持ち出してきたらしい。それが一彩の最期の願いだったと。

「約束?」

パッと思い当たることはなかった。そもそも彼ら兄弟の故郷の葬儀の話題すら初めて聞く。
彼との思い出はいつも鮮明で忘れるはずなどない。いくつ記憶を重ねても、何一つ霞むことなく私の心臓に鎮座している。要は、私が彼との約束を忘れるはずがないのだ。
最期の願いでしきたりを破らせるなんて一彩くんらしくもないな、と思ったくらいだ。
形としては頭である燐音さんに村から戻れないことにされている彼が故郷に戻る最後のチャンスだったはずだ。燐音さんの言葉に従って考えれば、一彩くんはそんな機会を自ら手放したことになる。

「あァ、確か一彩が『約束を破ることになってすまない』つって———」
「、え?」

燐音さんが苦しそうな表情をしながらそう言った。私は初めてそこで合点がいって、ふっと声が勝手に喉から漏れる。
いつかの冬の朝にした会話だ。
私は彼に「私のものでいて」なんて無茶振りを言って、彼はそれを躊躇うことなく承諾した。彼は生まれた瞬間から兄のために生きて、都会へ出ても尚そこに刻まれた在り方は変わらないというのに。
少なくとも私のために死んだり、私のそばで障害を終えることはないのだろうと私たちは分かっていたはずだったのに。

「———……ばかなひと」
「……妹ちゃん?」

燐音さんが俯いた私を呼んだ。妹ちゃん、なんていい加減呼ばないでほしい。兄とは相変わらずギクシャクしているし、ここには「僕たちが家族になる日が楽しみだね」なんて、からかいを純粋さで壊してしまう彼ももういないのだ。

「大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」

私は顔を上げた。燐音さんは悲しそうに私を見ている。その視線は、一彩くんよりも痛くなかった。
気が動転して余計なことを考えてしまった。ちゃんと、彼が私の元へ来た理由を説明しなければ。

「私の我儘なんて聞かなくていいのに」

彼は死んだあと、約束を破った罪滅ぼしとして骨になってもここに来たのだ。『わたしのきみでいて』なんて言葉を、彼は律儀に覚えていた。
誠実な人だ。そういう人だ。私と彼が出会ってから、彼はずっとそうだった。

「一彩くんは私の願いを叶えようとしたんです」

彼と私の話を聞いた燐音さんは、もう随分とぬるくなっているはずのお茶で喉を潤した。言葉に悩んでいるような、それでいて少し微笑ましそうな。そんな顔を燐音さんはしていた。

「……妹ちゃんは一彩が叶えられると思ってその約束をしたと思ってんの?」
「……何を……一彩くんは叶えられない約束をするようなひとではないでしょう」

私が首を傾げたのを見て、燐音さんはいよいよ笑った。淋しい、懐かしい、可愛らしい、そういう表情をしていた。これを兄の愛だと言うのならば、どうしようもない。
彼の笑い声には、涙の音がしていたから。

「一彩だって好きなオンナノコには見栄を張りたくなるっしょ」
「は?」
「約束は守れないことなんて一彩も分かってたっしょ。ソレは罪滅しじゃなくて、妹ちゃんと一緒にいたいってコトだろ」

一彩、妹ちゃんのこと好きだったもんなァ。そう続いた言葉が鼓膜を上滑りする。
それから数分は燐音さんと言葉を交わしたはずなのに、会話の内容を覚えていない。
ただ燐音さんも私も胸が痛くて、それでも燐音さんはほんの少し嬉しそうな顔をしたままだった。

「可愛い弟にそうまでするくらい好きな人ができたなら、嬉しくもなるってもんだよ」

んじゃ、俺っちは用事があっから、とかそういうような言葉を言ってあの人は私たちの家を後にした。
部屋に残ったのは私には理解が及ばない兄弟愛と、知らない一彩くんへの動揺だ。

「——————」

壺を持ち上げて、抱える。自分の腕に収まってしまうのが嫌で、うずくまる。
溢れた涙が頬を冷やしていく。そうやって私が体温を失うせいで、腕の中の彼一つ温めてあげられない。
悲しい。淋しい。一人は嫌だ。この期に及んで、君が愛おしい。
良くないことだと分かっていて、壺の蓋を開けた。

「きれい」

私は自分からこぼれた言葉が理解できず、口元を手で覆う。涙で彼が濡れて欲しくなくて、直ぐに私は蓋を閉めた。
どこまでもただしい彼が怖かったはずなのだ。どこまでもまぶしい彼が好きだったはずなのだ。
それが霞んでしまっても、こんなに心臓が痛むことなんてありえないはずなのに。
叶わない約束を叶わないと知ったまま交わした彼が、ずっと私の心臓を動かしている。

「あ、———、ぁ……」

約束が果たされなくても、ものを言わなくなっても、身体がなくなっても綺麗だと思った。
正しくなくても、約束が嘘になってしまっても、彼がただの男の子でも、私の涙を許してくれた彼の腕の中が恋しい。否、そんなものなくたっていいから、きみに会いたい。私に何もくれないきみでも好きだ。何を差し引いても、好きな一彩くんが何一つ減ることはない。
「生きているだけじゃ足りない」なんて大嘘だ。そんな我儘を許してくれる一彩くんが愛おしくて、温かくて、まだ温かいままで。
きみを愛していた。
正しくなくても好きだ。分かりにくい見栄を張って、それにかこつけてこんな形で私のものになったきみも好きだ。
きみが好きだ。

「ばか」

一彩くんは賢いのか馬鹿なのかわからない。私の言葉の真意を、汲んでいるようで汲めていない。わたしのでいて、なんて我儘は、たったひとつの望みしか指さないはずなのだ。

「一緒に生きたかっただけだよ」

音が転がって、パラパラと散る心地がした。
綺麗だね、と私の言葉をキラキラ光るビー玉みたいに拾い集めてくれたひとはだんまりを決め込んでいる。
そこで初めて、私は彼がいないことに気が付いたのだった。