春の夜



行きましょう、といかにも親しそうに耳打ちして皐の手を引く。
自分たちの接触に積極的ではない皐の手が震えていることに気が付いて離そうとした巽の手を、皐が握り直した。
長い髪を括り、伊達眼鏡をかける。ユニセックスのキャップを変装について疎い巽に被せた後も、皐は巽の手を握った。
いや、正確には握り直そうとした自分に気が付いて引っ込めようとしたのを強引に巽が繋ぎ直したのだ。隠そうとするが、皐は親が子供にしてやるような行為が好きだったし、巽はそれを知っていた。


「たっつーさあ、自分の人生質に入れてまで助けないでよ」

愛することと身を削ることは違うよ。噂になったらどうすんの。もうなってんのかなあ。
自分よりもやや低い位置からの言葉を巽は聞く。

「俳優は良いよ。でもたっつーはアイドルじゃん。それに、『ユニット』のあの人たちにも迷惑がかかる」
「ALKALOIDは、俺たちの友愛ひとつで壊れてしまうような『ユニット』ではありませんよ。それに、あなたがあのままでいる方が俺にとっては問題でしたし」
「……月見さんに言えばちゃんと帰れたよ」
「いえ、それはないでしょう。皐さんは月見さんが今忙殺されているのを知っていてこういう相談をできる人ではないことくらい知っています」

レガリアは俳優である月見陸が運営している。新興の事務所ではないものの、どれだけのキャリアがあったとしても月見陸という人間はまだ若い。下手に他事務所、しかも年長とのトラブルが起きれば彼女も危うい立場になるかもしれない。そんな状況下で相談をするという選択肢を皐が持ち得ないのは明らかだった。

「たっつーってさ、」

傘みたいだよね、と皐は悲しそうに笑う。
巽はとても「良い傘」で、劣化することが分かっているくせに、雨に打たれる以外の選択肢を知らないのは痛ましいと。
俳優としての役への共感力からなのか、ただ巽の在り方に対して起こってしまったものなのか、皐は巽の手を強く握って、「私も愛してるよ」と、いつもは憚る台詞を吐いた。
巽は自分の経験してきたものは苦みであってあなたが感じているような痛みではなかったと、そう弁明しようとしたのに言葉は出なかった。皐の言葉は自分の何かをとらえ、それをまるで「本当にあった傷」であるかのように巽に錯覚させる。
酒など飲んでいないうえ、頬が熱いわけでもないのに風がふと強く吹いて皐の髪を揺らす。それを見て巽は自分の髪も風に吹かれていることに気が付いた。

「わ、風」
「——————」

四月の夜風はまだ冷たく、かと言って散ってゆく桜の花びらを交えようにもそんな儚さはここにない。ただ何かが満たされる感覚だけが漠然と二人の間に存在している。優しくはない何かが。
ふと、巽は思う。
自分の痛覚に足りない物があるのだとして、きっと彼女はこれからも自分の落とした傷を拾い集め、彼女自身につけることで巽に自覚させるのだろう。こんなに雨に打たれているくせに、と。
似た物同士なのだ、きっと自分達は。

「……皐さんも傘みたいですよ」
「私はたっつーにだけだよ」
「知ってますよ」
「分かってんのかなあマジで」

皐の変装は完璧で、先ほどの通り簡素なものだとしても、ほんの少し演技で包んでしまえば誰一人振り返らない。
自身も分かり難くはなっているつもりではあったが、もしも誰かに見られたとして矢面に立つのは自分であると巽は分かっていた。

「駐車場、どこですか?」
「商店街抜けたとこ。現場の近くになくてさ。たっつーも送るよ」
「いえ、俺は」
「ちょっとドライブしたいんだよね。たっつー、私のドライビングテクニック見てよ」
「ドリフトでもするつもりですか?」
「ドライバーみんながたっつーみたいな奴だと思うなよ」

ドラマとかでならその運転活かせたりするのかな、と皐は難しい顔をしながら呟く。皐はこんなことを言いながら、何度か巽の助手席に座ってはナビをしている『物好き(藍良談)』だった。
運転をしているたっつーの横顔が好きだ、と笑った顔を巽は今も忘れることなく覚えている。
皐から見て、巽は楽しそうに運転をするように見えるらしい。実際に巽は楽しんで運転をしているのだが、人に言われると何故か照れ臭さがあった。

「今度は俺が運転しましょう」
「あと一ヶ月は待って欲しいな!!」
「ふふ。冗談です。その時にはどこへ行きましょうか?」
「たっつーはどこが良い?」
「俺はどこでも良いですよ。皐さんは行きたいところ、ないんですか?」

ふむ、と皐は唇に手を寄せて考える素振りをした。
そうしてから悪戯っ子のように笑い、口を開く。

「週刊誌に撮られなさそうなところ」
「何ですか、それ?」
「撮られたら困ることしたいなって」
「はい?」
「よし行こう、海だ」
「いかにも撮られそうですな」
「車飛ばして撒くよ」
「捕まらないように気を付けてくださいね」
「たっつーじゃないからね本当に」

重そうな厚底をものともせず、皐はコンクリートと共に音を鳴らして歩く。弾むような音をしていた。
スキップしたい、と子供のような理由で手を解いた皐は上機嫌に見えた。

「手、握ったままにしてごめんね」
「……?別に謝ることでもないでしょう、俺からしたことですし」
「アイドルなんだからって言いながら手握ってるのはおかしいじゃん」
「そんな理由で震えている手を離すつもりはありませんが……」
「それが良くないって言ってるんだけど」

話聞いてるのに内容入ってないよね、やっぱ。
そう言ってわざとらしくかぶりを振る皐に巽は笑おうとしたが、次に放たれた何でもない言葉に口を噤む。

「でも、そういうとこ素敵だと思うよ。たっつーの悪いところは、素敵なところの裏返しだから」

要は、その何でもない言葉が変に心地好いものだっただけの話だ。
「仕方ない子」を孕んだ、母のような。けれどもスキップで進む姿は、気が付けば置いていかれてしまう春の風のような。

「自分で自分を守ってあげられないならそれでもまだ良いかもね。今日の巽くんみたいに、勝手に助ける人もいるだろうし」

気が付けば駐車場まであと十数歩。街から少し離れ、空き地が目立つ場所には桜など植えられてはいない。
けれど。ああ、春だ、と。

「いなかったときには、私がいるし」

巽にはこれを言語化する気が起きなかった。起こす必要がなかった。
現に皐が自分の顔を覗こうとして、少し固まるくらいの異常しか彼には起きていない。

「……たっつー?ヤバ、変に語っちゃったから引いた?」
「———まさか。嬉しいですよ。皐さんの言葉はいつも不思議だと思っていただけです」
「引いてない?」
「引いてませんよ」
「良かった。じゃあ帰ろ。助手席、乗って?」

言葉の裏側くらい簡単に見つけてしまえる天才俳優は、巽の言葉を分解しない。それは現在の二人にとって正しい。
過干渉になるたびに少し後悔して、その干渉の優しさに呆れ返る。これが愛だというならば、きっとそうだと互いに肯定できた。

「くれぐれも安全運転で」
「よく言う〜」

自動車のエンジンがかかる。車内特有のにおいの中には不快感はない。
ルームミラーにぶら下げられたストラップには統一性が見えず、ふらふらと揺れていた。
巽は皐の横顔を見る。楽しそう、よりも先に何かがあった。
巽はフロントガラスに視線を戻す。特に何か言うことはなかった。

「———♪」

沈黙は苦ではない。巽が寝ていると勘違いした皐がいずれ鼻歌を歌い出すことは予想できたし、そのときにはそっと混ざろうという算段もあった。
予想外れだったことは、これから始まる沈黙があまりにも心地好過ぎたことくらいだ。
そう言ってしまえる程度には、完璧な春の夜が巽の隣にはあった。それくらいには、手放しておきたい春だった。