夜の前

「何してんの?」

随分と眩しい奴がいたもんだと思った。
天気は快晴、五時間目のチャイムが鳴った昼下がり。まだ小学生だったあいつに、保健室の掃き出し窓からカーテン越しに声をかけられた。

「熱?」
「ない」
「腹痛いの?」
「別に」
「サボり?」
「……まあ……」
「ゲームまで持ってきてるもんな」
「は?なんで分かるんだよ」
「音聞こえたから」
「イヤホンでやってるのに?」
「イヤホンまで用意してんの?うける」

俺耳良いから分かるんだよね、と弾む声の主はカーテンに手をかける。かけただけで、予想外にも俺の許可を待っていた。

「開けて良い?」
「好きにしていいよ」
「ありがと!あと包帯巻ける?」
「は?包帯?」
「先生呼びに行くのもちょっとキツいし、お前もゲームしたいでしょ?」

シャッと開けられたカーテン。仕方なく携帯ゲーム機から顔を上げると、真っ赤な手首と大きく擦りむいた膝を意にも介さないという様子で男子生徒は立っていた。

「いじめられてんの?君」
「いじめ?まさか!サッカーで転んで手首までひねって、酷い目にあっただけだよ」
「ドジか」
「口悪!」
「ほら、消毒するから足台に乗せろ」
「いたい」
「今のうちに訪問票書いとけよ」
「はーい……五年三組、と……」
「年下かよ」
「え?六年?敬語使わなきゃじゃん」
「別にいらないけどな」

消毒液が染みて顔をしかめた下級生は「ならいっか」と笑って鉛筆を走らせた。初めてまともに顔を見てみると、菫色に青空を混ぜたような瞳をしていた。
名前を「すみれ」と言うらしい奴にとって、似合う色をしていると思った記憶がある。

「君の名前は?」
「言う必要あんの」
「上級生だからって強気に出てない?」
「いつもこれだよ。だから嫌われてる」
「ふーん」

名前を聞いた割に俺の発言に興味なさげな反応をして、澄礼は俺のゲーム機を開いた。

「おい何してんだ」
「プレイヤー名は……『Ryu』……りゅーくんだね!覚えた!本名で合ってる?」
「合ってる、合ってるから閉じろ!下手に触んな!セーブしてねえから下手に操作すんな!」
「え、あ、ごめん」
「あ、いや……いいよ。ほら、手首やるから手出して」

一気に静かになった部屋に氷嚢に氷を入れる音だけが響いた。
俺はこうやってコミュニケーションを間違えて、いつの間にか一人になっていた。今でも若干のトラウマとなってこの記憶は残っている。
『だから君はダメなんだから』
それをいつ言われたのかも、もはや覚えていない。ただ、かつての俺には恐ろしい呪いだったその言葉に脳内を支配されて、手が震えた。

「どしたの、りゅーくん。りゅーくんもどっか痛い?」
「いたくない」
「そっか。俺、包帯抑えとくから巻いてくれない?」
「うん。ごめん」
「謝んないでよ。俺が悪いのに」
「おれ、愛想悪いから」
「俺なんかスイッチ入れちゃった?」

俺何も君のこと知らないよ、とまたしても澄礼は笑った。こうなりたいと憧れた人間像をした笑顔が、心底気持ち悪かった。

「巻くの上手いね」
「器用なくらいしか取り得ないからな」
「一褒めたら一ネガティブが返って来るのおかしいって」
「黙ってろ」
「はいはい。でも今、黙ってろって言っちゃったの後悔してるでしょ」
「…………」

まあ、澄礼はこういう奴だった。簡単に人を見透かして、簡単に懐に入り込む。
図星であることが分かったのか、澄礼は微笑みながら鼻歌を歌った。当時大人気だったというアイドルの曲で、流行り物が苦手だった俺はまたひとつ壁を張った。

「できた」
「ありがと!」
「氷嚢忘れんなよ」
「うん。りゅーくんはいつもここいんの?」
「いつも……は……」
「いつもいるんだ。じゃあまた来るね。今度は俺もゲーム持って来るから」
「は?」
「マルチしようよ。そのゲームやってる奴、友だちにいなかったんだよね」

偽善者という言葉を知っているだろうか。俺は少なくとも、「善人」よりはずっとその言葉を信じて生きてきた。そうでもなければ俺の境遇がただ運が悪いものだったのだと証明される気がして怖かった。
ただの笑い話だ。俺は次の日も教室から逃げるようにして保健室にいて、同じゲーム機、同じソフトを持ってくることになる。

「やっほー、りゅーくん。やろっか」
「ランクは?」
「俺?俺はA」
「おお」
「思ったより高かったでしょ」
「まあ俺はSだけど」
「うわ!絶対勝つから」
「とりあえず今日は俺がお前助けるよ」
「くっそ。サンキュ」

ちなみにこの日から三ヶ月が経つころに澄礼は俺のランクを追い越すことになる。
そしてその後、俺が中学三年生になる頃、澄礼が中学二年生になる春までこの関係は続いた。
この頃にはゲームセンターの筐体にまで手を出すようになっていて、ちょっとした有名人扱いまで受けた。
中学生になっても相変わらず真っ直ぐな笑顔を見せる澄礼の解れにも気が付かず、ただ何も知らないまま救われていた。

「俺さあ、アイドルなりたいんだよね」
「アイドル!?」
「え、そんな驚く?」
「いやそんな素振りなかっただろ、お前」
「そう?俺歌上手いし運動神経良いから向いてると思うんだよね」
「自信無尽蔵か」
「俺の美点だよ」
「まあ確かに……あー……」
「?どうしたの、りゅーくん」
「進路別れんなあって」
「確かにゲーセンは行きにくくなるなあ」

そんな会話をした。
俺が中学生三年生の秋。澄礼の家が澄礼の母によって放火される、昨日の会話だ。