血も透明だったら良いのにね

透明な色をしている。
水のように形を変え、温度を変え、簡単に居場所をつくり、折れた骨にも気が付かないまま生きている。
そんな生き方を天才と呼んだのならば、どんなに。


「皐さん」
「あ、巽くん」

叢咲皐が子供になった。
理由は不明。これが明晰夢であるとするならば、そちらの方が上手く説明がつく。

「巽くん、迎えに来てくれたの?」
「はい。ご友人はできましたか?」
「うん。私、そういうの得意だから」
「……そうなんですか?」
「うん。ちょっと面倒臭いけど、簡単だよ」

皐さんの腕が疲れないように、少しかがんで手を繋ぐ。
その背ばかりでなく、話し方も人間関係の構築も、何もかもが俺の知る彼女とはかけ離れている。
「聡いこども」を、もっと人が望むままに改良したような、そういう少女。それが今ここにいる皐さんだった。

「巽くん、今日はどんなお仕事したの?」
「今日は雑誌の撮影をしましたな」
「そっか、アイドルってそういうこともするんだ」

私は上手くできるかなあ、と皐さんが呟く。アイドルになるという決められた将来を信じて疑っていない様子だった。

「雑誌、出たら見せてくれる?」
「ええ。良いですよ」
「やったあ」

首肯すると、皐さんはブンブンと繋いだ手を振った。振ってから、後悔したかのように「ごめんなさい」と謝る。

「謝るようなこと、してませんよ?」
「そ、そう?」
「はい、そうですよ」

安心させるように皐さんの手を軽く振り返す。皐さんは鈴の音を転がすように笑った。

「ずっと友だちとこうやってみたかったの」
「では、今日はこうして帰りましょうか」
「巽くんもしたかったの?」
「え?いえ…………まあ、そうですな?」
「おんなじだ」

皐さんは上機嫌で手を振るのを再開させる。俺もその幼い揺れに合わせて手を振り、歩いた。
この生活がいつまで続くのかは、未だ分からない。


「巽くんは、どんな私が良い?」

この不思議な生活で一つ分かったことがある。
皐さんは眠る前に不安になるらしく、一人で眠ることを怖がる。
布団に寝かせると、概ね大人びた少女に残る子供らしさがここに集積しているかのように口数が増え、よく笑う。
俺にとってその感覚は少し親しみがあったから、かつてそうしてもらいたかった記憶を手繰り寄せて皐さんを寝かしつけることを繰り返している。
小さくなっても、俺の根底にあるものを地表にまで連れ出すことが皐さんは上手かった。


「俺は皐さんが皐さんでいられるなら、何も望みませんよ」
「……そうなの?」
「はい」
「……気持ち悪い事言うんだね、巽くん」
「あはは……手厳しいですな」
「嫌いになる?」
「いいえ?」
「あいしてくれる?」

たどたどしい口調で、皐さんはそう尋ねる。この生活を始めてから何度もされた質問だった。
愛されない自分に意味などない。そう刷り込まれて育ったと、十九歳の彼女は言っていた。
愛されたいことと、愛されなければいけないことはずっと違う。愛することと愛したいことと同じくらいにはかけ離れた概念だ。
それら全てがこの小さな彼女の中で混ざり合い、才能を創り、膿を造った。
きっと彼女にかけるべき正しい言葉などは無く、だから同じ言葉を繰り返すことが一番やさしい触れ方なのだろう、と思う。

「はい。皐さんのことを愛していますよ」
「気持ち悪いよ。嘘つき」
「嘘ではありませんよ」
「嘘つき、嘘つき」
「……嘘つきの方が、良いですかな」
「……うん。ごめんなさい、巽くん。ごめんなさい」
「目を擦ると腫れますよ」
「うん……」

自分の目を擦る皐さんの手をやんわりと止め、指先で涙を掬う。山吹色をした双眸が揺れ、俺をとらえた。目が離せない、という言葉はまさにこういうときに使うのだろう。十年もすればどんな人間すらも取り込むようになる硝子玉の奥に、かつての自分が映った気がした。
こんな風に泣いたことはない。こんな風に、人にあやされたことも、また。だというのに何故。

「……巽くん」
「!すみません、」
「巽くんもおんなじなんだね」
「同じ、とは……」
「おんなじところが痛いんだね」

嬉しいな、と小さな手が俺の頬に触れる。心底嬉しそうな子どもの笑顔が、涙を包んできらきらとにぶくかがやいた。
泣き疲れたのか、少し微睡みながら放たれた言葉に俺はフリーズする。
同じところが痛い。その言葉の意味がうまく飲み込めない。きっと隠された意図などない、ただ文字通りの意味しか持たないであろうそのセリフを噛み砕こうとする。

「腫れちゃうかな、目」
「冷やすものを持ってきますよ」
「ううん。ここにいて」

きゅっと離すまいと服を皐さんが掴む。俺にはその理由が分かる気がした。

「心配されたいから、いかないで」

俺と彼女は他人だ。アイドルも俳優も関係のない場所で偶然出会っただけの他人。因縁などなく、ただそこにあるだけの縁。何故それが繋がっているのか俺たち二人には分かっていなかった。
ただ縁が切れなければ良いと心のどこかで思い、だからそのための努力をする。放っておけば直ぐに切れる糸に、ほんの少しの期待をかける。手繰り寄せて守る。
そうしたい理由はここにあるのだと気が付いてしまった。

「どこにも行きませんよ」

傷の舐め合いなのだろうか。昔そんな傷もあったね、と彼女ならば言ってしまいそうだと思う。
同じ他人の中の自分が愛されるものでなくなってしまったならどうしようと、そればかりを考える夜があった。
ひとりが怖い。憎まれたくない。嫌われたくない。
俺にとっての「それ」が、彼女には愛以外の全てであっただけ。
愛されない自分を殺し、望まれた生き物に成る。そうすれば、少なくとも自分のどこかは愛される。これが天才俳優のはじまりなのだとすれば、あの彼女は何千何万の自身の屍の上に立っていたのだろうか。

「たつみくん、やっぱりおかしいよ」
「そんなに言わなくても……」
「たつみくんがそんなにかんたんにあいしちゃったらさ、わたし、なんでいままでないてたの」
「……」

震える声とは裏腹に皐さんは涙を流さなかった。流すことが悔しいのかもしれない。
ストレートの、染められる前のさらに色素の薄い髪を乱さないように頭を撫でた。
この髪色もいつか彼女が捨てたものなのだろう。俺と出会った頃の皐さんにはきっと元来備わっていた彼女本来の気質というものが失われていて、上塗りをするように「キャラ」として纏まるように外見だけでも繕った。

「わたしががんばったの、ひつようなかったみたいでこわい」
「いいえ。決して無駄でも、不必要でも無いはずです」
「わたし、なにになるのかな。みんな、こんななきむしのことわすれちゃう?」
「俺が覚えていますよ」
「うん……」

おおよそ、小学校低学年ほどの少女のする生き方ではない。それを言えば「たっつーに言われたくないよ」とでも返されるのが見えている。
鉛筆や消しゴムをかけすぎた紙は汚れ、いずれ使い物にならなくなる。彼女は「そういうこと」が起き、一度この幼い時分に繋がらなくなった。
他人にも近いこの少女と彼女を同じ道の上に立たせているものは、きっと。

「たつみくんもいたいとき、ある?」
「はい。昔はありました」
「もうない?」
「仲間に怒られてしまったので」
「………なあんだ……」

わたしもおこられたいなあ。その言葉を最後に、皐さんは重そうにしていた瞼を下ろして寝息を立て始める。
聡い子どもだったとはいえ、ベッドに入って長時間会話をするというのには無理があったのだろう。
本人が覚えているのかも分からない傷口が伝播して、ささやかな痛みとして俺の心臓を刺す。毒のよう、とは形容したくなかった。ただ何かが滲んで痛いだけだと言いたかった。
正常な呼吸をしていては追いつかない生き方をしていた。酸素が足りないことすらも無視して壊れた後に出会った俺たちは、世界一近い場所にいた他人だった。

「皐さん」

酷い言葉であるという自覚がある。

「痛みだけは、『きみ』しか持ち得ませんよ」

眠っている人間に言っても意味がないこともまた、分かっている。
けれど、傷痕の上に立つあなたと俺は友人になったから。
俺は、俺の友人がうつくしいひとだと知っているから。