祈りの話

※パラレル

「え」

あれだ。あの少年少女が冒険を繰り広げる映画の、「空から女の子が!」という有名なセリフ。あの現実感を伴わない言葉にも、今ならば魂を込められる。

降ってきたのだ。言葉の通り、天から、人が。
どう考えても重力を無視した緩やかな落下。私よりも背の高い青年がコンクリートに着地するのを防ぐため、私はとっさに受け止めた。


———とまあ、私と彼の出会いは濃い割に短い。
謎の男(巽と言うらしい。あだ名で呼んだら喜ばれたのでそのままたっつーと呼んでいる。)は一応売れているはずの私を知らず、というかそもそも現代日本をよく知らず、警察に出してもどうしようもなさそうな状態であった。
そのくせあまりにも善良なおかげで、外へ一人で出すにも謎の罪悪感が芽生える。私は何も関係がないのに。
いずれ帰る、という何ともアバウトな台詞も相まって、まあいいかと居候させることにしたのだ。
そして今。

「皐さん、おかえりなさい」
「寛いでるなあ」

いつの間にやら整頓されてピカピカになったリビング。その中央に置かれたソファに座り、現代のかぐやはテレビを見ていた。テーブルには飲みなれたほうじ茶のポットとマグカップが置かれている。
迷惑をかけてしまうのでは、などと言っていた時はとうに過去となったようである。
いまいちイケメンを「飼っている」感が否めないことだけは何とも言えないけれど、もうそれは仕方がない。たっつーは空から降ってきたのだから、仕方がないのだ。

「足、今日は特に痛む感じ?」
「ええ、はい……出かけるなら俺に構わず行ってくださって良いですよ」
「いや、たっつーのためのお買い物しようと思ってただけだから別の日にする」
「俺の?」
「うん。服とか買おうと思って」
「お気遣いなく。居候させてもらえるだけで十分ですから」
「はいはい。私がたっつーとお出かけしたいから、付いてきて」
「……そう言われてしまうと断れませんな」
「言われなくても承諾してよ」

バリ、とカウンターの上に置いてあるポテトチップスの袋を開けると、たっつーもそれに手を伸ばした。最近知ったが、普通にジャンキーなものも好きらしい。

「何見てたの?」
「皐さんが出ている映画を」
「……」
「嫌でしたか?」
「恥ずかしいだけ」
「演技、やはり上手ですね」
「そりゃね」

少し大きいのテレビの中では、主人公が海外へ飛び立とうとするヒロインを呼び止める……いわゆるクライマックスシーンが流れていた。
天才ピアニストのヒロインは恋ではなく夢を選んだ。そして主人公もその背中を押した。引き止めてしまわないように多くの会話を交わすことはなく、告白することもなく。
ここのシーンの演技は難しかった記憶がある。私がどれだけ『彼女』になれるとしても、結局は私の持つものを分解して再構築しているだけだから。夢を選ぶ気持ちは理解できた。ただ、引き留めてほしいと願う気持ちだけがよく分からず、他の感覚で代用したのだ。

「切ないですな」
「うん。でも、ちょっと面倒くさくない?」
「面倒くさい、とは?」
「決意を揺らされたくないのに、引き留められたがってるの」
「ふむ……俺にもその説明が上手く出来ませんが……要は、それが恋なのでしょうな」
「たっつー恋人いないの?」
「もしいれば流石に皐さんの家にお世話にはなれません」
「確かに……そのときはまた他のひとのとこ落下し直すの?」
「何度も言いますが、俺にはそのときの記憶がないので……」
「すごかったよ、ラピ*タみたいで」
「らぴ*た……?」

次はそれ見よっか、とDVDを置いた棚をあさりだす私をたっつーが覗き込む。

「あった」
「わっ」
「あっごめん」

鈍い音がして、頭に痛みが走る。私と十センチ弱の身長差があるたっつーは、かがむとちょうど私の頭が彼の顎にぶつかる。既に何回かやらかした。
他人との共同生活を長いことしていなかったからだろうか、すぐ近くに人がいるというのが変な感覚だ。

「沢山ありますな」
「映画はたくさん集めたからね。物置部屋にはもっとあるよ」
「ああ、あそこですか。埃が溜まっていたので掃除しておきましたよ」
「家政夫さんじゃん。ありがとう」
「居候ですから」
「外出かけても良いのに。着替え買ったし」
「それは……」
「怖い?」
「いえ、怖いわけではないんです」
「そっか」

じゃあ二人でいるときは映画見よ、と言うとたっつーは満足そうに笑った。


たっつーが来てから一ヵ月ほど経過して、見た映画が二十本に差し掛かるというところでの会話だった。

「ずっと思っていたんですが……人間の方々は、果たせない約束が好きなんですか?」
「果たせない約束っていうか……こういうのは祈りって言うんだよ」
「祈り、ですか」
「あれ、月にはお祈りとかないの?たっつーが毎朝してるアレもその一種のはずなんだけど」
「ありますよ。けれど、長い時間をかけて形骸化してしまったんです。俺のはもう、習慣みたいなもので」
「ふーん。月の人って、やっぱり人間離れしてるのかな。形骸化ってことは昔は祈る理由もあったんだろうし、根っこは似てる気がするんだけど」

私はスマホで「祈り」を検索する。いつも通り狭いソファで隣に座るたっつーは、これまたいつも通りに端末を覗き込んだ。

「あった。えっと……『幸いを希う』だって」
「幸いを……ですか」
「たっつーに似合うね」
「ふふ……俺はそんな言葉が似合う人間ではないんですが」
「そうかなあ」
「ええ、そうですよ」

たっつーは、きっと善いひとだ。偽善だなんだとこの世の中では叩かれそうだけれど、心の底から他人の幸せを喜ぶし、願えるようなひとだと思う。

「……ああ、確かに」
「?」
「たっつー、自分の幸せを願わないもんね」

ほんの少し、世界がスローモーションになる気がした。たっつーは今までで一番困った顔をして、痛いところを突かれましたなと笑った。笑っただけで、改善される予感はない。
ああ、だから月から落ちたのかな、とふと気が付く。だとしたら、なんて。


たっつーの口、大きいな。
全日本人が愛する料理が彼の口へ運ばれ、消えていく。

「これ好き?」
「はい。こちらに来てからでは一番かもしれませんな」
「レトルトで良かったんかい」

関西出身でもないのに関西弁が出た。美味しいかい、そうかいそうかい。
CM出演の際に企業からもらったレトルトカレー。味が濃いものが好きなたっつーにポンと出してみたらこれである。
もぐもぐとちょっと良いレトルトカレーを頬張るたっつーのお皿に福神漬けを乗せる。
月の人って舌肥えてそうだな、という偏見が今砕け散った。いや、企業努力の賜物なのは分かっているけれども。

「美味しい?」
「ええ、とても」
「食べるの早いね」
「ああ、多忙だった頃についた癖で……もう忙しくないというのに、習慣は抜けませんな」
「たっつー向こうでは忙しい人なんだ……」
「昔の話です。俺からすれば、俺の面倒を見ている皐さんのほうが忙しそうに見えます」
「人気俳優だからね」
「ええ。俺も皐さんの演技が好きです」
「え、ありがとう」

手にはスプーン、綺麗に食べられたおかげで米一粒も残っていない皿。私を見て覚えたのか、たっつーは「ご馳走様でした」と手を合わせる。それが何だかおもしろく、「撮っても良い?」と尋ねると、よく分かっていないらしい彼は許可をくれた。よくわからないくせに許可を出すんじゃない。
カシャ、とスマホで一枚。スマホが気になったらしいたっつーはよくわからないなりに、私のスマホで私を撮った。
後に知るのだが、こういう時はツーショットを撮るものらしい。もちろん当時の私たちがそんなことを知るはずはないので、ブレッブレの私の写真と月人ブロックがかかったらしいホラー画像が私のカメラロールに鎮座することになる。
カメラ写りが悪いなんてレベルではないそれを見て笑う私を見て、たっつーは眉を下げて笑った。

「たっつー、アイドルとかにいたら売れてると思うんだけどなあ」
「あいどる?」
「うん。歌って踊ったり、私みたいに俳優をしたり、活動が沢山ある仕事」
「ああ、月にも似たようなものがあります。というか、俺はそれをしていましたし」
「月にアイドルが……」
「月にはこちらほど娯楽がないので、かなり人気なんですよ」
「へえ……案外俗っぽいんだね。行こっかな、月」
「来れるんですか?」
「お金貯めたら行けるかも」
「ふふ、そのときは案内しますよ」
「うん。約束」
「……はい」

頭の中で、一人舞台に立つたっつーを想像してみる。ああ、確かに似合う。似合うけれども。
しっくりと来たことを伝えれば、たっつーは相変わらず苦々しいといった顔で笑う。
何が彼にあったのか、私は知らない。そのくせに何故だか「何も分かってないな」と思い、綺麗な顔を軽くつまんだ。

「な、なんですか?」
「たっつー、一人も似合うけどさ、」

一人が似合うのは、淋しい。
そう言いかけた私をもう一人の私が「余計なお世話」だと引き止めて、それ以上言葉が続くことは無かった。


夢を見た。
綺麗な鳥が、大きな荷を背負って翔んで、嵐を抜けて、近付いた太陽の熱で荷から孵化した雛に翼を折られる夢。
イカロスなんてものじゃなく、もっと悲痛な。
私はこの鳥を知っている。
何で、この鳥は墜ちながら雛鳥に謝っているのだろう。何で怒らないのだろう。あの映画のヒロインよりも、感情が分からない。少なくとも今の私ではこの鳥になれないな、ということしか。

「えっ」

鳥が私の方を向く。向くというか、もう落下だ。あのときのたっつーみたいに。

「皐さん」

思いの外柔らかく腕の中に鳥は収まった。
翼に触れて直してやるべきなのか、痛みを感じさせないように触れずにいるべきなのか分からない。
分からないのに、私は気がつけばその翼に触れていて、いつの間にか現れていた包帯を巻いていた。そうして、何故か「大丈夫だよ」と無責任に言っている。何が大丈夫だというのか。
いや、この鳥は分からないけれど、彼はきっと大丈夫で。何を以てかはこれまた分からないけれど。

「皐さん」
「大丈夫だよ、あなたは」
「皐さん、起きてください」
「え」

ぱっと目が開いた。目の前にはたっつーの顔。どうしてこんなことになっているのかは簡単に説明がつく。私が掴んでいるのだ。彼の手首を。

「あ〜…………おはよう」
「はい。おはようございます。朝食ができましたよ」
「うう……毎朝ありがとう……」

トーストの匂いとたっつーの声に釣られ、もそもそとベッドから起き上がる。
先ほどまで見ていた夢は何だったのだろうか。たっつーのことを考えすぎて見た夢だとしたら恥ずかしい。
恋みたいである。あんなに顔が近くなっても動悸ひとつなかったというのに。

「帰ります」
「オッ……?」
「さ、皐さん、大丈夫ですか?」

大丈夫ではない。麦茶が思いっきり気管に入った。咳が止まらない。

「帰るの?」
「はい」
「そっか。じゃあ美味しいもの食べに行こっか」
「いえ、俺は……」
「あ、外嫌なんだっけごめん」
「皐さんが良いのなら」
「スキャンダルってこと?」
「まあ……有体に言えばそうですな」

帰る当日にそんなこと心配しないで欲しい、と言うとたっつーは「立つ鳥跡を濁さずと言いますから」と何でもないように言った。少しは濁して帰って欲しい。淋しいから。
そして簡単に支度をして、外へ出た。昼食で何かがあったわけでもないので割愛するが、一人で外に出たがらなかったのは「家で待っていれば皐さんと会話できる時間が増えるので」、らしい。
可愛い奴め、という言葉を喉元でおさめた。


夜、叢咲家のリビング。
帰宅してたっつーの荷物をまとめてみれば、あまりにも少ない。それはほんの少し空しい。

「たっつーが落ちてきたときに着てきた服、傷んだりしてないよね」
「はい。ファブりました」
「管理マジでそれで良いの……?」
「変にしっかり洗濯してしまうのも怖いですから」
「それはそうだけども。あ、カレー持ってく?」
「遠慮しておきます」

お正月の親戚のおばちゃんと子供のようなやりとりだ。一つ違うとすれば、お互いもう会えないことを分かっていることくらいか。

「そもそも月に荷物って持ってけるわけ……?記念写真ホラーになるけど撮って……」
「皐さん」
「ん?」

テーブルの上に置いてあるスマホを撮りに行こうとするのを、たっつーが私の手首を掴んで制した。制したとは言っても、ごく小さな力だ。
たっつーは私の目を見ていた。

「あなたが」
「うん」
「あなたが幸福でいることを祈っています。帰っても、これから、ずっと」

重いな、と笑おうとしたのにできなかった。揺れる瞳が、染まった頬が、何よりも必死なすがたが、私をとらえた。
どうやら淋しいのは私だけではなかったようだ。いなくなる夜に教えないでくれないだろうか。私はもっと
後悔を噛み締めたいのだ。

「引き止められたいの?」
「少し」

そっか、と小さく返事をして、高い背に対し細い体をカーテンで隠れるようにキスをした。いつ迎えが来ても良いように。
彼が帰れないと困るから、抱きしめることはせず。唇を離すとたっつーは私を見つめたから、目が合わないように下を向いた。
なるほど、あの映画を撮る前にたっつーと逢っておくべきだった。
私の考えを知ってか知らずか、たっつーは私を抱きしめた。気遣いの甲斐は何処へやらである。

「私も祈ってるよ。たっつーが幸せであるように」
「俺は十分幸せですよ」
「……帰っちゃうからいうけどさあ、たっつーは仲間といる方がもっと似合うと思うよ」
「仲間?」
「そう。困難は分割せよって言うじゃん。それをできる人たち。きっといるよ」
「忠告ですか?」
「祈りだよ」

恋ではないと思う。私たちは運命の出逢いを果たしたが、運命の赤い糸というような何かではない気がするし、何よりも優しすぎた。記憶をなぞっても、きっと悲しくならない。前に演じた不特定多数の彼らの恋は、もっと痛かったから。
別れる苦痛に支配されない。いなくなった後に、ちゃんと淋しくなれる。それならば私たちの出逢いにも意味があったというものである。

「……皐さん」
「んー?」
「愛しています」
「うん。私も」

愛してるとか、月にもあるんだ。そう言いかけたけれど、きっと愛なんて案外どこにでも転がっているのだろうと納得した。だから私たちはこうやって繋がっていられるし、簡単に離れる。

「また会おうね。私、頑張って宇宙旅行行くから手引っ張って月まで案内してよ」
「本気だったんですか、あれ」
「たっつーは私のこと遊びだったんだ……」
「皐さん、演技ですよね」
「バレちゃった」

適当なことをいつも通りに宣って、一拍。目が合って、二人して笑った。

「皐さんが泣いていても拭えるように、袖は用意しておきましょうか」
「赤ちゃんじゃないからね?」
「ええ、」

よく知ってます。たっつーは今度は自分から唇を重ねた。柔らかいそれが私の唇を食んで、きゅっと抱きしめ直される。
なんでそう乞うような表情でキスをするのか。
ぽんぽんと背中を叩くと、たっつーは少し背を丸めた。唇を離し、こつんと額と額がくっつく。
しばらくそうしていると、ゆっくりと睡魔が襲ってくる。彼の痛めている足に負担をかけたくないのに、腕が離される様子はない。

「服は持って帰ってね。また来れるように」
「不老不死の薬は要りますか?」
「逢えないまま私が死にそうだったら届けに来て」
「ふふ、分かりました」

多分、たっつーは私にバイバイと言われたくないのだと思う。別れが本物になってしまう気がするから。
ならば応えてあげようじゃないか、と私も襲ってくる睡魔には対抗しなかった。

「おやすみなさい。では、また」

うん。それが良い。嘘じゃなくて、祈りだ。
明日目が覚めた時どうやって泣こうかな。ヤバ、もう泣きそうになってきた。解散解散。もう寝るしかない。
愛しそうに頬をなぞる指先にもまた会えるのだから。明日からもそういうふうに生きると決めたのだ。