虎穴に入る


※3期

今日やるべき事を終えた私はベッドに仰向けになっている。一日の疲労から睡魔に襲われていて今すぐにでも眠りにつきたい気持ちがあるものの、それを堪えて彼がやって来るのを待っている。シャワーを浴びると言って浴室に入ったのは二十分ほど前だからそろそろ上がってくるはずだ。起き上がれば少しは眠気と戦えるだろうか。そう考えてゆっくりと身体を起こしたのと同時に寝間着姿の彼が部屋に入ってきた。いつも一つに束ねられている少し長い髪は下ろされていて、濡れているようには見えない。いつの間に乾かしたのだろう。ドライヤーの音は聞こえなかったのに。ベッドに歩み寄ってくる彼をぼんやりと眺める。
「随分眠そうだな」
「ん……」
「寝る前に話したい事があるんだが」
「……どうしたの?」
ベッドの端に腰掛けた彼が右手で私の頬を撫でてきた。その手に頬を擦り寄せて、彼の話に耳を傾ける。仕事の話である予感がした。彼は僅かに視線を泳がせてから、ゆっくりと唇を動かした。
「明日からしばらくいないが、ちゃんと生活するんだぞ。野菜も残さずに食べるように」
「……え? なんで?」
「俺と須郷が教団に潜入する事になった」
予感は見事に的中した。誰が教団への潜入捜査を行うか何度か話し合ったが、決定はしていなかったはずだ。いつの間に決まったのだろう。眠気はどこかに吹っ飛んで、告げられた内容を受け止めようと努力したけど出来なかった。野菜のくだりは捨て置く。
「えっ、須郷さんの代わりに私が行く!」
「駄目だ」
反射的に立候補するとすぐに却下された。公安局で監視官として働いていた時よりもきちんと鍛えているので役に立つ自信はある。須郷さんより優れているとは言えないけど。潜入捜査は敵にバレたら命を奪われるか、拷問にかけられるかのどちらかだろう。そんな危険な任務に就く事を寝る前にさらりと言ってのけないでほしい。しかも同行させてくれないという嬉しくないおまけ付きだ。彼が直接教えてくれただけ良かったと思うしかないのか。他の人から聞かされていたら更にショックを受けたに違いない。
「そんなぁ……今までずっと一緒だったのに一人で寝るなんて無理……」
「……仕方ない」
我ながら情けない声で本音を晒す。彼とはもう長い付き合いだ。彼が執行官になって一年ほど経って付き合い始めたから、もう片手では数えられない年月を共にしている。どんなに過酷な出来事が起こってもやって来られたのは彼が側にいてくれたからだ。彼と一緒に眠る事は何よりの安らぎだった。それが当分の間失われる事になるなんて夢にも思わなかった。クリアだった彼の顔がぼやけて見える。違和感を確かめるために左手の指先で目尻に触れると、そこに雫が付着した。彼もその事に気付いたようで目を見開き、頬を撫でていた右手を私の頭にぽんと置いた。眉を下げて今度は私の頭を撫でた。行かないでという言葉が喉まで出かかったけど、それをぐっと押さえ込み、彼を見つめながら言葉を紡ぐ。
「……無茶しないでね」
「あぁ、名前のところに戻ると約束する」
涙が流れ落ちる前に手の甲で拭い取り、再びクリアに見える彼は微笑を浮かべている。彼が今まで約束を破った事はない。だから今回もきっと大丈夫。私は自分に出来る事をしよう。心の中で自分にそう言い聞かせて、明るい声で言葉を続ける。
「破ったら追い掛けるからね」
「それは困るな」
肩を竦めた彼は冗談ではないと理解してくれているだろうか。この言葉が現実にならないよう、彼が努力してくれる事を期待しよう。そして潜入捜査のために私に出来る事があれば最大限努力しよう。彼はもちろん仲間の須郷さんも失いたくないから。話が終わると彼はベッドに入ってきて、私も横たわる。昨日と同じように抱き締めてくれた事が嬉しくて、明日からはなくなる事が寂しくて、複雑な心境で眠りについた。

---

( 20201205 サイトアップ / 20201125青い鳥アップ )
back

top