真理とは、宇宙の創生、星々の誕生、生命を育んだ自然の力そのもの──時間という概念すら存在しなかった太古から連綿と続く大樹の根、すなわち世界の根源である。
この世のあらゆるものは、根源から芽吹き、枝分かれし、進化してきた。人類の文明もまた、その無数の枝の先端に揺れる一葉にすぎない。
そして、人間はどの時代においても真理を解き明かし、掌握したいという欲望を抑えられない生き物だ。
だが、どれほど天賦の才に恵まれた者であっても、人智では測りきれない理論を超えた領域──神秘の最奥──に到達することは極めて困難だということは誰もが知っている。一生をかけて追い求めても、ほんの欠片にさえ手が届かない。そんなことがほとんどであると。
その一方で、世の中には意図せず真理の淵に足を踏み入れてしまう者がいることもまた、揺るぎない事実なのである。
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スメールの建築物は、歴史的建造物から一般住宅までステンドグラス調の窓が主流だ。スメールの日差しは他国に比べて強いものの、色ガラスには遮光効果があるし、デザイン性を損なわないためにカーテンをかけている家は少ない。
アルハイゼン宅も例に漏れず、彼は新緑色に染まった早朝の柔い陽射しを受けて目を覚ました。
「……」
スメール人は夢を見ない。だから眠りの世界とはアルハイゼンにとってただの暗闇だ。
しかし、ここ数日は誰かがその暗闇に訪れている気配がしていた。そして、今朝もまたそうであった。
目覚めた瞬間に胸の奥で何かがざわめき、まるで意識の端に触れられたような、得体の知れない感覚が全身を駆け巡る。
「またか」
そう呟き、アルハイゼンは眉間を押さえる。
決まって目覚めの瞬間にだけ訪れる違和感。彼はその正体を解明するためにわずかに残る暗闇の記憶を追いかけた。
眠りから覚める直前、穏やかな川のせせらぎや優しい風が草木を揺らす音を聞いたのを覚えている。自然あふれるスメールでは日常的に聞く音だが、それはなぜだか懐かしく思えた。
しかし、あまりにもありふれたそれを懐かしく思う理由も、この音が違和感とどう関係しているのかも、その答えにたどり着くことはできなかった。
別の朝、目覚めたときの違和感は強さを増していた。意識の端に触れるどころか、意識の奥に手を差し入れられたような、明確になにかに干渉されたことが分かる感覚だ。
今日の違和感は音の代わりに香りを残していたようで、甘く優しい花、落ち着いた森林、雨上がりの海風、そして清々しい大気の香りが鼻腔で混ざり合っていた。
まるで系統の違うそれらの香りひとつひとつを脳が理解した時、遠い思い出が記憶の底から引きずり出され、彼の心臓は一瞬強く脈打った。
アルハイゼンはこの香りを知っている。
「──まさか、君なのか?」
アルハイゼンは弾かれるように顔を上げた。どんな時にも決して冷静さを欠かない瞳は忙しなく瞬き、表情の中にも微かな動揺が浮かんでいる。
彼の眉はわずかに寄り、唇は言葉を探すように小さく開閉を繰り返す。常に何手も先を読んで生きてきた男の顔に、こんなにも生々しい驚きが宿るのは珍しかった。
しかし、アルハイゼンがこれほどにまで狼狽するのは当然だった。なぜなら、記憶の奥底で鮮やかに蘇ったその香りは、彼がかつて出会った『真理』が纏っていた香りだからだ。
果てなき追究の末にたどり着いた真理とは、一般的に目には見えない概念的なものを思い浮かべるだろう。
しかし、アルハイゼンが意図せず出会ったそれは、人間の女の姿をし、自我を持ち、名を持っていた(テイワットにおいては、天理も四執政も人の姿をして自我を持っているので珍しいことではないが)。そんな彼女は天外から来た星を自称していた。
普段ならそのような妄言を信じるはずがないのだが、当時のアルハイゼン少年はあっさりと納得した。なぜなら目の前にいるものが人間ではないことも、人ならざる者の中でも本来ならば近づくべきでない存在であろうことも、一目見ただけで疑う余地なく理解させられてしまったからだ。
そんな星は、強大な力を持つ反面、随分と穏やかで人間じみており、そして人間が好きだった。彼女は、純粋な好奇心を瞳に宿し、恐れず自身に近づいてくるアルハイゼンを気に入り可愛がった。
一方のアルハイゼンも、己の好奇心を満たし、新たな世界を見せてくれる彼女に大層懐き、毎日のように彼女の元に足を運ぶようになったのだった。
だが、出会って一年が経つか経たない頃、彼女はアルハイゼンに突然の別れを告げた。
アルハイゼンはらしくもなく聞き分けのない子どもを演じたが、彼女はその手を取ってはくれず、代わりにどこからともなく取り出したパピルスに流麗な文字を書いて渡した。
テイワットに存在しない文字で書かれたその言葉の意味を、真に理解した時にまた会いに来る、そう言って彼女は風に溶けて消えて行ったのだ。
過去の出来事を脳裏に走らせたアルハイゼンは、ベッドから降りるとお気に入りの書物を集めた本棚の前に立った。本と本の間に置かれたダイヤルロックのついた箱を手に取ると、カチャカチャと『彼女』の名前に並べ替える。中から取り出された件のパピルスの上には、満天の星空を閉じ込めた濃紺のインクが、十数年前から変わらずキラキラと輝きながら美しい文字を記していた。
ここに書かれた文字を解読するのに、アルハイゼンは随分と苦労を強いられた。なにせ文献もなければ、その文字の意味を推測するための比較対象もないのだ。テイワット内の言語から近似のものを探し出し、どうにかしてその意味を解読できたが、それには五年の歳月がかかった(アルハイゼンだから五年という驚異的なスピードで解読できたともいう)。
「とうの昔に君の残した言葉は読み解けていたというのに、なぜ今なんだ?」
人間の常識が通用する相手ではないことは分かっているが、こちらはこんなにも待っていたのだ。もう少し早く会いにきてくれてもよかったのではないか、彼女に再会した暁には文句の一つや二つを言っても許されるはずだ。
そんなことを考えながらもアルハイゼンの口許は緩く弧を描いている。恨みがましい気持ちよりも遥かに喜びが勝っているのだ。
そうとなれば、こうしている場合ではなかった。アルハイゼンは寝巻から着替えてリビングへ移動すると、徹夜明けのくたびれた姿でコーヒーを啜るカーヴェに口早に伝えた。
「出かけてくる。恐らく夜まで戻らないから夕飯は不要だ。では行ってきます」
「待て待て待て待て。ど、どうしたんだ? こんな早くから起きて出かけるなんて」
「用があるからに決まっているだろう」
「朝に弱い君がこんな時間に出かけるなんてどんな用事なんだって聞いてるんだ!」
そう言葉が口を飛び出したあとにカーヴェは後悔した。どうせ「君には関係のないことだ」と突き放した一言が返ってくる、そう思った。
徹夜明けの疲れた身体と頭でアルハイゼンに応戦するのはひどくしんどい。かと言って、けんもほろろな態度で返されると風フライムの如く怒らないではいられないのがカーヴェという男だった。
「星を探しに」
「君ってやつ……え、なに、星?」
まさか回答が得られると思っていなかったカーヴェはお決まりの台詞を途中まで口にし、そして瞠目した。
返事がされたことや、よくわからない用事の内容についてもそうだが、星を探しに行くことを告げたアルハイゼンの機嫌がすこぶる良かったからだ。
「もういいか? 急いでいるんだ」
「あ、ああ……いってらっしゃい」
目の前にいたのは本当にアルハイゼンだったのだろうか。模倣がとんでもなく下手なドッペルゲンガーと言われた方がまだ納得がいく。すでに閉じられた玄関ドアを見ながらカーヴェは思った。
スメールシティを出てガンダルヴァー村へ続く街道をしばらく進んだところでアルハイゼンは足を止めた。かつて彼の祖母の家があった場所だ。
今の家に越す時に家屋は解体してしまったため、そこはまばらにスイートフラワーやスメールローズが咲いているだけの空き地であるが、彼にとって何にも代えがたい場所であることは言うまでもないだろう。
アルハイゼンは風に揺れる草花を一瞥した後、裏手にある小高い丘へ向った。この丘の頂上こそ、十数年前にアルハイゼンと彼女が多くの時間を過ごした場所である。
丘からはスメールシティが一望できる。人々が生み出すあらゆる音を聞きながら、その暮らしを眺めるのが彼女の日課だった。きっと今日も、綺麗なものを慈しむように、静かに聖樹の街を見つめているのだろう。アルハイゼンは、かつて幾度となく見た美しい横顔を思い浮かべながら、緩やかな傾斜を早足で登った。
「っ、」
視界が開けて、草葉の色が蒼穹へと一変した時、アルハイゼンは息を呑んだ。
広大な空の下で、澄んだ天空のような、冷たい月光のような、長く豊かな白銀の髪が風に揺れている。それは間違いなく長らく求めていた後ろ姿だった。
「──スピカ」
アルハイゼンはスゥッと小さく息を吸うと、努めて落ち着いた声でその名を呼んだ。
彼女もといスピカが振り返り、視線が交わる。
「(ああ、本当に……)」
予感が間違っているとは思っていなかったが、それでも実際に自分の目で見るまで少なからず不安はあった。アルハイゼンはわずかに頬を緩め、安堵の色を瞳に浮かべる。
そんな彼の様子にスピカは小さく笑い声を発すると、「待ちくたびれたわよ」と冗談めかしながら言って微笑んだ。
さんざん文句を言ってやろうと思っていた相手から、先に文句を言われた。アルハイゼンの緩められていた表情が普段通りに戻る。
「君がその言葉を使うには、あと数百年はここに座っている必要があるだろうな」
「そうかしら? 結構待ったと思うのだけど」
「冗談を。むしろ待ちくたびれたのは俺の方だ」
「あら、私がいつあなたを待たせたの?」
「今日この瞬間まで、ずっと」
数メートルあった距離をつめて、枯木に腰かけているスピカの前までやってきたアルハイゼンは、むっと口を尖らせ、腕を組んで彼女を見下ろした。
アルハイゼンは愛想は良くないが、機嫌の良し悪し──特に不機嫌を人にぶつけることはしない。もちろん、効率よく物事を進めるためにわざと不機嫌な空気を出して圧をかけることはあるし、相手がカーヴェならその限りではないが、機嫌を取ってほしいという理由であからさまな態度を取ることはまずないのだ。
そんな彼が、『俺は不機嫌です』と全身でアピールしているのだから、アルハイゼンがスピカをどのような枠組みにカテゴライズしているかは言わずもがなだろう。
「大きくなっても相変わらず可愛らしいのね」
「ああ、そうだ。そんな可愛い俺が拗ねているんだ。慈悲深い君はもちろん慰めてくれるんだろう?」
「ふふっ!」
態度の大きさと幼稚な要求のちぐはぐさに、スピカは口元に手を当てて大層面白そうに笑った。
「ええ、ええ。もちろんよ。ほらこっちに来て。これまでの分、たくさんお話しましょう?」
一人分の隙間をあけて座り直したスピカがぽんぽんと叩いてアルハイゼンを呼ぶ。それに彼は素直に従った。
「スピカ」
「なぁに?」
すぐ真横からの呼びかけにスピカは首をかしげて返事をする。
仏頂面は相変わらず。しかしアルハイゼンは花緑青を少し細めて「おかえり」と短く告げた。
「──うん、ただいま」