雨降る街で、海は凪ぐ


 やわらかな日差しをめいっぱい浴びる。湿っぽくて気持ちのいい匂いがする。水面がきらきらと反射して、眩しい。海は青と緑の堺の色をしていて、次々と押し寄せる波は、みな頭の上に白い泡を運んでいた。 
 ヴィヴィアは高い崖の上から、その景色をぼうっと眺めていた。足元に生えた草花は海風に揺られて、辺りには小さな生き物たち暮らしている。できる限り彼らを踏まないように、一歩二歩と慎重に歩みを進める。崖の隅っこから足元を覗けば、岩にぶつかる波が、高く水飛沫をあげていた。光が空へと上がり、海へ帰る。ここから重力に従えば、いつか……。なんて事を考えてみる。
 そんな、静かでひそやかで、平穏なひとりの世界。
 
 ◆

 今日は雨。夢の世界から帰ったヴィヴィアは、思い出す。狭く薄暗い空間と、宙を舞う煤と埃とが、ここがどこかを明らかにする。窮屈な暖炉の中で、ほんの少し伸びをすると、背中の骨が元に戻る音が聞こえた。伸ばした手がこつりと、固いものにぶつかる。それは、眠りに就く直前まで彼が読んでいた本――児童書だった。ハードカバーの角は、ヴィヴィアの青白い肌へ少しの赤みと痛みを与えたが、表紙に描かれた奇妙な生き物は何食わぬ顔をしていた。伸ばしたついでに、本を近くに手繰り寄せる。挟まれた栞の箇所を開けば、ちょうど彼らは海を訪れていた。近くには、天井に青空を覗ける大きな穴を持った洞窟がある、小さな浜辺。
 脳裏に、先の光景が蘇る。ヴィヴィアの夢見た静かで穏やかな世界は、すでに輪郭のない蜃気楼へと成り果てていた。今日は雨、ではなく、今日も雨。ヴィヴィアはこの街の特性を頭でなぞる。水を多く含んだ空気が肌にまとわりつく感覚には、慣れてきた。耳を澄ませるが、コツコツと雨が当たる音は聞こえない。つまり、今は海の中。なるほど、通りであんな夢を。あまりにも単純な自分に少し笑えて、ふっと空気が溢れた。ばたりと本を閉じると埃が舞って、きらきらしていた。
「さて…これからどうしようか」と考えたところで、ようやく胃の中が空っぽであることに気がつく。一度自覚すると、見逃せないほどの空腹感だった。もう一度目を瞑り、誤魔化してしまおうかと思ったが、時計の方をちらりと見やれば、そろそろ仕事が終わる時間だ。じっと周囲の気配を探るが、残念なことに、ヴィヴィアはひとりだった。いつもだったらこの時間、船にいるはずの所長も、今は外出中のようだ。はぁ、と小さくため息を吐く。それから、のそのそとゆったりとした動きで、暖炉から這い出した。重力に負けそうになる体をどうにか立ち上がらせると、全身のあちこちで軋んだ音がした。
 手にした本をテーブルの上に置いてから、ふらふらと何かに釣られるように、ヴィヴィアはキッチンへと向かう。せっかく起きてやったのだから、ついでに腹の獣も抑えたいという願望からだった。だけれど、予想通りと言うべきか、冷蔵庫から戸棚まで隅々を物色したけれど、食べ物は何もなかった。この事務所の面々を思い浮かべれば、当然だと言わざるを得ない。
 ううん、と渋い声が漏れると同時に、腹の獣も大きく唸った。こうなると、ヴィヴィアに唯一残されたものは、サーバーに残ったコーヒーだけだった。珍しくインスタントではなく、ドリップで淹れられたそれは、おそらくユーマが作ったものだろう。だいぶ時間が経っているようで、ガラスは冷え切っていた。先ほどから空腹を訴え続けた胃袋は、そろそろ限界を迎えようとしている。ヴィヴィアに他の選択肢はなく、戸棚の中から、渋々自分のマグカップを取り出した。
 ヴィヴィアのカップは、緑の蝶のシールが貼られたものだ。これはフブキとデスヒコのアイデアで、もともと来客用に用意された白のマグカップに、各々好きなシールを貼ったのだ。アマテラス社特製のシールは、カナイ区に合わせて防水加工がばっちり施されており、毎日ユーマが丁寧に食器を洗っても、剥がれる心配はない。最初は無関心だったハララが、カップに貼られた紫の猫を見るたびに、ほんのり顔を緩ませることを、ヴィヴィアは知っている。
 ミルクなんて気の利いたものは冷蔵庫にはなかったので、ブラックのままコーヒーを口にする。冷たい液体が喉を通り、胃袋へと直接届く感覚が分かった。案の定、酸化し冷え切ったコーヒーは不味い。だが、一度カップに移したものを、誰かが丁寧に淹れてくれたものを、排水口に流す気にはなれず、無理やり腹へと押し込んだ。
 窓がなく薄暗さのある客間に、少し大きめの児童書は否が応でも目立っていた。大きめのはっきりとした文字が与える幼さも、この探偵事務所には似合わない。タイトルから察するに、どうも彼らのいる谷に彗星が落ちるらしい。ヴィヴィアは、真っ赤に燃える火の塊を想像する。長い光の尾を引いて、まっすぐにこちらに落ちてくる星は、きっと鮮やかで痛いほど眩しく、恐ろしく美しい。星々に潰されるのなら、誰であろうと確実に、消し炭と化すだろう。
「はぁ…いつか死にたい」いつからか、ヴィヴィアに生まれた唯一の明確な欲望は、彼の口によく馴染む。
 時計を見れば、良い頃合いだった。そろそろ彼らが帰ってくる。この事務所を海の中から浮上させてやらなければ、でないと彼らが戻れない。ヴィヴィアはその為に、起き上がったのだから。いつも所長がやるのと同じようにボタンを押せば、部屋が大きく音を立ててガタガタと揺れ始めた。趣のありすぎる潜水艦というのも考えものだ、といつも思う。
 一仕事終えたヴィヴィアは、先ほどよりも軽くなった足取りで、定位置の暖炉へと帰る。彼らが帰ってきたら、まずは「おかえり」を言おう。それから、コーヒーを淹れ直してもらえるか、お願いしてみよう。せっかくならば、温かくて最も美味しい状態のものを、いただきたいから。「美味しいね」と素直に伝えてやれば、見習いの彼はきっと、照れくさそうに、嬉しそうにするだろう。そうやって空腹を満たしながら、みんなの話に耳を傾けるのだ。しんと静まり返った今とは違う、賑やかな事務所を想像する。
 それは、慌ただしい日常の合間にあった、少しの平穏と、少しの平和がある世界だった。




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