眠れ良い子よ
月明かりに照らされて、部屋は夜の青に染まっている。僕は、閉じた瞼の向こう側、時計の針が音を立てながら動く姿を眺めていた。頭はぼんやりとしていて、目の奥で細い針に刺されるような痛みが走る。ゴロリと寝返りを打ち、足を曲げて丸くなると、ほんの少し落ち着いた。月明かりが眩しいけれど、ようやく温まった世界を抜け出てカーテンを閉めに行く気にはなれない。頭まですっぽりと布団を被り、目と耳を塞いだ。ひどく眠いのに目が冴える。そんな夜だった。
時計の針がコツ、コツ、コツ、と三回鳴って、それから、音が消えた。世界がぐにゃりと変わる感覚がする。一日と一日の間にある時間。ずっと昔から知っていたこの世界に、今更怯えることはないけれど、最近になって少し変化はあった。
今日もほら、不思議な友だちの気配がする。
「こんばんは」あどけなさの残る声が、僕を呼ぶ。「今日は顔を見せてくれないの?」
ぎぃとベッドが軋む音がして、ちょうど丸くなった僕の腹の近くに集まるように、地面が傾く。
「本当は君とお話しようかと思ったけれど、あまり元気じゃないみたいだね。何かあったかい?」
僕は布団の中でゆるく頭を降った。
「そっか」ファルロスは言う。瞼の裏に、優しく眼を閉じてそっと笑う彼の顔が浮かんだ。彼は器用に僕の体の辺りを当てると、布団の上から不規則に何度か優しく叩いた。小さな子どもの手と布団が擦れる乾いた音が、部屋の中で響く。だんだんと頭の痛みも和らいで、ゆるんで、これまで自分がぎゅっときつく目を閉じていたことにようやく気がついた。布団の中の真っ暗闇の世界。僕の呼吸と、体温と、ファルロスの手の感触だけが鮮明に伝わる。
少しして、これまでとは違う音が聞こえてきて、僕ははっとした。それはとても小さな音だったけれど、緩急と強弱とリズムを伴った、歌だった。歌詞はついていなかったけれど、胸の奥をくすぐられるような、不思議な気持ちになる。僕はようやく、布団から顔を出した。外の空気が新鮮で、冷たくて、心地いい。汗で張り付く前髪を避けながら、彼の姿を目で探した。
「やぁ、ようやく会えたね」
誘われるようにぱちりと、目があった。吸い込まれそうな夜の青をした瞳。思った通り、ファルロスはベッドの真ん中あたり、ちょうど僕の腹がある所に腰掛けて、丸くなる僕の側に居た。僕は、いまさらなんて声をかけたら良いのか分からなくて、彼の視線から逃れるように眼を逸らしてしまった。それから、数拍考えた後、「こんばんは」と挨拶をした。少し掠れた声だった。「うん。こんばんは」彼は優しく返してくれた。
僕は布団から這い出して、体を起こす。きちんと向き合うためだ。
「今の歌」
「聞こえたかい?」
「うん。良い曲だった」
素直にそう伝えると、彼はうれしそうに笑う。
「人は、うまく眠れない時に子守唄を歌うでしょ?本当は、寝物語を聞かせてあげようかと思ったけど、僕は物語を一つも知らなくて」
ファルロスは、床に視線を落とし少し言い淀む。「でもこの歌は、なぜか聞き覚えがあった」彼はそっと目を閉じる。「この歌を聞くとね、心が落ち着いて、あたたかくて、優しいものに包まれたような心地になるんだ」
そう言いながらファルロスは、口の端がゆるまって、穏やかな顔つきをしていた。きっと、あの歌を思い出しているのだろう。
「君が気に入ってくれて、うれしいよ」
僕は、先ほどの子守歌をもう一度思い返す。どこか聞いたことのある歌。心が落ち着いて、あたたかくて。それこそ、やわらかな毛布でくるまれるような心地よさのある歌。決して長くはないのだけれど、忘れてしまわないように、何度も何度も、頭の中で繰り返した。
さて、とファルロスは腰かけていたベッドから立ち上がった。再び軋んだ音がする。
「君の調子も戻ったようだし、僕はそろそろ帰るよ」
お喋りはまた次の機会に、と言いながら彼は空に溶けてしまいそうだったので、僕は「待って」と慌てて声を上げた。急な静止に驚いたようで、ファルロスは少し目を見開いていた。珍しい顔だ。
僕はどうしようかと迷ったけれど、自分の布団をめくって、人ひとり分が入れるようなスペースを作って端によけてやった。ファルロスはキョトンと、不思議そうな顔をする。思いがうまく伝わらない。
「こっちにおいでよ」
「いいの?」
彼は本当に、本当に驚いた様子だったから、少しおかしくて、僕は思わず笑みがこぼれた。
「もちろん」と答えると、彼は先ほどとは打って変わって、慎重にこちらへと寄ってきた。もう一度、マットレスが子どもひとり分の重みを負って、沈み込む。ファルロスが僕の隣に寝転がったのを見て、埋もれないようにそっと布団をかけてやった。彼は少しだけもぞもぞと動いたあと、ちょうど良い場所を見つけたようで、顔を少しだけ布団の中にうずめた。ぬくもりが、二人を中心として丸く広がる。
「君がこんなことするなんて思わなかったよ」
彼が、あの少し不思議な瞳でまっすぐとこちらを射抜くものだから、僕は少したじろいだ。正直なところ、何かを考えていたわけじゃなかった。ただ、このぬるく心地よい時間を終わらせたくなくて、どうにかしてあの子を引き留めたかっただけ。ただ、それだけだった。
「嫌だった?」素直に聞いてみると、彼の不思議な瞳は塞がれて、少しばかり黙った。僕はどきりとした。我儘、呆れ、迷惑。そんな言葉が浮かんで、頭の中に残る。しかし、ファルロスは心の底から溶け出したように微笑んだ。
「ううん。むしろ、すごくうれしいよ。こんな風に誰かと同じ布団にくるまって、眠った記憶なんてなかったからさ」一拍おくと、彼は「それにね」と続ける。
「これってすごく、友だちみたいだよね。僕と君とは友だちなんだから、こういう時間も悪くないなって思うよ」
「そっか。それなら、よかった」僕はなるべく平静を装って、そう答えた。ようやく時が動き出したような心地がする。まだ影時間なのに。
「もしも嫌だったら、一緒に寝たりなんてしないよ」彼は呆れたように笑う。
「そういうものか」
「うん、そうさ」
ファルロスはそう言って、少しだけ僕の方に身を寄せた。それに合わせて、僕も彼に寄り添った。それから、彼の体に腕を回して、抱えるように、布団の上から背中の辺りに手を置いた。
「本当は、君に物語を教えてあげようかと思ったけど、こういう時に話す物語って一体どんなものなのか、僕にも分からなかった」
「そっか。君でも分からないんだね」
「うん。だから今日は、これで我慢して」
僕はファルロスの背の辺りを優しく叩きながら、覚えたばかりの歌を歌った。ついさっき、彼がしてくれたのと同じように。顔はうまく見えないけれど、ふふふと笑みが溢れて伝わってきた。「ありがとう」と、彼の言葉が、息が、僕に届く。
歌を歌いながら、相手に触れるというのは、思っていたよりも難しかった。どんなリズムで叩けば良いのか、声はもっと潜めた方が良いのか、彼のようにできているだろうか。いろいろなことが、浮かんでは消えて、渦を巻く。慣れないことをして、不恰好に思えた僕は、「今度会う時までに、物語を探してくるから」と誤魔化すように言った。だから今日は、これで我慢して。
けれどファルロスは、「ううん、寝物語はもう必要ないさ。僕にはこれがあるんだもの」と言った。「これがいい」
少しするとファルロスが眠りかけたから、僕は彼の邪魔にならないように、だけど、彼を取りこぼさないようにしっかりと腕を背に回して、もう片方の手は自分の頭の下にやった。僕は、月の光に照らされた彼の顔を見ていた。閉じられた瞼の向こうには、吸い込まれてしまいそうな、不思議な青が眠っている。呼吸に合わせて、腹が動くのを感じる。ふわふわとした髪、目の下にある黒子、少し空いたくちびるを、順に眺めた。彼は、子どもの割にはあまりあたたかくなかった。けれど、冷たくもなくて、僕にはそれが心地よかった。
僕は今、脆くて、やわらかで、とても大切なものを抱えているのではないかと思えてきた。だから、できるだけ丁寧に触れて、やさしく歌った。覚えたばかりの――思い出したばかりのあの歌を。そうしていると、だんだんと僕の瞼も落ちてきて、目を開いているのか、閉じているのか、分からなくてなってきた。思うように体が動かなくて、微睡の中に沈んでいく。目を離したら、彼は消えてしまいそうだったから、できるだけ側に寄り添うようにした。意識を手放す五秒前、僕は彼に「おやすみ」を言った。返ってこないと分かりながら。
すぐそばにある温もりから、いつものように「おやすみなさい」の声が聞こえて、僕は眠りに落ちる。