風と歌
今の季節、屋上のベンチはひどく冷たくて、僕はぎゅっと身を縮こませながら、黄色のマフラーに顔を埋めた。コンクリートやらプラスチックやらを混ぜて作られた長椅子は、秋の放課後にはすっかり冷えてしまうようで、腰掛けた人間を体の芯まで凍らせる。とはいえ、わざわざ立ち上がる気にもなれなくて、そのまま座り続けることにした。
屋上へ来たのに、理由なんてなかった。強いて言うなら、前に頼まれて人探しを手伝った時、ここで見つけたからだ。人を探しているのと聞かれると、それもまた不正解。でも、会えたら良いなと思っている人はいる。せっかくなら、二人だけでのんびりと話がしたい人。つまり、人の多い教室じゃ嫌なのだ。でも、遊びに誘おうとすると、彼女に睨まれちゃうからダメ。すれ違い様に声をかけようとしても、他の子に先を越されちゃうからダメ。彼は意外と、誰の側にいる時間が長いようで、思っていたよりずっと二人で話すことは難しかった。
だから僕は、期待を込めてここのドアを開けた。あの時みたいに、君がここにいれば良いなと思って。ただ、現実はうまく行かないもので、誰もいない屋上に秋風が通り抜けただけで、胸にぽっかりと穴が空いたような心地がした。コンクリートの冷たさを受け入れながら、僕は空を眺めることにした。薄い青色をした、高い空。僕の気持ちのせいなのか、磨りガラスのようにくすんでも見えて、とても綺麗だった。忘れてしまわないように、心の中に焼き付ける。風が吹くと、長いマフラーがなびき、視界に入り込む。この空には、似合わない色をしていた。
僕は空を見上げながら、想像した。君が階段を登る後ろ姿。決して駆け足で段を飛ばすようなことはなく、面倒くさそうに、ポケットに手を入れたまま一段ずつ登る。君の靴と床がぶつかって、音が鳴って、誰もいない踊り場に響く。僕にとってその音は、ただの足音じゃなく、まるで音楽のように聞こえてくる。僕はわくわくしながらここで待ち、そして、長い階段を登り終えた君が、窓から差し込む日差しの中に立つ。
ガチャと、扉の開く音がする。アルミみたいな、軽い金属でできた扉が軋んだ音を立てる。風が吹き抜けて、君の前髪が揺れて、右目が覗く。太陽も眩しくて、君は鬱陶しそうに手で顔を隠すんだ。
ほらね、思ったとおり。
「綾時?」
「やぁ、奇遇だね」
うん、と彼は少し頷いて、まっすぐ僕の方へと来てくれる。それに合わせて、僕は立ち上がった。きちんと向き合うためだ。
「何してるの?」と彼が訊く。
「何も。そういう君は?」
彼は少し黙った。彼の瞳はゆるく伏せられ、地面の方へと向く。
「特に用はないけど、なんとなく」
「そっか。僕と同じだね」
僕がへらりと笑っても、彼は顔色ひとつ変えなかった。だけど、僕がこんなところでひとり佇んでいたことにも、何も言わなかった。彼は、僕の方へと向けた足で、そのままフェンスの方へと向かった。釣られて僕も側に寄る。今日も風がある日だから、発電機はくるくると回っている。海が見えて、街が全部見えて、眩しかった。
「綺麗だよね、ここ」
僕は思ったままを口にした。「そうだね」と彼は小さく答える。君はこの景色が好きなの、とは聞かなかった。君の顔を見ればなんとなく、それが伝わってきたから。
「桜が咲くと、もっと綺麗なんだってさ。この前聞いた」
さくら、と君は小さく繰り返す。「君も見たことある? あ、そうだ、君も転入生なんだっけ」
「うん」と彼は頷いた。「ここ、桜があるなんて知らなかったな」と言った声には、ほんの少し寂しさが滲んでいるような気がした。
だから僕は、思い切って声をかけてみた。君の目が、街から僕に移されて、どきりとする。「春になったら、一緒に桜を見に行こうよ」
君は少し目を見開いて、驚いた様子だった。珍しい顔が見られて、ちょっぴり嬉しくなる。「どうかな?」と控えめに、様子を窺うように、念を押してみる。彼は少し戸惑ったようだったけれど、一拍おいてから、「うん。良いよ」と微笑んだ。
その瞬間、僕はじんわりと体があたたまって、思わず口の端がゆるんだ。「やった」と声をあげ、素直に喜んでいるように言ってみたけれど、本当はもっともっともっと、うれしい気持ちでいっぱいだった。
だけどその次には、僕の胸には形容し難い苦しみで溢れていた。冷たい鉛を飲み込んだように、腹のあたりが重く、苦しく、足元から崩れ落ちるような、強い不安。何度考えてみても、僕と君が桜を見る姿が、想像できなかった。視界がきゅうと狭まって、頭が少し痛くなって、僕は、回るプロペラを眺めることしかできなくなった。
それきり僕らは黙ってしまった。何か言おうにも、どうして良いかわからなくて、口を薄く開けたり、閉じたりを繰り返す。いつもはそんなことないのに。何か言葉を吐き出そうにも、不安が腹から迫り上がって、押し込める。彼に思ってもないことを言ってしまいそうで、余計なことを言わないように、口をつぐむことで精一杯だった。
少しして、これまでなかった音が耳に届いて、僕ははっとする。それは、他でもない彼の方から聞こえてきた。よくよく耳を傾けると、彼が歌っているのだとすぐに分かった。決して大きな声ではなかったけれど、風に飛ばされることもなく、まっすぐ僕の方へと飛んでくる歌。僕を支配していた恐れは次第に萎み、やわらかで、落ち着いた気持ちになる。僕はようやくプロペラから目を逸らして、君の方を見ることができた。
「歌、上手だね」「本当?」彼は目をぱちりとさせて、少し嬉しそうにした。「これ、前に友だちから聞いた歌。落ち着くでしょ?」
「うん、すごく良いね。僕も気に入ったよ」
君は口元をゆるませ、それからもう一度、歌ってみせてくれた。僕はそっと目をつぶって、彼の歌に集中する。あたたかくて、おだやかで、眠りを誘うような歌。忘れないようにと、頭の中で繰り返す。君の声を忘れないように、何度も何度も。
つられたのか、気がついたときには僕も合わせて口ずさんでいた。歌に混じって、君の方から小さく笑い声が溢れた気がした。僕もゆるゆると、自分の顔が綻ぶのが分かった。僕ら二人で歌って見せたこの曲は、高い秋の空に溶けて消えた。二人だけの歌だった。
僕は歌いながら考えた。君と僕とで、この歌に合わせて踊る姿を。このゆるやかな旋律は、ワルツのようにくるくると回るのには合いそうだ。二人でくるりくるりと、息を合わせて踊ると、僕のマフラーがなびいて、君の前髪は揺れる。いつもは見えない、青と灰を混ぜたような瞳が、ちらりと覗く。そうして僕らは、笑い合う。
声をかけたら君は、一緒に踊ってくれるだろうか?なんて、まだ分からないけれど、君なら面倒くさそうな顔をしながら、それでも「良いよ」と言ってくれるような気がした。今はまだ、声をかける勇気はないけれど、例えばそう、桜が咲く頃には。
そんな思いは、今日のところは僕の心に留めておいた。