何も知らぬ生きものたち
朝焼けが綺麗に見えたから。天気が良くて過ごしやすかったから。北風が冷たくて心地よかったから。オレンジの入ったパンに蜂蜜を塗って食べたら、とても美味しかったから。理由は色々あったけれど、その日のオーエンは機嫌が良くて、だから、街へ出かけることにした。
朝の冷たい風が頬を撫でる。空はすっかり澄んだ青になっていて、朝焼けの花のように柔らかい色は、跡形もなく消えていた。オーエンは北の国から中央の国へ箒で向かっていた。吹雪のない晴れ渡った空は、飛びやすい。眼下に望む景色は、どこもかしこも雪ばかりの真っ白な世界で、とても退屈だけど、静かで落ち着いていて嫌いではなかった。オーエンが中央の国へ向かう理由は特別あるわけではない。ただ、無性に行きたくなる時が稀にあった。それは、カナリアの鳴く春の始まりであったり、朝起きたら世界が青く水の音が響き渡る雨の日だったり、ふと見上げた夜空に檸檬色の月が浮かんでいた日や、真っ赤に染まった夕焼けで目が痛む日であったこともある。その衝動に何か名前があったとしても、オーエンはそれを知らなかったし、知る必要もなかった。知らなければ、存在しないのと同じだと思っていた。北から中央にかけては、雪を除いて、飛行を妨げる大きな障壁はない。風をビュンビュンと切りながら、ある一点を目指して、オーエンは箒を飛ばす。次第に、嫌と言うほど見慣れた城が近づいてきて、地面の白は減り、代わりに緑が増え始めた。精霊と獣と魔法使い以外の、生き物の気配がする。
オーエンは、市場の端の辺りで降り立った。日は高く登り、街は人で賑わっている。ガヤガヤと騒がしい気配で満ちていて、思わず顔を顰めた。賑やかな雰囲気は好きではない。人の波を縫いながら、オーエンは店を物色して回った。甘い、甘いお菓子が欲しい。砂糖のザリザリした感触がして、人が無理矢理つけた色や形の、食べると強い香りがして、噛むと口が痛くなる。そんなお菓子を探していたが、なかなかどうして、うまく見つからない。市場を歩く人々は、皆同じような変わり映えのない見た目をしていたから、真っ白なオーエンはとてもよく目立った。チラリとこちらを覗く視線がひどく面倒で、追いかける目を振り切るように、オーエンは曲がり角を進んだ。大通りからはたった1本裏手に入っただけなのに、あのざわめきも人の気配も、すっかりと消え去った。歩くに連れて店は少なくなり、人の家が増えていく。市場では群を作ってふらふらと彷徨う人間が多かったが、ここでは一人で歩く者が多い。彼らは周囲の様子など気にすることなく、迷わず足を進めている。きっと、真っ直ぐに帰る場所がある人たちなのだろう。
だからこそ、唐突に現れたケーキがとてもよく目立った。入り口の上に、金属でできた冷たいケーキのプレートがぶら下がっている。カランカランとドアベルが鳴り響き、続いて「いらっしゃいませ」という店員の挨拶が疎らに聞こえた。焼き菓子の甘い匂いと、冷たい氷のような気配がする。店内はとても静かで、他の客は誰も居ない。カウンター越しに、こちらの様子を伺う若い男の店員とオーエンの2人きりだった。声が疎らに聞こえたと言うことは、もう一人は店の奥に引っ込んだのだろう。ショーケースには色とりどりのケーキが並び、誰かに食べられるのをじっと待っている。中でも真っ赤なベリーを扱ったムースケーキが、ひときわ目立っていた。誰もが見栄えの良い、似たようなドレスを見に纏った中、彼女だけが自分を主張するように、まっすぐとこちらを向いている。赤くコーティングされた体はツヤツヤで、キラキラで、切り拓いたらトロトロしていて、フォークを突き立てるたびに、ムースに詰まった空気の抜ける感覚がするのだろう。オーエンは先日見かけた、割れた目玉を思い出した。正面にある大きなテーブルには、焼き菓子が綺麗に整列している。ケーキに乗った白いクリームをそのまま固めたようなお菓子が気になったが、今探してるのはこれじゃない。
「ねぇ、これ袋いっぱいにちょうだい」
1つの菓子を指さす。星や花や動物と言った様々な形に切り取られ、デコレーションされたジンジャークッキーだった。砂糖を溶かして固めた部分は、ケーキの上に乗った人形と同じ味がして、オーエンはそれを少し気に入っていた。
「えぇっと、かなりの量になりますけど、大丈夫ですか?」
店員は戸惑いの声を上げる。その質問に答えることなくオーエンがじっと睨みつけると、彼は冷や汗を垂らし始めた。視線が泳ぎ、目が合わない。ギクシャクとした錆びたブリキのおもちゃのように不自然な動きをしたと思えば、慌てて決められた通りの受け答えをしていた。何回、何十回、何百回と繰り返しやってきた動作は、緊張していようとも、恐怖に苛まれていようとも、スムーズにできるらしい。あっと言う間に袋いっぱいのクッキーができあがる。なんらかの数字を話す声を遮って「ねぇ」と声をかけると、店員は銃声を聞いたウサギみたいに、面白いほど飛びはねた。
「さっきからずーっと僕のことを見ているけど、そんなにこれが気になるの?」
オーエンは目元を指さす。それはこの人間に限ったことではなく、この街に来てからずっと感じていたことだった。魔法使いであることを加味しても、やはり向けられる視線が多く、その大半は色の異なる両目に向けられていた。わざわざ聞かなくても、理由はなんとなく分かっている。だけど敢えて尋ねてしまったのは、何故だか分からなかった。
「えぇ、この街で有名な騎士様と同じ色をされていたので…」
「へぇ」
予想通りの返答で、面白味がない。店員は聞いてもないのに、中央の広場のことやその行き方について喋っていたけれど、すでにオーエンにとってどうでもいい話だった。そんなこと、言われなくても知っている。そのまま代価の入った小袋を乱雑に投げ渡し、クッキーがめいっぱい詰め込まれた紙袋を掻っ攫った。「あ、あの!」という店員の声がして、そこで歩みを止めてやったのは、ただの気まぐれだ。
「これ、よろしければ差し上げます。チョコレートなんですけど…」
「これが?色が全然違うけど」
店員が手渡してきたものは、かわいらしいリボンでラッピングされた袋で、中には小さくて四角くて、赤色をした物がいくつか入っていた。雪を被ったようにほんの少しだけ白くなっている。
「西のルージュベリーを使ってるんです。ついこの前、出来のいいものが手に入って!あそこのケーキにも使ってるんですよ」
先ほどまでの態度から一変し、新しい遊びを見つけた犬のように、嬉々として語りだす。彼が楽しそうに喋る声に素直に耳を傾けた。これらの菓子が好きだということが、言葉や表情、態度の全てから感じられて、なんとなく遮ることができなかった。オーエンは興味なさげに、実際にさほど興味はなく、「ふぅん」と一言だけ告げ、渡されたお菓子を袋に詰め込む。来た時と同じ決められた挨拶とドアベルの目障りな音が再び鳴り響いた。ここに来てからずっと感じていた、まとわりつくような視線は消えていて、足取りが軽くなったような心地がした。気づいた時にはどこかへと向かっていて、小袋に入ったたくさんのマナ石を見た店員の叫び声が届かない距離まで歩んでいた。
街の真ん中にある広場には、オーテンよりもずっと大きな銅像と、それを囲うようにベンチがいくつかあり、確かにそこに騎士様は居た。彼は自慢の剣を携えながら、正面を向いてきっちりと立ち続けているが、その視線がこちらを向くことはない。市場にはあんなにたくさんの人が居たのに、広場には誰一人居なかった。この場にいるのは、オーエンと騎士様だけだった。
「こんにちは、騎士様」
オーエンは銅像の足元に腰掛ける。返事はなかった。
「ずーっとそんな所に立って、退屈だね」
片手間に、近くにあるプレートの文字をなぞる。名前、経歴、容姿、そんなありきたりなことしか書いていない、冷たい銅板を読んだところで得られることは何もなかった。蜂蜜を溶かした黄色の目を持つことも、燃えるように熱く、ひだまりのようにやわらかな赤い髪をしていたことも、それが動くたび獣の尾のように揺れることも知っていた。血みたいにドロドロとした赤い目玉を、隠そうとしていたことも。へらへらとした間抜けな態度、情けない顔、ある年を境に人と手を合わせる乾いた音もよく聞いた。その手の感触を、オーエンはよく知らない。こちらを見つけ出しては、いつも馬鹿みたいに笑いかけてきた。どうせそれしか見えない癖に。口を開き、オーエンの名前を呼ぶ。その声がこちらに届くことは、もう二度とない。冷たい鉛を内臓に詰め込まれたような心地がした。腰掛けていた土台の冷たさが、脚を伝って身体中に広まって、手袋に覆われた指先が冷たい。
「冷たい風が吹き荒れる日も、ボタボタと雨が降る深海みたいに暗い夜も、白い雪が降り積もって何も見えなくなったって、おまえはずっとひとりぼっちでここにいるんでしょ?」
オーエンは言葉を連ねる。その答えは、求めていない。
「この街の人間だって、もう誰もおまえのこと知らないでしょ。なにも知らないくせに、ただ与えられた文字を見て分かった気になるだけで。そんな場所にひとり祭り上げられるって、どんな気分?」
広場にはオーエンの声だけが残った。返事のない物に話かけたところで、何も楽しくない。そんなことは分かり切っていた。そのはずだった。オーエンはおもむろに、紙袋から買ったばかりの菓子を取り出した。ちょうど星の形をしたクッキーだった。口に含むと、全体を覆う砂糖の甘ったるさが広がって、それからスパイス特有の香りが鼻へ抜ける。噛み砕けば、硬めに焼かれた破片が口いっぱいに散乱し、口内を傷つけた。デコレーションに使われていた砂糖は、はっきりと着色されていたから、黄色に変色した自分の舌を想像した。オーエンのすぐ側にある両脚は、どちらも銅色をしている。あの目も、髪も、剣も、全てが同じ色だった。これではあの板に書かれていたことは、嘘でしかない。風が吹いて髪がなびくことも、生ぬるい温度で笑いかけてくることも、名前を呼ぶことも、好んでいたはずのクッキーの味すら、きっともう分からないのだろう。
「これは全部僕のだよ。僕が自分で買ったんだ。食べこぼしだってあげない」
オーエンは口いっぱいにクッキーを頬張る。朝焼けの赤と黄色を並べたような瞳は、ひどくつまらなそうだった。オーエンのする些細な意地悪に、返事をしてくれる人はもう居ない。ぐっと顔を上げれば、自分よりもずっと背の高くなってしまった、彼の様子がうかがえる。彼はどこか遠くを見つめたまま、目が合うことも、笑いかけることもなかった。もう何年も、オーエンの左目は動いていない。