らくがき


「あ」
 隣に座る綾時が急に大きな声を出すものだから、僕は思わず日誌から顔をあげて、彼の方へと向いてしまった。今日の日直は僕で、放課後までに日誌を出さなきゃならないのに。
「これ、君が描いたの?」
 かわいいね、と言いながら綾時は、僕が見ていたプリントの隅っこを指差す。今日の二限目に配られた古典のプリント。そこには、三角の耳をピンと立てた犬の絵が描かれていた。紛うことなく、授業中の僕が描いた絵だ。
「コロマルだよ」「コロマル?」
「寮で飼ってる柴犬」
 綾時はもう一度、かわいいね、と言った。顔を見なくても分かる、柔らかさの滲んだ声だった。綾時は鞄を置いて、ガタガタと音を立てながら、僕の方へと椅子を寄せて来る。どうやら帰る気は失せたらしい。綾時は両肘をついてニコニコとこちらを眺める。
「絵、上手なんだね」
「まぁ、一応美術部だからね」
「そっか」と綾時はとても納得したようだ。そのまま、彼はじぃと犬の絵を眺め続けているので、僕は再びボールペンを手に取り日誌を書き始める。今日の古典の内容なんて何も覚えちゃいないので、プリントを見ながら、それっぽい感想を書き上げる。
 しばらく沈黙が続いた後、「僕も絵描いて見ようかなぁ」と彼はペンを取り出した。が、すぐに困ったように周りをキョロキョロと見渡す。ちょうど、僕が四限目の授業内容を書き記している時だった。
「このプリントの隅、使ってもいいよ」
「え!いいの?」彼の顔がぱっと明るくなる。
「もう書き終わったから」
「ありがとう!」と彼は言う。それから「君は、優しいね」とあたたかな声色で言うものだから、僕は少し変な気持ちになって、日誌から目を逸らさずに、「うん」とも「ああ」ともつかない曖昧な返事をした。
 それから、また少し沈黙が続いた。ペンの走る音が二つ。秋風がカーテンを膨らませる気配と、遠くから聞こえる歓声。時間の進みが、とても緩やかに思えた。
 そして、ちょうど僕が日誌を書き終えた時、横からつんつんと叩かれた。
「何?」
 じゃん、とでも言うように綾時はニコニコとプリントを見せてくる。かつて、僕の古典のプリントだった紙には、余白いっぱいを埋め尽くすように、たくさんの絵が描かれていた。それらは皆、なんとも言えない絵柄をしていた。僕は書き終えた日誌をたたんで、二人一緒にプリントを覗き込む。
「これは?」
「羊」
「山羊じゃないの?」
「羊だよ!ほら、ふわふわでしょ?」
「でも、角が生えてる」
「あれ?羊って角なかったっけ?」
「うーん、あるけど、違う」
 綾時はピンと来ていないようで、首をかしげている。
「これは?」
「鹿」植木鉢に刺さった枝ではなかったようだ。
「これは?」
「君の絵を真似たんだよ」
「猫かと思った」
「えぇ?」彼は、信じられないとでも言うように、大きな目を更に大きく丸くした。かと思うと、へにゃへにゃと風船が萎んでいくように、顔を顰める。
「やっぱり君みたいにうまくは描けないね」
 そう言って彼はシャーペンを放った。うまくできなくて、ぶすくれている子どもみたいに、彼はだらんと力を抜いて、口を尖らせる。
「ねぇ、君が羊の絵を描いてよ」
「え?」
「だって、僕の絵だけあれこれ言われて不公平じゃない?」と彼はまじめくさった調子で言う。「それに、僕は君の絵、好きだよ」
 さっきと同じ、あたたかな毛布のような声だった。
「もうこのプリントに描くとこないけど」
「じゃあ裏面に描いてよ」
 綾時がくるりと紙をめくると、手元でふわりと風が舞った。古典のプリントは完全に、僕らのらくがき帳と化した。
「羊、描けばいいの?」
 彼は、うんうんと強く頷く。僕はふわふわの毛並みと、くるりと渦を巻く立派な角、そして小さくかわいいちょんとした耳を持った羊を描いてやった。
「やっぱり、君の絵は素敵だね」
「そう?」僕はなんてことないように、だけど自然と声が小さく潜めるようになってしまった。
「そっか、羊の角はぐるぐる渦を巻いているんだね」と、綾時ははっとしたように言う。「それに、目が横向きだ」
「その方が、視界が広く見えるからね。生き抜くために必要なんだってさ」
「ふふっ、それ羊に聞いたの?」
 綾時は楽しそうに笑った。
「ねぇ、次は鹿を描いて」
 その次は犬がいいな、と彼は言う。
 僕は、綾時に言われるまま、たくさんの絵を描いた。鹿、犬、山羊、小鳥、ガーベラ、薔薇、飛行機、自転車、バット、ロボット、雪だるま、南瓜、月。なんの脈絡も関係性もない。綾時が見たいものを言われるがまま描き続けて、彼自身も機嫌が戻ったようで、時折あの何とも言えない絵を描き並べたりした。あっという間に、プリントの余白が埋まっていく。
「ねぇ、猫の絵描いて!」
「猫?」
「そう。この前、僕が見た猫」綾時は何かを思い浮かべるように、視線を上へとやった。「街で見かけた子なんだ。あれは、月が綺麗な夜だった。黒くてつやつやの毛並みをしていて、賢そうな顔だった。ぱちりとした瞳は夜空のような青色で、すごくキレイだったんだ」
「よく覚えてるね」
 綾時はふっと笑うだけで、それ以上答えてはくれなかった。
 僕はまた、言われるままに絵を描いてみた。黒い毛並みの猫の絵を。彼はそれをじっと見た後、やがて、ううんと唸り出した。
「君の絵はとっても上手だから……きっと、僕の伝え方が良くないんだろうな」
「これじゃないの?」
「もっと賢そうな顔をしてた」
「賢そうな顔?」
「そう。キレイな顔」
 綾時はこちらをじっと見つめていた。僕は猫の顔を描き変えてみたけれど、やっぱり、少し違うようだった。彼はうんうんと呻く。
「僕の頭の中を、君に直接送れたら良いんだけど」
「嫌だよ、そんなの」
えぇ、と彼は不服そうな声をあげる。それから何度かダメ出しを食らっても、不思議と嫌な思いはしなかった。それよりも、綾時が見たと言う猫を、僕も見てみたくなった。僕は頭の中で、月夜に浮かぶ青い瞳の黒猫を思い浮かべる。猫を探して窓を見るけど、オレンジ色の空と町が見えるだけだった。
 秋の冷たい風が、教室を駆け抜ける。カーテンがふわりと膨らんで、彼の黄色のマフラーが揺れた。
 僕は、ぱっと一つのことを思った。
 そうして、もう一度シャーペンを握り直すと、綺麗な四角い箱を描いた。幼い頃見た記憶を頼りに考え、箱の真ん中に3つほど穴をあけてやる。
「これは?」綾時は心底不思議そうに訊ねた。
「箱」
「え?」
「この中に、綾時が見たがっている猫が居る」
 僕はそう言い切った。きっぱりと、それは堂々と。でも、言い終えてから、だんだんと照れくさくなってきて、綾時の視線から逃れるように、目を逸らしてしまった。
 しばし2人の間に沈黙が流れる。僕は居た堪れなくて、彼の揺れるマフラーの端を眺めることにした。元はと言えば、この黄色のせいで思いついたことだから。恨めしいというよりは、恥ずかしさが優っていた。
 不意に、隣からふふっと息が溢れる音がした。よく見ると、彼は肩を震わせている。「ふふっ、なにそれ」と言う綾時は、ひどく楽しそうで、うれしそうで、ついには「あはは」と大きく声をあげて笑い出した。彼にとっては相当面白かったようで、目に涙を浮かべている。
 想定外の反応に僕は面食らったけれど、ひとまずほっと息を吐いた。
「ねぇ、この紙、貰ってもいい?」と彼は、笑いながら訊ねる。笑いすぎて、息も絶え絶えという感じだった。が、すぐに、しまったと、ゆるまった顔が戻る。
「あ、これ古典のプリントなんだっけ?」
 どうしよう、と慌て出す綾時に、今度は僕がふふっと笑ってしまった。そんなの、今更じゃないか。
「いいよ、あげる。僕、それなくても大丈夫だし」
「え、いいの?」
 僕は自分の成績を改めて思い浮かべる。
「うん。心配だったら、テストが近くなった時に借りれば良い。でもたぶん、要らないと思う」
 綾時にあげるよ、ともう一度伝えると、彼の顔はぱっと明るくなった。
「ありがとう」彼は絵を覗き込みながら言う。「この猫、大切にするから」と。
 それを聞いて僕は、少しだけ心に穴が空いたような心地がした。あの王子さまは、星に帰れたのか。幼い頃のぼんやりとした記憶には、残されていなかった。
 放課後の終わりを知らせるチャイムが鳴って、僕らははっと顔を見合わせた。窓を見たら、日はすっかり傾いて、空の端が暗くなりつつある。
「もういい時間だ。そろそろ帰ろうか」「うん」
 綾時はいまだに、楽しそうに笑っている。
「そうだ、帰りに寄り道しようよ。僕が猫を見たところ、案内してあげる」
「いいの?」
「もちろん」彼は屈託なく微笑んだ。
 彼の深い青の瞳に、青い目をした僕が写る。
 僕は、鞄を手に取ろうと自分の机に目をやった。
「あ」
「どうしたの?」
「日誌、出してない」
「あ」綾時の大きな声が、教室に響いた。




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