水密桃
夕方頃から始まった雨は、未だ止む気配がない。もういっそ、街が水没してしまうじゃないかと思うぐらい、長く、強く降り注いでいた。窓越しに、青色になった世界を眺める。騒々しい夜だった。
今日は、各自が好きに過ごす日のようで、寮にはほとんど人が居なかった。しんと静まり返る中、雨音と冷蔵庫が低く唸る音だけが響く。僕は、片手に桃をひとつ携えて、共用のキッチンに居た。貰いものの桃を撫でて、感触を確かめる。ふわふわとした毛に包まれた桃は、ほどよくやわらかく、鼻に近づけると甘く良い香りがした。食べ頃の、良い桃なのだろう。人助けのお礼として貰うにしては、高価なものに思えた。みんなで食べるのも良いが、悪くなってもいけないし、それに分け合うにしては桃ひとつは小さすぎる。なんて、それっぽい理由をいくつか並べてみてから、僕はこれを独り占めすることに決めた。
しっとりとした空気の中では、冷たい水が心地いい。丁寧に桃を洗うと、ふんわりとした毛は撫で付けられ、ざらりともつるりとも言えない独特の感触だけが残る。水を止め、手を拭うためのタオルを探そうかとして、やめた。どうせ僕ひとりだからと、このまま手で剥いてしまうことにした。短く切り揃えた爪で、桃の皮に傷をつける。そこから、ゆっくりと、千切れないように、つうっと剥いでいく。水で濡れた桃はやわく、冷たく、簡単に剥けた。白と黄色を混ぜたような果実が、桃色の隙間から顔を出す。水と桃の果汁で濡れた手のまま、僕は、同じことを繰り返した。
蛇口から、少しだけ残された水が滴る。強い雨音に混じって、車が走り去る音が聞こえる。まるで、通り雨が過ぎるかのようだった。誰も居ないのに、音に溢れる夜。雨が窓を叩く中、時計の針がやけに大きく聞こえて、瞬間、ふっと世界が暗くなった。
あ、と僕は思わず声を上げる。多くの音が消えた世界に、僕の呟きは吸い込まれ、消えていった。これまでの騒がしさが嘘のように、静けさだけが残る。明かりが消えたキッチンで、かろうじて見える手元。少しベタつく冷たい指先と、半分ほど剥かれた桃。どうしようかと思ったが、仕方がないので、僕は再び桃に爪を立てた。ぺろりと剥けた皮を、シンクに放り投げる。濡れた果皮が積み重なって、小さな山を作っていた。
僕はもう一度、弱い力で果皮を引いたが、ぷつりと途中でちぎってしまった。影からゆるりと人が現れる気配がする。
「こんばんは」
僕のすぐ横から、あどけない声がした。ちらりと声の主を見やると、不思議な青と目が合う。
「こんな夜更けに、なにしてるの?」
「桃を剥いてる」
「こんな時間に?」
「こんな時間だと思わなかった」
雨の日は、いつが夜だか分からなくなる。
彼——ファルロスは丸い目をさらに丸くさせ、それから、ふっと優しく笑った。
「フフ、君も影時間に慣れてきたのかもしれないね。僕が来るのも、分かってたでしょ?」
僕がうんと頷くと、彼は少し嬉しそうに見えた。僕は再び手元の桃に向き直り、作業を続ける。ファルロスは少しだけ背伸びをして、僕の手元を覗き込む。音のない空間に、じっと見つめる視線がこそばゆい。できるだけ気にしないよう努めたけれど、先ほどよりもやりにくいのは確かだった。ようやく最後の1枚が剥き終わり、つるりと丸い果肉があらわになる。ふわりとやわらかそうな白い実に、果皮の桃色がほんのり移っていて、とても美味しそうだった。甘やかな香りが、こちらまで漂ってくる気がする。
ファルロスはとてもおとなしく、黙って僕の方を見つめていた。こうなると、独り占めするわけにもいかない。
「一緒に食べる?」
「いいの?」彼は首を傾げる。
「うん。もうちょっと待ってて」
僕は桃をまな板の上に乗せてから、ベタつく手を洗い流そうと水道を捻ろうとした。がしかし、水が出ない。影時間、という言葉が頭を過ぎる。彼の言うように、存在しないこの時間をすっかり受け入れているのかもしれない。僕は利き手の指先をぺろりと舐めて、拭き取るものを取ろうとした。甘い桃の香りが鼻に残る。周囲を見渡したが、手の届く範囲には何もない。先ほど、面倒だからとタオルを用意しなかったことが、今になって悔やまれた。かと言って、遠く離れた戸棚まで取りに行くとなると、キッチンの床を汚してしまうし、それを片付けるのも面倒だ。
横を見やると、ファルロスは依然として僕の手元を見ていた。もう何も持っていない、僕の手を。
「ファルロス、悪いんだけど」
タオルを取ってくれない? という言葉を、僕は続けられず、代わりに「えっ」と情けない声をあげた。ファルロスは、シンクに向けた僕の手を引いたかと思うと、ぱくりと、人差し指を口に含んだ。
生ぬるい舌が、指先を舐めとる。まるで逃さないとでも言うように、ゆるく歯を立てられて、やわらかな唇が直に触れる。桃と水が混ざった液が手首を伝って、僕を掴んだファルロスの手を汚す。僕の指から、水が滴り落ちて、床を汚した。
言いたいことは山ほどあったけれど、そのどれもがうまく言葉にできず、僕は口を薄く開いたままだった。どうにも止められず、ファルロスにされるがまま、本当はほんの数秒だろうけれど、うんと長い時間が経ったような気がした。何かに満足したのか、ファルロスは何事もなかったかのように、口から僕の指を吐き出し、掴んでいた手を離す。
「これが、甘いってこと?」
「え、まぁ。桃、剥いたし、そうじゃないかな」
ふーん、と彼は何か思う様子だった。「そういえば、何か言おうとしてたね」
「えっと、タオル、取って欲しくて」
「どこにあるの?」
「あそこの戸棚」僕が目線で示すと、彼は素直に取りに行ってくれた。彼がちょんと背伸びをすると、短い髪がふわりと揺れる。
「はい、これでよかった?」
「あ、うん。ありがとう」
僕はそう言って、ようやく桃の果汁を拭う。タオルが指先を包むとき、先の感触が蘇って、胸の内をくすぐられるような感覚がした。その間、ファルロスは再び、僕の手元をじっと眺めていた。
「もったいないね」
「え?」
「それ、拭いちゃうんだ」
甘かったのに、と言った彼は少し不服そうな顔に見えた。
「僕たちが食べるのは、桃の実の部分だからね」
「あの液体は食べないの?」
僕は頷く。だから、普通は人の指を舐めとったりしないんだよ、とも伝えてやった。
「君はやっていたのに?」
少し間を置いてから、やはり「うん」と答えるしかなかった。「難しいんだね」とぼやくファルロスに向かって、僕は曖昧な態度をとることしかできなかった。ファルロスの前では行儀良くしようと、頭の片隅に記憶する。
それから、包丁を取り出して、桃を綺麗に切り分けた。種の周りは四角く避けて、それ以外を四等分してから、ファルロス方をちらりと見て、さらに半分にしてやる。切り分けた桃の下の方を皿にのせ、彼の前に差し出した。
「どうぞ」
「ふふ、ありがとう」
僕がフォークを取り出す前に、彼は素手で欠片を掴んで、口に入れていた。小さめにしてやったつもりだったけれど、まだ少し大きかったようでファルロスは二回に分けて一欠片を食んでいる。あまり食べるのが得意じゃないのか、みるみる内に手や口周りが汚れた。やわらかな頬が動き、新鮮なのか、丸い目が更に見開かれる。
ごくりと飲み込み終えてから、彼は「おいしいね」と屈託なく笑った。桃の果汁が手首を伝って、服を汚しそうになっていたから、僕はタオルを持って彼の前にしゃがみ込んだ。
「両手、貸して」
ファルロスは手を前に出す。彼があまりに素直だから、口元が少し緩んだ。僕は、彼の傷ひとつないやわらかな手を、そっとタオルで包み、拭き取ってやる。
「桃って良い匂いがするんだね」「うん」
「甘いね」「桃は下の方が甘いんだ」
「でも、手がぺたぺたする」
「それは、素手で食べたからだよ」
僕はついでに、彼の口まわりも拭いてやった。ファルロスはくすぐったそうにしてから、「ありがとう」を言った。
「ねぇ。また今度、なにか食べ物を用意してよ」
「なにかって?」
彼はうーん、と少し考え込む素振りをしてから、「君の好きなものが良いな」と告げた。随分と曖昧なリクエストだと思ったけれど、僕は「いいよ」と頷いた。次に会える夜までに、何にしようかと考える日々も、悪くないと思えたから。
「それじゃあ、楽しみにしてるよ」
ファルロスはふわりと笑う。そして、いつものように「おやすみ」を告げて、彼は掻き消えた。
ぱっとキッチンが明るくなる。小皿に乗せられた桃と、僕の手に残されたタオルが、蛍光灯の元であらわになる。冷蔵庫が低く唸る音が、再び響く。
僕にとっては小さすぎる桃の欠片を、行儀悪く手で摘んで口に入れる。人肌でぬるくなった桃は、変わらず甘かった。
雨音が、騒がしく聞こえる。