永遠のファミレスに、ふたり
※ パロ。ゲーム『ファミレスを享受せよ』の内容を含みます。
◇
月明かりに照らされたテーブルを、僕らは好んで利用していた。異様なほど明るく、模様一つない月。そこには、兎も蟹も鰐も居ない。延々と続く暗い空にパチンと穴を開けたみたいに、計算された美しい円が浮かんでいて、まるで全部が偽物のようにも思えた。
「君は、現状に満足していないみたいだね」
「そりゃね」
僕は窓の外の景色から目を離した。ドリンクバーから戻った綾時が、僕の前に腰掛ける。透明なグラスには、銀色のどろりとした液体が注がれていた。
ここは永遠のファミレス。扉やポスターを見るに、『ムーンパレス』という名前らしい。ここには、僕と綾時以外、誰もいない。他の客も、店員すらも。どれだけ時間が経ったのか、もう分からなくなってきた。退屈で憂鬱で、何も無い日々が延々と続く場所。僕らはここに、閉じ込められている。
「ねぇ」綾時は口を開く。彼はいつでもどこでも、にこやかで穏やかで、楽しそうにしていた。「せっかくだからこの時間を楽しもうよ。月は満ちに満ちているし、ここにはドリンクバーだってある」
そう言って、綾時は僕に見せるようにコップを持ち上げ、口をつけた。銀色の不思議な液体が減っていく。硬いテーブルとグラスがぶつかって、コンと音がなった。
「それに、君だって一緒だ。これ以上望むものは、何もないよ」
「たったそれだけで良いなんて、随分と控えめだね」
「そうかな?」彼は少し目を伏せて、両手でグラスを包み込んだ。「僕にとっては、それで十分だよ」
綾時はグラスの縁の方を見つめていた。その姿を、僕は見ている。僕らの目が合うことはなかった。
「君がいて、僕が居る。それが確かなら、僕はそれで良いんだ」
それに対して、僕は何と答えるべきか分からなくて、ただ彼の目を見つめていた。逸らされた青い目。綾時が何かを祈るように、願うように話すものだから、心が急激に波立つのが分かった。僕は今、僕の中で、何か強いものが巻き上がっている。それは周りを傷つけ、痛めつける、嵐のようなもの。それが何という名前なのかは、まだ分からないけど、ただ、腹の辺りで漠然とした不安のようなものを感じた。
そんなもの祈らなくたって、僕らは一緒に居られるだろうに。彼は少しの寂しさを滲ませて、まるでそれが叶わないみたいな言い方をする。こういう時の綾時は、同じ場所にいるはずなのに、ずっと遠い違う世界を見ているみたいで、それが少し苦手だった。思ってもない言葉が、胸の辺りからせり上がり口から飛び出してしまいそうで、僕は息を飲み込んだ。それから、飲みきれなかった感情を呼吸に混ぜ込んで、「ふーん、そっか」とだけ言った。
僕は、あっと思う。顔を上げた綾時と目があったから。すると彼は、ふっと優しく笑ってみせた。春の風が吹きつけたような心地がして、どきりとする。
綾時は時々、この表情を浮かべる。彼の持つ、みんなに向けられた優しさや幸福感とは少し違う、何かあたたかくて寂しいものを含んだ笑顔。その顔を向けられると、僕はまっすぐ届けられた感情に少し目を逸らしたくなって、だけど逸らせなくて、どうしようかと困りながらもやわらかな気持ちでいっぱいになる。ここに来てから、綾時はそういう顔や声色で、僕に話しかけることが増えた気がした。
前に、退屈に飽き飽きした僕が、大きなあくびをした時。自然に生まれた涙が目に溜まり、ついに溢れてこぼれ落ちた。その瞬間、彼は何を思ったのか、僕の方へと手を伸ばし、目尻から頬を指先で撫でた。僕は驚いて、瞬きをする。さらに涙がこぼれ落ちたけれど、彼が僕の涙を拭うことは、もうなかった。
「僕ね、こんなだけど泣いたことないんだ」
「意外だね」本当は、意外かどうかなんて僕には分からなかったけど、文脈上そう答えた。
「泣きそうになる時とか、胸が張り裂けそうになる瞬間はあるんだ。だけどね、どうしても涙はでない。本当は僕も泣き叫んでしまいたいのに、うまくできなくて。それってもしかして、僕が薄情だからなのかも、とか思ったりして」彼は、僕の涙で濡れた指先を眺めた。「涙って、あたたかいんだね。いや、君の涙だからかな?」
彼の問いかけは、誰に向けられたものでもなかったのだろう。だけど僕は、少しだけ小さなころの自分を思い浮かべていた。それから、涙の温度について、考えてみる。あたたかい涙、冷たい涙。生温い涙。それはその時々だろう、と僕は思う。じゃあ今の涙は?「きっと、あたたかいのは、僕が眠たいからだよ」
綾時のまるい瞳がさらに大きく見開かれて、ぱちぱちと瞬きをする。それから、あははと彼は大きく笑った。つられて僕も、ふふっと笑う。
「そっか。そういうこともあるんだね」
僕はうんと頷いてから、慎重に言葉を考え、選択する。
「僕は別に、涙がすべてじゃないと思うよ」
「え?」
「泣くとか、泣かないとか、そういうのはどうでもいい。気にしたこともなかった」綾時は僕の方へと向き直り、たどたどしい僕の言葉に耳を傾けてくれていた。僕は「うまく言えないけど」と前置きを付ける。「少なくとも僕は、綾時が涙を流せなくても、それを薄情だからだなんて思わない。涙を流すことさえできないほど、苦しい時だってある」
「ふふ、そっか。それもそうだよね」
この時も彼は、ふわりと優しく笑ってみせたんだ。
僕は意識を、今の時間に引き戻す。綾時は、ぼんやりと月を見ていた。手持無沙汰になった僕は、そっと目を瞑り机に伏せる。ここじゃ眠れないことを、知っている癖に、向かい側から「おやすみ」が聞こえた。
目を閉じて、僕はだいぶ前の出来事を思い出していた。正確には、ムーンパレスに来て、現状を理解し始めた辺りの頃のこと。体感的に"だいぶ前"の出来事だ。
僕らはここに来たとき、幸か不幸か、二人とも大きく取り乱すようなことはしなかった。最初は警戒しながらも、慎重にあちこちを探ってまわり、何か武器になればと用具入れから持ち出したモップや箒を片手に探索していた。
次第に、ここには僕ら以外誰も居ないこと、時間の流れが曖昧なこと、ドリンクバーがあること、砂糖やシロップは無限に生まれること、外には出られないことなんかを、体験して、理解した。誰も、説明はしてくれはしなかった。
「ここは永遠のファミレスだね」なんて綾時は言っていたけれど、僕はそう思えない。だってまだ、誰も永遠を体験していない。気の遠くなるような悠久の時をここで過ごしたような気がするけれど、時間は有限だ。いつか必ず終わりがある。たとえそれが、腹も空かない、眠れない、死ぬこともない、異空間のファミレスだったとしても。
一通りの探索を終えて、ドリンクバーにも慣れ始めた頃、暇を持て余した僕らは、かろうじて持っていた紙とペンで、延々と絵しりとりを続けることにハマっていた。そんな中、僕が一生懸命イッカクの絵を描いている間に、綾時はどこからか一つの箱と本を見つけてきた。
「それは?」
「えっとね、こっちは『まちがいさがし』だって」彼は正方形をした本を僕に手渡してくる。表紙には、ムーンパレス特有の横を向いた三日月のキャラクターが描かれていて、その上に『まちがいさがし』と書かれていた。「ねぇねぇ、見てみようよ」
「うん」
僕は向かい側に座る綾時にも見えるように、まちがいさがしの向きをくるりと回してから、厚紙のような質感の表紙を開く。中身は至って普通の、よくあるファミレスの間違い探しの絵本に思えた。
「あ、ここ違う」
「これもじゃない?」
「本当だ、色が違うね」
互いにパッと見で分かる簡単な間違いを指摘する。謎解きはテンポ良く進み、次々とページをめくる。どうやら、この絵本はひとつの繋がった物語になっているようだった。物語が後半になるにつれて、よくよく目を凝らしても分かりにくいような、難しい間違いが増えてくる。真剣な眼差しで絵本と向き合う綾時の横顔は、少し面白かった。
すでに飽きていた僕は「あげるよ」と彼に『まちがいさがし』を託して、空になったグラスと共にドリンクバーへと席を立つ。ついでに、周囲を探索して回ったけれど、絵本や箱が置いてありそうな場所なんて、どこにもなかった。少なくとも、二人で回った時にそれらはなかったはずだ。砂糖やガムシロップのように、時間経過で現れるものなのだろうか?それとも、ゲームみたいに一定の条件をクリアすれば渡されるものなのか?条件とは何だ?そもそもここは何だ?
未知のものに対する不安や恐怖がごちゃ混ぜになった何かが、腹の底からぶわりと湧き上がり、大きな波となって僕を飲み込んだ。自然と、グラスを握る手に力が入る。長いこと剣を握っていない両手は、いつの間にか普通の高校生と同じような、やわらかで傷一つない手になっていた。もしも何かあった時、僕は動けるのか、もう分からなくなっていた。
月はこちらを見ている。月はどこからでも、僕らを見ている。僕は少し早足で、テーブルに戻る。はやく綾時の元に帰りたかった。
「おかえり」君が言う。
「ただいま」僕は答える。
「ねぇ、これ何? 動物?」綾時は僕の絵を指さす。
「それ答えたら、絵しりとりにならないでしょ」
うう、と彼は言葉に詰まる。「じゃあヒント。ヒントちょうだい」
「海の生き物」
「もう一声」
「長い角が一つ付いるけど、それを何に使うのか、いまだによく分かってないらしい」
「えぇ、なにそれ」綾時はうんうんと唸りながら、シャーペンをくるくると回す。ペン回しはここに来てから僕が教えたものだけど、随分と上手になったと思う。先ほどまで彼が夢中になっていた『まちがいさがし』はたたまれていて、テーブルの隅に置かれていた。バーコードも出版社も書いてないつるりとした裏表紙が見える。
「あれ、やめちゃったの?」
「うん。全部おわったんだ」
「おぉ」僕は控えめに拍手をしてみせると、君はわざとらしく得意げな表情を見せる。「それ、どこで見つけたの?あちこち探索したけど、分かんなかった」
「えっとね」彼はペンを止めて、何かを思い出すように、目線を上に向ける。「たしか、『まちがいさがし』はドアの方で見つけたよ」
「あの不思議な絵があるところ?」
「そうそう。あれ、余白が気になるよねえ」そうだな、と僕も思う。ドアの前に掛けられた三日月の絵。だがなぜか、絵の大きさに対して三日月が端によっていて、絶妙な余白がある作品なのだ。
「それから、この箱は、テーブルの上に置いてあったんだ。ほら、あの辺りの」
彼が指さす方には、無人のボックス席があった。ここと同じ、カトラリーとメニュー風の板だけが置かれているテーブル。
「前に探索したとき、どっちもなかったよね」
「うーん、誰かがこっそり置いたんじゃない?」
「誰かって?」
「店員さんとか」
「これまで一度も見てないのに?」
「案外、テーブルの下とか、冷蔵庫の中に隠れているのかもしれないよ」
そんなことあるわけ、と僕は言おうとして、やめた。この奇妙で非現実的な空間では何が起きてもおかしくない、と思い直す。「あとそれ、何なの?」僕は先ほどから質問してばかりなのに気がついて、少し申し訳なくなる。しかし、綾時は気にする素振りはなく、「これ?」と僕が指差す箱をこちらに差し出した。「箱、だと思うけど、鍵がかかっているみたいで、開かないんだ」
ふーん、と言いながら僕は箱を手に取りいじってみる。ペンケースのような形をしていて、蓋の表面には十六個の模様が綺麗に並んでいた。
「あ」僕らの声が揃う。模様を触ると、蓋に描かれた記号が変わった。ポチポチと触っていると、記号は全部十種類と分かる。
「これ、数字じゃない?」綾時が言う。
「僕もそう思ってた」
「パスワード式?」
「十六桁の暗証番号?」
僕らは顔を見合わせた。
「心当たりはある?」僕は訊ねる。
「ない」
「だよね。何かヒントとかないのかな?」
「今のところ、見てないよね」
ふう、と僕はため息をつく。嫌な考えが頭をよぎる。
「総当たりかなあ?」
こちらの考えを汲みとるように、綾時が声に出した。僕はぎゅっと顔を顰める。
「何通りあると思ってんの」
「全然分からない」
「十の十六乗だよ」
「それってどのぐらい?」
僕は、絵しりとりをした紙の隅っこに計算してみせた。0がたくさん並んでいる。
「わぁ」綾時が声をあげて以降、僕らは黙り込んでしまった。そろって箱を見つめる中、どうしよう、という空気が二人の間で流れる。ただ、先に動いたのは綾時の方だった。彼は黙々と、記号を一つずつ変え始めた。
「本当にやるの?」
「うん。せっかくだからね」
「中に何があるか分からないのに?」
「サプライズみたいで楽しみだよね」
「爆発するかもよ?」
「ここでは死なないよ」
僕は、彼の口から死という言葉が出てきたことに、少し驚いた。
「ここでは時間が有り余っている。さすがに一人では難しいかもしれないけど、僕らは二人だ。この状況で、この箱が現れたってことは、むしろ総当たりが正解かもしれないよ」
ぱちりと目を開けた僕は、身体を起こした。どれだけ変な姿勢で突っ伏していたとしても、体が痛むことはない。
「あ、おはよう」
僕はうんと頷きながら、手元の箱を手繰り寄せた。蓋を開くと、重厚な入れ物に鈍い金色のストローが仕舞われている。
このストローで月の涙を飲む
という文言が書かれた蓋の裏を、僕はじっと眺めた。
僕らは、とてつもなく長い時間をかけて、十六桁の総当たりを成し遂げたのだった。年数に換算したら、体感として十万年以上経ったような気さえする。気が遠くなるような作業だった。それでも、気が狂うことはなく、こうして生きているのは、僕らが孤独ではないことが大きいのかもしれない。
ふう、と僕はため息を吐く。正確には、音を込めた息のようなものだった。よし、と小さく呟いて、僕は立ち上がった。ストローを片手に持って。
「使ってみるのかい?」
「うん」
「そっか。いってらっしゃい」
一緒に来るかと聞こうとして、やめた。綾時は箱を開けて以降、あまり興味が失せたようだった。僕は迷うことない足取りで、ドリンクバーへと向かった。何度も辿った道。もはや、目を瞑ってでもドリンクバーにたどり着ける自信がある。
せっかくなので、新たなグラスを一つ選んで手に取る。じんわりと温かい。箱に書かれた指示通り月の涙を注ぐと、グラス越しに冷たさが広がってくる。
それから僕は、黄金のストローをさした。少し躊躇ったけれど、ストローに口を付け、飲み込む。しゅわしゅわとした感触が口に広がる。いつもの、『月の涙』だ。
特に何もないじゃないか。そう思った瞬間、頭の奥が急に重たくなった。重みのせいか、思考が鈍る。視界がだんだんと狭くなり、暗くなる。
眠い。
そのことに気が付いた時には、既に遅くて、綾時の大声が遠く聞こえた。
そのまま痛みを知覚することなく、僕の意識は消え失せた。
◆
「やあ」
誰かの声がする。僕の意識は段々と浮上する。次第に、自分の輪郭が掴めてきて、今の僕は椅子に座って、机のようなものに突っ伏しているのが分かった。痛む頭を抑えながら、ゆっくりと顔をあげる。
「おはよう。目は醒めたかい?」
僕は何度かまばたきをして、目の焦点を合わせた。揺れる視界が一つに定まり、目の前の少年を捉え始める。不思議な青い瞳に、目を奪われる。
「長い間、君を待っていたよ」
あ、と声をあげそうになるのを、すんでのところで抑え込んだ。
ふわりと笑った少年の顔。やさしい声色。青い瞳と泣き黒子。そのどれもが全部、望月綾時にそっくりだったからだ。