換羽
※ 謎時空。同居する二人
◇
一つ、家事は分担すること。
二つ、遅くなる時はきちんと連絡すること。
三つ、何かあったらちゃんと相談すること。
四つ、二人で暮らしていることを、忘れないこと。
以上が僕と綾時が一緒に暮らすときに決めた、この家の約束だ。
◆
力を込めて窓を開けると、冷たい空気が入り込み身体がぶるりと震えた。コンセントを差し込んで、重たい掃除機を持ち直す。スイッチを押すと大きな音と共に、少しほこりっぽい匂いが舞う。そろそろ替え時なのかもしれない、なんてことを思いながら、僕は掃除機を前後に転がした。実際にどれだけの汚れが吸えているのかなんて分からないけど、何もしないよりはマシだろう。
今日の当番は僕が掃除と洗濯で、綾時が食事と買い出し担当だった。正確には、基本的にこの組み合わせで固定されていて、どうしても綾時が難しい時だけ、僕が食事当番を請け負う形だった。僕は作るというより、食べる専門で、綾時は練習すれば何でも器用にこなせる性質だったから、自然とそうなったのだ。
時計を見ると、時刻は十二時ちょっと過ぎを指している。朝起きるのが遅かった僕は、まだ食事らしい食事を取っていない。空腹で締め付けられる胃を気にしながらも、急いで掃除機をかける。そろそろ綾時が昼食を作り終える頃だから、それまでに彼の部屋だけでも片づけておきたかった。同居を始めて数ヶ月。綾時の部屋は綾時が居ない時に済ませておくと効率が良い、ということに僕がだんだんと気づき始めていた頃だった。
ボロになった掃除機はタイヤの回りがとても悪く、半ば引き摺るような形で家のあちこちに移動させている。特に綾時の部屋にはカーペットが引いてあるから、ホースのところをぐっと引っ張るようにして動かす必要があった。そのうちどこか破けてもおかしくないなと思いながらも、僕はやめなかった。彼の部屋は常に綺麗に整えられており、掃除の手間が少ないのは利点だ。整理整頓されている、というよりは、必要最低限の物しかないというのに近い。とは言っても、例えば順平から借りた漫画や、ゲームセンターで取ったぬいぐるみ、出かけた先で買ったお菓子の空き箱など、様々な物が飾られている。誰かとの思い出が詰まった綾時らしい部屋。ただ、この床だけは切実にどうにかして欲しかった。やっぱり、掃除機を買い替えたい。後で綾時に相談しなきゃ、と僕は強く思い直す。重たい掃除機を一度持ち上げて、言うことを聞かない犬のリードを引っ張るように、方向転換をする。本体と棚がぶつかってドン、と鈍い音がした。あ、と思った時には既に遅く、不安定に置かれていた一つの空き箱が、ばさりと床に落っこちた。
「え?」僕は思わず息を飲む。やわらかなカーペットの上に、鳥の羽のようなものが散らばっていた。それらは夜空のような黒をしていて、淡く青に発光している。箱の中から、雪崩を起こしたような形で、大量の羽が仕舞われているのが見えた。綺麗だったから拾ってみた、では説明がつかない。意図的に収集しているようにしか思えなかった。これは何だ。どこから取って来た。何で集めている?いやそもそも、光る羽って存在するのか?たくさんの疑問が次々と浮かんで、消えることなく居座って、僕の思考の邪魔をする。色々な可能性が思いついては消えてを繰り返し、最終的に残ったのは、困惑だけだった。
「おーい、ご飯できたよ!」
綾時の大きな声がここまで届いて、僕はハッとする。時計を見ると先ほどから十分近く経っている。固まっていた思考がようやく動き出し、とりあえず散らかしてしまったものを片付けようと、羽の一枚に手を伸ばす。触れると、少し光が増したような気がした。淡く輝くこと以外は、何の変哲もない鳥の羽のように思える。やわらかな毛にはできるだけ触れないように、筋の方をそっと持ち、元の空き箱に詰めていく。すべての羽を仕舞い終えると、おおよそクッキーの空き箱の半分を埋める程度の量があった。中には、薄っすら血のようなものが付着した羽もあり、背筋がゾッとする。空腹とはまた別に、腹の奥が締め付けられるような嫌な感覚がした。あまり綾時を待たせたくなくて、箱を置き、僕は部屋を後にした。
リビングに行くと、ちょうど綾時が皿に盛りつけたホットケーキを並べている所だった。焼きたてふわふわのホットケーキの上には、すでにバターが乗せられていて、少しずつ溶けて滑り出している。
「部屋の掃除は順調そう?」
「あ、うん」僕は少しぎこちない返事をしてしまったが、彼は食事の準備で気がついていないようだった。
「今日のホットケーキは、クランベリーとナッツ入りだよ」
「ふーん、豪華だね」
「君、今日はまだご飯ちゃんと食べてないでしょ?だから、ちょっと贅沢にしてみたんだ」
機嫌の良い綾時の真向かいに、僕は腰かける。ここが僕らの定位置だった。色違いで揃いのマグカップに、淹れたばかりのあたたかな紅茶が注がれる。「ありがとう」彼はにこりと微笑んだ。
二人で一緒に「いただきます」を言う。バターの沁みた表面と、ベリーやナッツの詰め込まれた生地はボリュームがあって、甘さと酸味がちょうどよく、口いっぱいに美味しさが広がる。ちらりと綾時の皿を見ると、彼の方には少し焦げ目のついたホットケーキがよそわれていた。おそらく、僕の方が焼きたてで、上手に作れた方なのだろう。彼はいつも、できるだけ良いものを僕に与えようとしてくれる。そんなの、どっちだって構わないのに。視線に気づいた綾時が、「ん?」とこちらに目を向けるので、「おいしいよ」と思ったままを口にする。
「本当? よかった」綾時はゆるゆると笑うので、僕は少しだけ照れくさくて、視線から逃れるように青いカップに口を付けた。ほっと落ち着けるような、美味しさだった。おかげで段々と、頭の中で整理がついてきた。何を、どうやって聞こうか。
食事をぺろりと平らげた僕らは、揃って「ごちそうさま」と「お粗末さまでした」を口にする。「ねぇ」と僕が続けると、綾時はわざわざ食器を片付ける手を止めてこちらを向いてくれた。「それ終わったらで良いから、ちょっと話したいことがある」
「うん?分かった」
「ありがとう」僕は自分の食べた皿を、綾時の手から奪い取った。
「手伝うよ」
「ありがとう」彼は笑った。
二つのマグカップと紅茶だけを残して、テーブルの上を綺麗に片付けた。僕らは向かい合って席につく。
「それで、話って何かな?」綾時は首を傾げる。僕は、うんと頷いてから、「ちょっと待ってね」と席を離れた。綾時の部屋に行くと、先ほどと変わらぬ位置に空き箱は置かれていた。もう一度蓋を開けてみるも、中身は変わることなく、淡い光を放つ羽が敷き詰められている。蓋を閉め、僕は深呼吸を一つした。
空き箱を持って戻った僕を見るなり、綾時はぴたりと固まって、丸い目をさらに大きく見開いた。先ののんびりとした雰囲気から感じていたけれど、まさか自分の話をされるとは思ってもいなかったらしい。箱を挟んで、僕と綾時は向かい合う。僕はそっと、彼の方へ箱を寄せた。
「これ、さっき掃除してた時に落として。それで、中身、見ちゃった」少し、緊張して、僕は自分の髪や首元を触る。「ごめんね」
「ううん、大丈夫」綾時の表情はぎこちなく、僕にはできるだけ笑おうと努めているように見えた。何かを恐れているようにも感じる。
「僕の方こそごめんね。びっくりさせちゃったでしょ」
僕は曖昧に頷いた。それきり僕らは黙ってしまって、部屋がしんと静まり返る。外で車が走る音が、やけに鮮明に聞こえた。
「その中身のこと、聞いても平気?」慎重に、言葉を選んで伝える。綾時は「うん」と、しっかりとした面持ちで頷いた。「いつか、君にもきちんと伝えなきゃって思ってたことだから」
「あのね」僕は口を開く。「別に、無理に話せとは言わないよ。確かに、びっくりはしたけど、でもそれだけだし」綾時の青い目がこちらを向く。ようやく、彼と目が合った。僕は、伝えたいことがきちんと届くように、先ほど考えて用意した台詞をなぞる。
「ただ、もしも何かあるんだとしたら……と思ったら、見なかった振りはできなくて」僕は指を三つ立てた。「僕らの約束、覚えてるでしょ?」
三つ、何かあったらちゃんと相談すること。
「もちろん、忘れるわけないでしょ」
そう言った綾時の声が、少し硬いことに気がついた。彼も緊張しているのだ。彼ははぁ、と音を込めたため息をつく。「君は優しすぎるよ。本当なら、もっと慌てて、僕を質問攻めにしたって良いぐらいだよ」
「そうかな?」首を傾げた僕に、綾時はふっと笑い返した。
「大丈夫。ちゃんと君にも説明するから。だから、そんな顔しないで」
「え?」小さく声を上げた。
「気づいてないの?すごく緊張していて、それで、僕には寂しそうな、悲しそうな顔に見えたよ」
今度は僕が、目を見開く番だった。綾時に言われて、僕はようやく、あの時感じた腹の奥の不快感の理由が分かった気がした。僕らの間に秘密があったことが、少し、寂しかったのかもしれない。ただそれを、敢えて言葉にすることはしなかった。
綾時はやわらかな笑みを浮かべて、僕の方をじっと見ていたが、すぐに視線を箱へと移し、それからそっと蓋を開けた。中には、見間違えなんかじゃなく、たくさんの羽が仕舞われている。綾時は目を伏せて、少しの間黙りこくった。僕はマグカップに口をつけ、すっかり冷たくなった紅茶を飲み込んだ。ひやりとしたものが、喉を通り胃に届くのが分かる。
綾時はふうっと息を吐いてから、覚悟を決めたように、僕の方へと向き直った。「信じてもらえないかもしれないんだけど」という前置きと共に、彼は語りだす。
「これはね。全部、僕の羽なんだ」
一瞬、彼の言葉が理解できなくて、反応することも思考することもできなかった。彼は今なんて言った?
「君に心配はかけたくないし、あんまり見せたくはないんだけど」と言い、立ち上がった彼は服を捲って、背中を僕に見せてくれた。
あ、と思わず声が上がる。生理的に、ぞわりとするものが体を走る。悲鳴はギリギリ飲み込んだ。
日焼けしてない真っ白な肌。その一部、腰のあたりと肩甲骨のあたりだけが、黒とも青とも言いようのない、まさにあの羽と同じ色に変色していた。ふわふわとした毛先のようなものが見え始めているところもあれば、おそらく肌の下に埋まっているのだろうか、皮膚が盛り上がっている所もある。よくよく見れば黒いだけでなく、赤く擦れたような傷がある部分もあり、骨や血管が浮いて見える。他の肌が綺麗な白をしているせいか、まだらで奇怪な背中は、余計に目立っていた。現実味のない光景に、心臓が跳ね上がるのが分かる。見ていて心地の良いものではない。だけど、僕は決して目を離さないように努めた。
「こんな感じでね、月に数回羽が生えて、そのまま剥がれ落ちるんだ」
「剥がれ落ちる」
「うん」彼は服を直し、僕の方を向く。「あ、痛くないから安心して」
「いや、うん。それも大事だけど」何と言って良いのか分からなくて、もごもごと言葉を詰まらせる僕に,綾時は困ったように笑った。
「ごめんね。びっくりさせちゃったでしょ? 気味悪かったよね」
そんなこと、と言おうとして僕は口を噤んだ。
「確かに、びっくりした」「ごめんね」
「ゾッともした」「うん」
「今も、何が何だか分かんない」「そうだよね」
「でもね」僕は、僕の言葉が正しい意味で彼に届きますように、と祈る。
「ちゃんと話してくれて、すごく嬉しかった」
「え?」
「怖がらせるかもと思って、黙っていたんでしょ?」
綾時は少し間をおいてから頷いた。困惑した様子が伝わってくる。
「別に、そんなので嫌いにはならないよ。それよりも、大事なことを内緒にされた方がよっぽど嫌だ」
「ごめんね」
「怒ってるわけじゃない」
「じゃあ」「何って?」彼の言葉を先回りして続ける。「確かに、内緒にされたのは悲しかったけど、それが僕らのことを考えた結果なんだって分かったから、今はもう気にしてないよ」僕は緊張がほぐれて、自然と顔が緩まるのが分かった。
「ありがとう。ちゃんと話して、教えてくれて」
綾時が僕に誠実であろうとしてくれたのは、とてもよく伝わってきたから。そうであるなら、僕も同じように返したい。
言いたいことは言い切ったぞ、とでも言うように僕は紅茶を飲み干した。綾時はひどく不安そうで、怯える子どものような顔をしていたけれど、いつの間にか、ほっといつもの表情へと戻っていた。
「僕の方こそ、ありがとう」
「うん?」
「僕の話、ちゃんと聞いて、信じてくれて」
「そりゃね」僕は笑った。「僕たち、一緒に暮らしてるんだから」
綾時は数拍黙り込んだ後、あははと大きく声を上げて笑った。
「そうだね。それが、僕たちの約束だ」
彼は、自分の黄色いカップに口をつけると「わぁ、冷たい」と騒がしくしていた。
「僕の聞きたいことは、これで終わりだけど。君の方で、何かある?」
「え、これで終わりなの?」
「うん」
「もっと聞かなくて良いの? これ何? とか、どうしてこんなことになってるの? とか」
僕は少し考える。がしかし、やはりさほど興味はなかった。僕は、僕らの暮らしが続けられれば、それで良かった。「別に、どうでもいいかも」
「そ、そっか」
「あ、でも何か体に負担があったりするの?」
「それは」綾時は言い淀む。「まだ、よく分からないんだ」
「分からない?」
「羽が剥がれることで、皮膚が薄くなるみたいで、前よりは傷つきやすくなったと思う。でも、時間が経てば元に戻るから、今の所は平気」
「それは、平気と言って良いの?」
「分からない」綾時がマグカップを持つ手に力を込めるのが見えた。「自分のことだけど、あまり良く分かってないんだ」
ごめんね、と彼は力無く笑う。
落ち着いたと思った心音が、再び大きく耳を塞ぐ。それは、全ての生き物に永い眠りを誘うような、冷たい冬のことだった。