ないものねだりキャットファイト
Side. A
休日昼過ぎのラウンジで、ひとりホットケーキを食べているあなたを見かけた。口いっぱいにやわらかな生地を頬張るあなた。わたしはいつものように隣に座ろうとしたけれど、あなたの方から「前、座る?」と訊かれたので、向かいの椅子に腰掛けた。
あなたの前に置かれたホットケーキ。少し時間が経っていて、表面の温度は下がりつつある。人の目では分からないだろうけれど、裏面の一部が焦げているのが、わたしには分かった。あなたは、ナイフとフォークを器用に動かし、生地の裏の様子を伺う。元に戻すと、ぽんと軽い音がした。それから、場所を選んで、先ほどよりも少しだけ小さく切り分けたホットケーキにたっぷりとシロップをつけたものを、わたしの前に差し出した。
「食べる?」
「え」
「欲しいのかと思って」
どうやら、勘違いをさせてしまったらしい。
「いいえ、要りません。お気遣い、感謝いたします」
あなたは、「そっか」と言いながら、差し出したフォークをそのまま口に運ぶ。裏は、焦げていなかった。
学校であなたを見かけたとき、あの日のホットケーキを思い出した。放課後の、誰もいないはずの調理室。あなたと彼が一緒にいる反応があったから、わたしは急いでそちらに向かった。直感、なんて機械であるわたしが言うべき言葉ではないのは分かっている。だけど、他に表現する言葉が見つからない。とにかく、彼はダメなのだ。彼は、彼だけは。彼はきっと、あなたを傷つけるから。
調理室の前に着くも、大きな物音はせず、とりあえずあなたが無事なことに安堵した。扉を開けてやろうかと手にかけたが、なぜだか腕を動かせなくて、掴む先を見失った手は宙ぶらりんになる。わたしの耳なら、扉越しでも二人の会話はよく聞こえる。
「あ、ちょっと焦げてる」
「言ったでしょ?あんまり期待しないでって」
甘い焼き菓子の匂いが、こちらまで届いてくる。ふんわりとあたたかな気配がする。成分から言って、おそらくカップケーキだろう。ぺしっと乾いた音が聞こえて、彼の悲鳴が小さく聞こえる。
「熱いから、まだ触っちゃダメ」
「叩く前に言ってよ」
ふふふ、と笑い合う声がする。ちらりと小窓から覗くと、あなたが包丁を器用に扱って、ケーキの焦げた表面を削り落としているのが見えた。焼いたばかりの綺麗なケーキは彼の方へとよそわれて、あなたは、黒く焼けた小さな欠片をひょいと摘んで、食べていた。
わたしは、いつの間にか自分のリボンを強く握っていた。あなたが誰かのために、わざわざ焦げ目の少ない所を選んでくれたこと。あなたがそういう人だということを、知っているのは、わたしだけじゃなかった。
あの日の思い出が、ぐしゃぐしゃに丸められた気がした。
◇
Side. R
「それ、どうかしたの?」
「え?」
君は生地を混ぜる手を止めて、僕の方へ顔を向ける。放課後の、誰もいない調理室。今日は僕の我儘で、君にカップケーキを作ってもらう約束をした日。寮生活で慣れている、とは聞いていたけれど、確かに段取りも良く、たくさんのことを並行して調理を進めている姿は、見ていて気持ちの良いものだった。
僕は、泡立て器を持つ君の手を掴む。僕よりも小さな白い手には、いくつかの傷跡があった。
「この傷、昨日はなかったと思ったんだけど」
「あぁ」君は少し目を逸らした。「昨日、寮でちょっとね」
それだけ言って、君は僕の手からするりと抜け出して、再びシャカシャカと生地を混ぜ始める。初めて触った君の手は、白くやわくあったけれど、傷跡だけじゃなく皮が剥けて硬くなっている所や、マメが出来ているところもあって、ほんの少し、思っていたのと違っていた。
完成したカップケーキは、少しだけ焦げていた。君は、焦げ目を丁寧に削ぎ落とし、綺麗なところを僕にくれた。一口齧るとあたたかくて、ふんわりしていて。優しさと甘さがぎゅっと詰まった味がする。
「すごく美味しい」
「そう? なら良かった」
君はほっとしたように、目尻を下げた。僕がケーキを食べている姿を、君はぼんやりと眺めていて、それを僕も見ていた。君の青い瞳が、僕とケーキを映す。穏やかな時が流れた。ケーキみたいに優しい甘さと、あたたかい時間。
もう少しこうしていたいな、なんて口に出してみようとした時、ガラガラと引き戸が開く音がして、君の目線は音の主に奪われた。
「待ってください」
「アイギス?」君は彼女の名前を呼ぶ。彼女は一瞬僕の方に鋭い視線を送った後、すぐに彼の方へと向き直った。
「あなたは、まだ昨日の怪我が治っていないでしょう?その手で、水や泡を触ったら、まだ痛みがあるのではありませんか?」
「いや、もう大丈夫だって」
彼女は躊躇いなく君の手を取ると、そのままくるりと翻し、強引に椅子に座らせた。
「あなたに何かあっては困ります。後片付けは、わたしがやりますから」彼女はきゅっと険しい顔をする。
「僕も手伝うよ」立ち上がり、アイギスの方へと近づいて、彼と彼女の間に入る。「僕の我儘に付き合ってもらったんだから、そのぐらいはさせてよ」
君は困ったように頬をかく。「ね、それならどうかな?」今度はアイギスの方へと向き直り、念押しするように訊ねたが、彼女は何も返してくれない。
少しだけ時間を置いてから、「あなたは」とアイギスが口を開いた。「あなたは、座っていてください。ケーキが冷めないうちに、食べてしまって」
「え?」予想外の答えに、僕は言葉を続けられなかった。
「それは、あなたの為に作られたものでしょう」彼女のガラス玉のような瞳が、真っ直ぐこちらを射抜いてきて、僕は少したじろいだ。
「うん、そうだね」君はすっと立ち上がり、僕の手を引いて座らせた。君の手はすぐに離れて、ぬくもりだけを残していく。
「せっかくだし、アイギスに甘えることにするよ。綾時はここで座って、一番おいしい時のケーキを食べてて」君はやわらかに笑う。「今日はその為に作ったんだからさ」
そう言われてしまうと、僕はもう、口を挟むことはできなくなってしまった。君はアイギスの方へ向かうと、「ちょっとごめんね」と声をかけてから、彼女の首元を触る。
「リボン、ちょっと曲がってた」
「あ、ありがとうございます」
「ううん、こちらこそ。ありがとう、アイギス」
そう言った君の顔は、僕の方からは見えない。
「これが、わたしの役目ですから」
アイギスの青い目に、君の姿が映る。二人の青が交わる。言葉にせずとも、目に見えなくても、二人を繋ぐ何かがあることが、嫌というほど伝わってきた。
それは、僕の知らないもの。僕が入ることは、決して許されないものだった。