密談
※ 謎時空。デスに近いファルロスのイメージです。
「猫が人間になる為には、恋や涙や仲間の大切さを知れば良いらしいんだ」
「え?」
テーブルを挟んで目の前に座る少年——ファルロスが唐突に始めた話題に、僕は振り落とされそうになった。
「ねぇ、本当の人間になるって一体何だろうね?」
「さっきから何の話?」
「何って、人間の話だよ」
ファルロスはまっすぐ僕の方を指差した。「言うなれば、君の話さ」
「人間になりたいなら、まず"他人のことを指で指しては失礼だ"ってことを知っておくと良いよ」
「おや、そうなの?」ファルロスは指を戻し、再び頬杖をついた。
「それで、何の話?」
「人間の話さ」
「最初は猫の話じゃなかった?」
「それは、猫が人間になりたいって話だよ」
「そんな話、あったよね」
「うん。小さい頃の君が読んでいたやつだよ」
「そうだっけ?」
「覚えてないの?」
うそ、本当は覚えている。「何で君は、僕が見ていた本を知っているの?」
「僕はいつでも、君と共にあるからね」
彼は嬉しそうに笑った。
ふーん、と言いながら僕はジュースを飲む。甘いシロップと一緒に「それってどう言う意味?」という疑問を、飲み込んだ。なぜ? どうして? ばかり聞く僕は、目の前の少年よりも、うんと子どもみたいだった。
僕はそれなりに長い時間、ここに拘束されている。宇宙のような、月面のような異空間。ここにあるのは一つのテーブルと二つの椅子。使う宛のないカトラリー。テーブルを挟んで、僕とファルロスを名乗る少年が座っていた。
ファルロスは、僕と会話することを望んでいた。それに満足すれば、帰してくれると。最初は何が起きたのか分からなくて、早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。しかし、彼が「おしゃべりには飲み物が必要でしょ?」と言って、何もない空間からジュースが並々注がれたグラスを生み出した時、僕は現状を受け入れることにした。
どうせなら彼との会話を楽しんでみよう、と。
それから僕と彼は、ポツポツと会話を続けていた。ずっと喋っている訳ではない。ふっと話が始まって、続いて。また、ふっと途切れる。そして、新しい話題が提供させる。その繰り返しだ。まぁ会話が途切れる要因のほとんどは、ファルロスがよくわからないことを口にするからだった。
例えば、彼の耳についての話。
まだ、この空間にもファルロスにも、慣れていなかった頃。僕は、マイペースに喋り続ける彼の扱いに困り果てていた。
「ねぇ、僕の話聞いてる?」
「君こそ、僕の話聞いてた?」
僕らは二人して黙り込んだ。
お互い一歩も譲らないで、じいっと相手の目を見つめる。動物の威嚇と同じだ。そうしてしばらく睨み合った後、先に折れたのは僕だった。不満な気持ちを表すように、はぁと音を込めてため息をわざとらしく主張する。
「前から思ってたけど、君全然聞く耳を持たないよね」
ファルロスは丸い目を見開いてぱちくりとさせた後、ふわりと顔を緩めた。
「ふふふ、うまいこと言うね」
「普通じゃない?」
「いいや。僕の耳は、君たちの言う"耳"としての機能は、待ち合わせていないんだ。だから、その言い方で正解だよ」
「え?」
「つまりこれは、ただの飾りってこと」
ファルロスは自分の耳を引っ張ってみせる。「何なら取れるけど、近くで見てみるかい?」
「いらない」
「そう? 残念」
彼はくすくすと笑っていた。もしも、僕が「見てみたい」なんて言っていたら。きっと彼は、かの有名な画家のように、自分の耳を僕に躊躇いなく送りつけていただろう。今では、彼のテンポにも慣れてきた。だけど、彼の突拍子のない奇妙な発言について、詳しく訊ねて良いものなのか。僕は、いまだに分からない。
◇
「ねぇ、さっきも言ったけど、人間になるには一体何が必要なの?」
「何って言われても、僕は生まれた時から人間だ」
「うん、そうだね」ファルロスは僕から目を逸らして、少し遠くを見た。「僕はさ、恋をした。涙は、流せなかったけど、泣きそうになるほどの寂しさも、辛さも知った。仲間の大切さも、友達も。友達よりも大切な人も居た」彼は何かに思いを馳せるように、そっと目を伏せる。少年らしいあどけない顔に対して、憂いを帯びたその仕草はひどくアンバランスで、妙に惹かれた。
「それでも、僕は人間になりきれなかった」
「今は、君の話をしてる?」
「そう、僕の話さ」
僕は少し考えてから、口を開いた。「そもそも、恋と涙と仲間が必要なのは、猫じゃないの?」
「え?」
「君は猫じゃないだろう?」どうやら、人間でもないようだけど。
ううん、とファルロスは唸る。「だけど、狐が言ったようにしたら、君とはトモダチになれたよ?」
「狐?」
「狐は、何十万といる代わり映えのしない人間から、この世でたったひとりのひとになる為には、いつも同じ時刻に、同じ場所で会うきまりが必要なんだって言っていたよ。だから、僕はそうしたんだ」
ファルロスの深い青の目が、僕を見つめる。「そしたら、君と友達になれた。海の青を見れば君のその髪を思い出すし、君に会える日が近づくとわくわくした。別れる時は泣きそうになった。全部、狐が言っていた通りだったよ」
「それも、本で読んだの?」
「僕じゃなくて、君がね」
僕は自分の記憶を手繰り寄せ、その本について少しずつ思い出していた。
「君は、王子さまだったの?」
「うーん、ある人はそう呼んでいたね。でも本当はそうじゃないし、僕はその呼び方が好きじゃない」
「そう、それはよかった」
「ん?」
「もし本物の王子さまなら、今までの態度を改めなきゃいけないかもしれないだろう?」
あぁどうか、これまでのご無礼をお許しください、ってね。
彼はふふふ、と笑った。「それだけはあり得ないから、安心してよ。たとえ僕が王子さまだったとしても、友だちの君は特別さ」
「そっか。それなら安心だ」僕も自然と、顔が緩んだ。時々現れる、ほっと緩むような時間が、僕はまあまあ好きだった。普段の会話はテンポが良く、思ったことをポンポンと口に出すことができて、それはそれで心地よい。ファルロスの発言と僕の発言。それによって生まれた空気。その場でしか生まれない言葉。まるで、即興のジャズのような感覚だった。だけど、時々ふわりと会話が途切れて、今のようにのんびりとやわらかな時間が流れる瞬間がある。この時は、自分の思考の海に浸り始めて、じっくりと考えてから言葉を選ぶことができる。それもそれで、おもしろい。
僕は案外、彼との対話を楽しんでいる。
僕が意識を現実に引き上げると、ファルロスは自分の手元にあるグラスの縁を、指でなぞって遊んでいた。そういう仕草は、年相応に見える。
今度は僕から口を開いた。
「ねぇさっきの話だけどさ」
「さっきの?」
「君の言う、人間になる為に必要なもの、だよ」
「分かるの?」ファルロスは頬杖をやめて、少し身を乗り出した。
「いや、そういうわけじゃないんだけど」「だけど?」
「君は、人間を特別視しすぎなんじゃないかな?」
ファルロスは無言で、続きを促す。
「君は今、自分は人間じゃない、人間とは違うんだって線を引いているところがあるでしょ?」テーブルを横切るように指を滑らせる。「でも本当は違う。そんなに大差ないんじゃないか?君も、僕も」
僕は一度口を閉じてから、少しずつ言葉を選んだ。
「僕は、君のことをよく知らないけど」と前置きをする。「もしかしたら、君の身体や実体の部分は僕と違うかもしれない。でも、なんというか、魂のような部分は、とても近いと思う」
たましい。ファルロスは繰り返す。
僕はまっすぐファルロスの方を見つめた。月が眩しくて、目を細める。
「人間になる為に必要なもの、なんて言うけど、本当はそんなものないんじゃないか?僕は、僕は人間だと思っているからそう感じているだけであって、実際は他のみんなのとは違うのかもしれない。何か欠けているかもしれない。でもそんなの、日々を暮らしているだけなら、誰も気づかない。僕は僕が人間だと思って、人間ですって顔をして生きてる」
「つまり、何が言いたいの?」
「人間として暮らすだけなら、君は今のままでも十分やっていけるんじゃない?」
そもそも、人間なんてそんなに良いものだろうか。とは、言わなかった。
「ちがう、僕は、人間になりたかったけど。でも、そうじゃなくて」珍しく、彼は言葉を詰まらせた。僕は台詞の続きを促すことはせず、ただじっと待った。
「僕は」しばらく沈黙が続いたあと、ファルロスはかすかな声をあげた。「僕は、君みたいになりたかったんだ」
「え?」
「眩しいんだ、ずっと」
ファルロスは目を細めて、笑う。「どうしてだろうね、こんなの。僕には眩しすぎて、本当は近づいてはいけないものだったのかもしれない。そう、言いつけられていたのかもしれないのに、楽しくて、嬉しくて、すっかり忘れちゃったのかも」
彼が目を瞑ったせいで、あの美しい青は見えなくなる。風もないこの世界で、短くてやわらかな髪が小さく揺れる。「僕の羽も、燃えてしまえばよかったのに」
「君には羽があるの?」
「うん。闇夜で作られた大きな羽根が四つ」
「それは、燃えないかも」
「ふふ、そうだね」
「でも闇夜なら、たしかに光は眩しい」
「うん」
「まずは夜明けぐらいから、だんだん慣らしければ良かったかもね」
彼は小さく肩を揺らした。「しょうがない。僕と共にあったのが、眩しいぐらいの月だったんだもの」
僕は自分の目が大きく見開かれるのが分かった。小さく意味のない音が溢れる。
「ああ、ただ君の答えそれ自体は、完全な間違いではないよ」
「え?」
「僕も同じことを思って、一度、やってみたことがある」ファルロスの声色が少し変わったことに、僕は気がついた。冷たくて、固い、少し寂しさのあるような声だった。「その時は、一度記憶を消してまっさらにすることで、僕は人間だと思い込むことにした。僕が僕であることを忘れていたあの時、僕は確かに人間だったよ。だけどね、僕が僕である限り、運命からは逃れられなかったんだ」
運命。僕は小さく繰り返す。
「この運命を変えるのに、奇跡は一つ費やされる」ファルロスは小さな指を一つ、立てた。「だけど、機械の乙女が人間のように目覚める為には、奇跡が一つ必要だ。つまり、僕が彼女のようになるには、奇跡が二つ必要なんだよ」ファルロスは二つ目の指を立てる。「だけど、奇跡が二度続いたら、それはもう、奇跡じゃない」
「それも、何かの本の話?」
ファルロスは僕の質問には答えず、ただ静かに笑ってみせた。