紫煙
あ、と思って、僕は咄嗟に君のジャケットを引っ張った。君は少し驚いたようだったけれど、何も言わずにされるがまま、僕の方へと体を寄せる。「何?」と目線だけで訴えようとするのは、彼のずるい所であり、僕がうまく咎めることのできない悪癖の一つ。
「煙、ちゃんと避けて」
「あぁ」言われて初めて気づきましたと言わんばかりの反応に、ため息をつきたくなるのをぐっと堪える。君は「ありがとう」を口にしたけど、僕はむっとした態度を取り続けた。あれは、会話の流れでとりあえず発したお礼だと確信していたから。
それから、僕らは煙が立ち込める喫煙所を避けて歩いた。ジャケットを握り続ける僕の手を、彼が不思議そうに眺めているのに気がついていたけれど、あえて見ないふりをして、僕は話を引き延ばす。
「煙草はさ、副流煙の方が危ないんだよ」
「うん、知ってる」
「じゃあ煙、ちゃんと避けないと」
「ぼうっとしててさ」悪かったよと言外に匂わす君を、今日の僕は許容しないと決めていた。ついさっき、決めたのだ。僕が君の裾を持っているから、僕が止まれば、必然的に君も立ち止まる。僕らは揃ってベンチに腰掛けた。
「君は前もそう言って、煙に突っ込もうとしてただろう?」
「そうだっけ?」
「そうだよ」僕は呆れが伝わるように息を吐く。
君は一度口を開こうとして、やめた。少し、何かを考える時間があって、それからまた口を開く。
「煙草の香り、嫌いじゃないんだよね」
「へぇ、そうなの」
「何か燃えた後のざらりとした感じ。なんだか、理科室みたいじゃない?」
僕は想像してみたけれど、あまりピンと来なくて首を捻る。それを見た君は、薄く笑った。
「昔、お世話になった親戚の人が喫煙者だったんだ。だから、嫌いじゃないのかも」
「懐かしくて?」
「うん」
「だから、自然と煙に寄っちゃうって?」
「そういうこと」君はにこりと笑った。
僕は納得したようなしてないような、微妙な気持ちになった。これをそのまま飲み込んで良いのだろうか?どうも煙に巻かれたような気がしてならない。
「じゃあ君もいつかは煙草を吸うの?」
「大人になったら、吸ってるかもね」
そう言って、君は僕から目を逸らして、流れる人を眺め出した。この話はここでもうおしまい、と言われているような気がする。君はいつもそうだった。言葉にしなくても伝わるからと、人に甘えた態度を取る。僕はそれにむっとなりながらも、他でもない君が甘えてくることに悪い気はしなくて、有耶無耶のままここまで来てしまった。ずるい人。だけど今日は、今日こそは、飲み込まれそうになるのをどうにか堪えて、僕はもう少しだけ噛みついた。
「僕としては、君の寿命が縮まるようなこと、して欲しくないんだけどなぁ」
君は少しだけ目を大きくして、僕の方を向いた。かと思うと、すぐにふわりと笑って「気をつけるよ」とだけ言った。
◇
「あ」と僕はわざとらしく声をあげた。「いけないことしてる」
「いけなくないよ」
君は煙草を燻らせながら、にやりと笑った。
「まだ子どもなのに」
「ここまで来たら、子どもも何もないだろう?」
だって僕らはもう、普通じゃない所にいる。
そう言われると返す言葉はなくて、僕はううんと唸ることしかできなかった。確かに、宇宙に二人で漂う僕らに、もはや法律は関係ないのかもしれない。君はくすくすと笑いながら、煙で灰色の輪を浮かべる。僕はそれに指をかけて、掻き消した。
「煙草の香り、好きだって言ってたよね」
「そうだっけ?」
あっけらかんとする君に、僕は何度目かのため息をついた。
「やっぱりあれ、嘘でしょ」
君は黙って、目を逸らす。もう一度、煙で輪を作って見せたけれど、僕は無視した。「君、本当は削りたかったんじゃないのかな?」
「何を?」
「命を」
君は黙って煙草を指にかけて、慣れた手つきでトントンと叩いた。灰がこぼれ落ち、月の砂漠に紛れ込む。同じ灰色をした地面では、すぐに見分けがつかないぐらい溶け込んでしまう。
「僕が分かっていたこと、君も知ってたでしょ?」
「何となくね」
「だから君は、言わなかったんだね」
言葉にしなくても、伝わるから。
「お互い様だよ」きれいに笑う君。
「随分と遠回しな自傷行為だったね」
「心配はかけたくないからね」
「矛盾している」
「でも、それが人間だ」
彼の言葉は僕の口に蓋をした。胸の辺りで、灰色をした何かぐるぐると渦巻くけれど、それを正しく吐き出す術を失った。それは毒のようにじわじわと僕を侵食して、世界を揺らす。さびしい。悲しい。ひどい。だけど、紛れもない事実。
いつの間にか君は、僕のすぐ側までやって来ていて、僕の顔を覗き込んでいた。
「ごめん。いじわる言っちゃった」
僕は何言えない。
「もう二度と言わないから」君がくるりと手を返すと、片手にあった煙草は手品のように消え去った。僕は心を落ち着かせるために、深呼吸をした。
「僕も、踏み込みすぎたね。ごめんよ」
君は、否定も肯定もしない。
「もう、僕と君はひとつになれないのに」
「うん」
「僕は君にはなれないのに」
「だから、ぶつかり合って傷つけられる」
僕ははっとして、君の目を見た。夜の青をした瞳に映る僕は、ひどく情けない顔をしている。
「それって良いこと?」
君は優しく笑う。
「それは、その人たち次第だよ」
だけどね、と君は続ける。「他人同士じゃないと、関係は築けないよ」
その言葉は魔法にみたいに、僕の胸に渦巻く煙を、跡形もなく消し去った。
君はやさしくて、ずるい人。
それを言葉にしたら、「でも、嫌いじゃないでしょ」とか、言うのだろう。