こころに触れて
冷たい夜風が賢者の頬を撫でる。箒に跨り空を飛ぶという行為は、何回経験しても少し怖いと感じた。目の前に座るムルはいつものお喋りな口を閉じ、先ほどから何も言わない。表情を伺うにしても、不安定な箒の上で姿勢を変えることは、人間にとって難しかった。揺れる髪を静かに見つめながら、賢者は思わず箒の柄を握る両手に力を入れる。
数刻前、ぐっすりと眠っていたはずの賢者は、肌寒さを覚えて目を覚ました。
「あれ、閉めたと思ったんだけどな……」
布団からノソノソと這い上がり、開いていた窓を閉めようと腕を伸ばす。寝起きでぼんやりとする賢者の手首を、突如何者かが掴んだ。そのまま力強く引っ張られ、体ごと外へと飛び出す。人間、本当に驚いた時は声も出ないらしい。全くもって、何が起きたか理解できなかった。
「エアニュー・ランブル」
賢者の体がふんわりと浮き上がり、空中で仰向けになるように漂う。馴染みのある呪文に安心したのか、先ほどよりも周りがよく見える気がした。目の前には、無数の星が広がる夜空と見慣れた猫のような魔法使い。けれど今の賢者には、その美しさを噛み締める余裕はなかった。心臓の音がドクドクとうるさく、夜風と冷や汗に寒さを覚え、体がブルリと震える。そこでようやく、賢者は自身の抱いていた恐怖や焦りを理解した。
「こんばんは、賢者様!」
ムルの声には楽しさが滲んでいた。一部を除き、魔法舎の誰もが眠っているであろう深い夜。この空間には、ふわふわと宙を浮く賢者と箒に跨るムル以外は存在しない。それはつまり、賢者の腕を引っ張った犯人はこの無邪気に笑う魔法使いであることを示していた。驚く賢者など気にも留めず、当人はこちらに近づき顔を覗き込んでくる。
「心臓が飛び出るかと思いました……」
「うん、だって驚かせようと思ったから」
ムルは平然とそう言いながら、空中で指をすいっと動かす。合わせて賢者の体は空を漂い、そのまま箒の後ろに座らされた。またしても状況が飲み込めない賢者は、慌てて箒の柄を掴みながら、呆然とムルを見つめることしかできない。
「賢者様、俺と月を見に行こうよ!」
言いたいことは山ほどあったけれど、そのどれもがうまく言えないまま、気がつくと賢者はコクリと頷いていた。
あれからどれほど時間が経ったのか、一体どこを目指しているのか、賢者には分からなかった。空から厄災と呼ばれる大きな月が、静かにこちらを見つめている。金色に輝くその姿を綺麗だと思う賢者の感性は、この世界では理解されないのかもしれない。ムルはあれから一向に喋らない。様子が気になるものの、賢者は後ろから彼をじっと見つめることしかできなかった。街灯なんていらないぐらい、静かで明るい夜だった。不意にムルがこちらを振り向く。視線が煩わしかったかと慌てたが、彼が怒っている様子はなく、それから、いつものようにへらりと笑ってみせた。
「ここだよ、賢者様」
街の外れにある小さな丘。ムルが立ち止まったのはそんな場所だ。すーっと地面に箒を寄せて降り立つ。当たり前のようにこちらへ差し出された手を見て、賢者はお礼を言いながらそっと掴んだ。
頂上からは近くの街を見渡すことができた。皆が寝静まった夜だから、街明かりのほとんどが消えている。けれど、ポツポツと残るわずかな光が、自分たち以外の誰かの存在を教えてくれた。その場に座り込んだムルの隣に、賢者も腰を下ろす。それから、彼に倣って夜空を見上げてみた。低い位置から見上げる月は、いつもよりずっと強大なもの見えて、厄災の名に相応しい風貌だった。こんなものが世界に近づいてくるのかと思うと、ゾッとする。体の内の奥底から、得体の知れない不安感がじんわりと湧き上がるのを感じた。このまま放っておけば、恐怖心があっという間に燃え広がり、いずれ自分の全てが侵食するだろう。賢者は直感的にそう思った。あの世界と比べれば、夜空に浮かぶ彼女の輝きを遮るものはうんと少ない。だからこそ、月の存在はより大きく、美しく、恐ろしい。なるほど、ムルが好きそうだ。賢者は隣に座る魔法使いへ意識を向けた。そうすれば、自分を誤魔化せると思った。
ムルの横顔を覗き見るも、やはり視線が交わることはない。無邪気な猫のようにキラキラと輝く目には、この世でたったひとつしかない、彼の愛するものが映っている。青とも緑とも言える不思議な瞳は、月明かりに照らされ、緑が強いように見えた。それは、以前家族で旅行に行った、南の海を彷彿とさせる色だった。いつもたくさんのことを語り、表情をコロコロと変えるムル。おそらく、魂が砕ける前はそこまで忙しない人ではなかったはずだ。けれど、この目だけは変わっていないような気がした。不安も、喜びも、内緒の話も、月の裏側も、世界の秘密も。全てを見透かすような真っ直ぐな目。何も言わないムルがいつものムルじゃないみたいで、だけどその目は確かにムルのものだった。彼の口角が緩やかに上がる。そして初めて、視線がパチリと交わった。
「そんなにじっと見つめられたら、俺が溶けてなくなっちゃうかも」
「あ、すみません。ジロジロと見てしまって……嫌でしたよね」
「ううん、全然!」
そう言ってムルはにぱっと笑う。とは言え、先ほどまでの様子や口数の少なさが、賢者にとって気がかりだった。もしかしたら、気分が落ち込んでいるのではないか、ずっと心配だったから。何か自分にできることはないだろうか。
「賢者様は優しいんだね」
急に投げられられた言葉が、うまく飲み込めない。
「俺も賢者様のこと好きだよ。たったひとつしかないものが好きだから」
賢者は脈絡のない言葉に戸惑った。あぁ、今日はそんなことばかりだ。賢者が疑問を口にする前にムルは言葉を続ける。
「賢者様は俺のこの目がお気に入りなんでしょ?それなら、きみが望む限り、いつでも優しく見つめてあげようか。厄災を優先してしまう日もあるだろうけど、でも、できるだけきみを見てあげる」
瞬間、周りの音が聞こえなくなった。少し遅れて、ムルの言葉が処理される。賢者は自分の心臓が動き始めるのが分かり、嫌な汗が滲んだ。先ほどまで涼しいぐらいだったのに、今はとても暑い。頭が揺らいで、目線がムルを捉えて離さない。この丘へ来てから、何かを話した覚えはない。そして彼は、魔法使いだ。
ムルのことは好き。あの不思議な色の目も好き。では、その瞳が欲しいのだろうか。優秀とは言えない脳みそが、なんとか答えを探ろうと動き出す。宣言通り、彼はこちらへ視線を向けていた。青ざめて沈黙する賢者と、じっと見つめるムルを、月が静かに照らしている。世界にこの3人しか居ないような心地がした。彼の瞳に優しさが乗っているのか、賢者には判断がつかなかったが、その表情は柔らかく見えた。何か答えなければ、と視線を彷徨わせるものの、賢者の答えは最初から決まっている。ただ、言葉にすると嘘くさく思えるから、口に出したくなかった。
ふっと短く息を吐き、賢者は目を瞑る。目の前に、温かい南の海が広がった気がした。それから再び目を開けて、なんの変哲もない黒い瞳で、しっかりとムルを捉える。
「いいえ、大丈夫です。ムルが見たいなと思った時にこちらを向いてくれれば、それで」
ムルはニコリと笑って「そうだと思った!」と言い放った。賢者の思いや覚悟なんて、何にも知らないような、綺麗な笑顔だった。彼は徐に立ち上がり、何もない空間からポンと箒を取り出す。
「さて、そろそろ夜が明けそうだし、帰ろうか」
息が詰まるような空間から解放された賢者は、言葉を発するのも億劫で、ムルの提案にはコクリと頷くだけにした。自然な流れでこちらへ差し出された手を、そっと掴んで立ち上がる。ドン、と鈍い衝撃が来て、賢者には何が起こったのか分からなかった。
「え……?」
間抜けな声を上げる賢者の胸元に、文字通りムルの腕が突っ込まれている。血が吹き出ることはないものの、ムルの手首から先が賢者の体の中に入り込んでいた。ちょうど、心臓の辺りだ。賢者の体は、水面のようにゆらゆらと揺れ動き、ムルの手首を中心に石を投げたような波紋が生まれていく。異物感が気持ち悪いが、不思議と痛みはなく、それがまた気持ち悪い。ムルが何かを握るような仕草をした時、スッと心臓が冷たくなった気がした。その冷たさが全身を駆け巡り、言いようのない恐怖が襲いかかってくる。今晩はあまり良い夜ではなかったようで、夢なら早く醒めて欲しいと賢者は強く思った。けれど、その願いが届くことはない。どんどんと冷え込む体と反対に、頭は焼き切れそうなほど熱い。忙しなく動く心臓の様子はは、彼に伝わっているのだろうか。
「……ムルは、心が知りたいんですか?」
心臓を握られているという異様な状況でありながら、賢者は先程よりも冷静になれた。人間はあまりにも現実離れした出来事が起きると、落ち着けるのかもしれない。今日は学びが多い日だ。
「うーん、そうかも?俺にも分かんない」
南の海色をしていた彼の目は、今はまるで北の凪いた海のような、深い青色をしていた。賢者には考えるべきことも、見るべきものも、言うべきことも、たくさん、本当にたくさんあったはずだ。けれど、その青い瞳に吸い込まれて、目が離せない。ムルが何かを言っていた気がしたけれど、そのどれもがうまく聞きとれないまま、世界は静かに暗くなった。
肌寒さを覚えて、賢者はパチリと目を覚ます。寝起きだからか、胸のあたりが気持ち悪い。周囲をぐるりと見渡せば、そこは見慣れた自分の部屋で、閉めたはずの窓から明るい日の光が差し込んでいた。賢者はベッドからノソノソと這い上がり、窓へと近づく。眩しい太陽と共に真白い月がよく見えた。頬を撫でる風が心地よくて、気分の悪さも少し和らぐ。
「コンコン!」
明らかにおかしな擬音語が、扉の向こうから聞こえて来る。朝の挨拶と共に「支度するのでちょっと待ってください」と、不思議な色の目を持つ魔法使いへ、賢者は声をかける。野良猫のように自由な彼が、果たして言うことを聞いてくれるのだろうか。賢者にとって、いつも通りの朝が始まる。