はんぶんこ、心臓
深夜、寝苦しさに僕は目を覚ました。体が氷のように冷たくなり、動けなくなる夢を見た。僕はさせるがまま、棺のような小さな箱へと押し込められ、氷像のように固まる夢。あまり良い気はしなかった。薄暗い部屋に、不気味な月の光が差し込む。夢に反して身体は熱く、嫌な汗が滲む。ぼやけた視界の端に、ふわふわとした短い髪を見つけて、僕はあんな夢を見た理由を理解した。
「なにしてるの?」
ファルロス、と名前を呼ぼうとしたけどうまく声が出なかった。眠気は強く、瞼を閉じてしまった方がずっと楽なほどだった。
彼は少しだけ体を揺らして驚いた様子だったけれど、すぐにいつもの調子で「こんばんは」と言いながら、僕の腹の上でくるりと寝返りこちらを向いた。ファルロスは僕の胸から腹の辺りに頭を乗せて、横向きに眠っていた。さっきまでは、柔らかな髪と丸い後頭部しか見えなかったけれど、今は不思議な青い目がこちらを向いている。
「ごめんね。起こしちゃったかな」
「大丈夫だよ」
僕はほんの少し嘘をつく。目が慣れてきて、申し訳なさそうに目を伏せる彼の顔が見えたから。僕はもう一度「何してるの?」と訊ねた。すると、ファルロスはくすくすと楽しそうに顔をゆるめて、目を閉じた。
「君の音を聞いていたんだ」
「音?」
うんと、彼は頷く。「心臓の音や呼吸の音だけじゃない。お腹の方は柔らかくて、あたたかくて、波のような音がするんだ」そう言って彼は、小さな手を僕の体に乗せた。
その感覚は僕にはよく分からなくて、へぇと気のない返事をしてしまう。他人の腹や心臓の音が聞こえるぐらい近くに寄ることなんて、十年以上してきてないのだから、忘れてしまった。もやもやと重い雨雲のようなものを胃の辺りで感じ始めて、全ての元凶たる彼に向かって、少し棘のある言葉を投げたくなる。重いからどいてよ、などと言おうとしたが、ファルロスが体を預けているはずなのに、重みも体温も息苦しさも全くないと、いまさら気がついた。奇妙な感覚に気を取られ、苛立つ気持ちが一瞬で萎む。それにしても、このままの姿勢でいることも、近すぎる距離も、僕を射抜く目線も気恥ずかしくて、僕は絞り出すように「喋りにくいから、どいてくれない?」とだけ言った。
「僕はまだ、ここに居て良いの?」ファルロスは丸い目をさらに丸くする。
「うん。居て良いから、とりあえずどいて欲しい」
分かったよ、とファルロスは体をどけて、そのままベッドの淵に腰を掛けた。腹の辺りの圧迫感は少し薄れたが、それ以外の大きな変化はなかった。まるで最初から、何も乗っていなかったみたいに。少しずつ目が醒めていた僕は、体を起こし彼の隣に座る。いつもだったら青い瞳がこちらを見るのだが、今夜はどうにも目が合わなくて、それにお喋りなファルロスが、珍しく黙っているものだから、代わりに自分より少し下にあるつむじをぼんやり眺めていた。
ファルロスはじっと、僕の身体を見ていた。
何がそんなに面白いのか、僕には全く分からない。だけど、おそらく彼にとっては大切なことなのだろう、と僕は飲み込んだ。だから僕も倣って、ファルロスのことをじっと観察してみた。やわらかな髪の毛。丸みのある頬。変わった色をした瞳。僕よりうんと小さな手。ゆらゆらと揺れる足と、ゆるくかけられたサンダル。それから、少し変わった横縞のパジャマを眺めた辺りで、僕はおやと思った。お腹の辺りに、ほんの少し違和感があった。言葉にするのは難しいけれど、直感的に感じた違い。その訳を知りたくて、僕はつい彼の体を見つめてしまった。結果的にファルロスと同じことをしていることに気がついて、少しおかしくなる。ただ、いくら眺めても違和感の正体が分からなくて、僕は徐に彼のお腹に手を当ててみた。
「う、わぁ」僕は思わず悲鳴を上げた。ファルロスからも、わっと小さな声があがったが、それを気にする余裕はない。
簡潔に言うと、ファルロスの身体には触れられなかった。僕が手を伸ばした先には、そこにあるはずのぬくもりも、やわらかさも、骨も肉も何もなかった。ただ、ゆらりと掛けられた布の感触だけだ。
「あぁ、そこはまだちゃんと作れてないんだ」彼はなんてことないように言った。ちょっと忘れものをした、くらいの軽い言い方をするものだから、僕はさらに戸惑った。まだ夢でも見ているのではないか、と思いながらも「どういうこと?」と彼に詰め寄る。
「そのままの意味だよ」
ファルロスはくすくすと笑い、それからぺろりとパジャマをめくって見せた。そこには確かに、月の光でぼんやりと浮かぶ白い肌があった。先ほどの感触は何かの間違いなんじゃないか、なんて思いつつ手のひらの違和感は確実に残っていた。彼はもう片方の手で僕の手首を掴み、自分の腹にあてがった。
僕は息を呑んだ。僕の腕は、ファルロスの腹の中に飲み込まれていた。彼の中の何を傷つけてしまうのではないかと思うと恐ろしくて、一気に体が強張る。シャドウに掴まれた時とよく似た、生ぬるくてどろりとしたものに引き摺り込まれる感触がして、不快感を煽った。目に見える情報と手のひらの感触がちぐはぐで、気持ちが悪い。胃の辺りでぐるぐると、重く冷たいものが渦巻いて、何かを吐き出したくなったのをぐっと堪えた。指先で触れられるものは何もなくて、つまり、彼の体は空っぽなのだ。そう分かった時、ゾッとするものが背筋を走った。
「僕の体はまだ不完全でね、少し衝撃を与えるとすぐこうなっちゃうんだ」
すぐ側に居るはずなのに、彼の声は遠く聞こえる。僕はうっすらと冷や汗をかきながらも、それでも嫌だとも、離してともいてなかった。不気味で、不快で、恐ろしい景色のはずなのに、どうにも目が奪われる。
「僕には、心臓だってないんだ」
ファルロスは、僕の手を自分の左胸の辺りまで持っていく。「ほら、触ってみて」
彼が言うように、肉も骨も臓器もなく、ただ空間が広がっているだけだった。少し指先を少し動かしてみたけれど、掴めそうなものは何もない。空っぽの胸だった。僕は彼の中から、そっと慎重に腕を引き抜いた。ふうっと息を吐いたことでようやく、僕は今まで呼吸を潜めていたことに気がつく。薄暗い部屋で自分の手のひらを眺めてみたけれど、なんの変哲もないいつもの僕の手だった。
「ふふ、驚かせちゃったかな?」
「そりゃあ、ね」
「最初に手を出したのは君の方なのに」
ファルロスは悪びれずに言う。僕は何かを言い返そうかと思ったけれど、どっと疲れが込み上げてきて、やめてしまった。まるで、自分の中を探られたみたいな不快感が、腹の辺りにあった。体の真ん中にぽっかりと穴が空いたような、得体の知らない不安が襲う。そっと自分の腹の辺りに手をあてたが、呼吸に合わせて上下し人並みの体温を持っていて、僕は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。僕の体は重たくて、熱があって、形のあるものだった。
ファルロスはそんな僕の様子を、何も言わずにじっと見つめていて、落ち着くまで待ってから、再び口を開いた。
「僕には心臓もないし、呼吸もない。だから、君の音がすごく、良いものに思えたんだ」
彼は自分の胸に手を当て、服を握る。横縞のパジャマに皺がついた。「生きているって、こういうことなんだろうね」
小さく呟く彼が、僕には寂しそうに見えた。
僕は、力を込めた彼の手をできるだけ優しく触れた。ファルロスは少し驚いた様子で、こちらを見る。透き通るような青と目が合った。僕は彼を安心させるように笑って見せて、そのまま少し強く抱きしめた。
「うわぁ」くぐもった声が聞こえる。
「どう?」
「え?」
「聞こえる?音」
僕の意図が分かったのか、彼は腕の中でもぞもぞと姿勢を変えてみる。「うん、聞こえるよ」
「心臓の音、分かる?」
「うん。ドクドク鳴ってる」
「僕にも聞こえるよ」
え、とファルロスは戸惑いの声をあげた。
「心臓の音、僕にも届いてる。たぶん、君の体に反射して僕の音が聞こえているんだと思う」僕は、自分の音に耳を傾ける。少し脈が早くて、あたたかい。「こうしていると、君にも心臓があるみたいだよ」
慣れないことをして、じわじわと耳の辺りが熱くなる。強く抱きしめているせいで、僕からはファルロスの様子は分からなくて、余計に照れが込み上げる。それでも、彼を離さなかった。少しして、僕よりも小さな腕がそっと、僕の背に回された。きごちない動きで、少し距離を感じながらも優しく抱きしめられる。
「君の心臓を分けてもらえるなんて、すごくうれしいよ」
「そう」
「僕の心臓は、君が居ないと動けないんだね」
「君はそれで良いの?」
「うん。それが良いんだ」
ファルロスは僕の体に顔を埋める。「ずっと空っぽだった心の奥が、満たされた感じがする」
僕は何も言わずに、自分の腕の中にある小さくてあたたかな生き物を、大切に抱きしめる。彼の短くてやわらかな髪を、優しく撫でてやった。