秘密のおやつ



 ふっと不思議な感覚がして、音楽が消えた。少しの間ガラクタと化したイヤフォンを外して、首にかける。薄暗くなった室内では、手元のノートすらも見えにくくて、持っていたシャーペンを放り投げた。
「おや、珍しいね」
 僕のすぐ横、少し低い位置から声がして、僕は体ごとそちらに向ける。
「こんばんは」ファルロスは言う。
「こんばんは」僕は返す。
「今日は随分と夜更かしだね」
「やることがあってね」
 へぇ、と彼は軽く返す。「じゃあ、今日は帰った方が良いのかな?」
「いや、影時間だと何もできないし大丈夫だよ」
 僕がそう言うと、彼は改めて、嬉しそうに微笑んだ。どうせ、少し前からここに居たのだろう。僕がペンを置いたのも見ていたはずで、僕が「いいよ」と言うことも分かっていたはずだ。だけどどうしてか、ファルロスはいつも僕に「どうかな?」と訊ねるのを好んだ。結局、僕が「帰って」と言っても、冷たくあしらっても、本人が満足するまでここに居るのに。
「それで、君は何をしていたの?」
「勉強だよ」
「それって大変?」
「別に。でも、やらなきゃいけないことだからね」
 僕はそう言って、手元のマグカップに口をつけた。淹れてから時間が経ち冷えきったコーヒーは、決しておいしいとは言えなかった。
「それは?」ファルロスは訊ねる。こうして、あれこれ訊ねる姿は年相応に思えて、少し微笑ましかった。
「コーヒー」
 彼はふぅん、と小さく呟く。「僕も少し飲んでみたいな」
「え」
「どうかな?」
 ファルロスはこちらの様子を窺うように、首をかしげる。彼のやわらかな髪が揺れた。僕は自分のカップに残ったコーヒーを見つめて、それから少し悩んだ後、「少し、待てる?」と言った。
「そこ、座ってて良いから」僕は自分のベッドを指さし、立ち上がる。「すぐに戻るから」と、彼を安心させるように微笑んだ後、僕は部屋を出てキッチンへと向かった。先ほど淹れたコーヒーの残りを、来客用のカップに移す。冷たくても不味くならないよう市販のコーヒーを少し混ぜて、ファルロスの分には更にミルクを多めに加えた。それから戸棚の、共同のおやつ箱の中からいくつかお菓子を選んで、全部まとめてトレイに乗せた。零さないよう、慎重に階段を登って、自室へと戻る。
 扉を開けると、ファルロスはベッドの隅で足をゆらゆらとさせながら、ぼんやりと座っていた。
「おかえり」ファルロスは楽しそうな声で言う。
「待っている間、寂しかった?」
「ふふ、少しだけね」
「そっか、ごめんね」そう言って僕は、彼にトレイに乗せたお菓子たちを見せた。ファルロスは、空と海を織り交ぜたような青い瞳を星のように輝かせた。「これも貰って良いの?」
「そのために、持って来たからね」
 ファルロスは空中で指をさまよわせる、どれを選ぶか迷っているようだった。「君、何が好きなのか分からなかったから」
「それは僕にも分からないよ。知らない味の方が多いからね」
 ファルロスはううんと唸る。「ねぇ、君が好きなのはどれ?」
「じゃあ、これはどう?」
 僕はたくさんのお菓子から、林檎の砂糖漬けを選んだ。たっぷりと蜜を含み、月のような黄金をしたひと欠片を、ファルロスの口に入れてやる。彼はやわらかな頬をもごもごと動かして、味を楽しんでいるようだった。
「これが、君の好きな味なんだね」彼はくすくすと笑う。「僕もこれ、好きだな」
「そう?」
 うん、と彼は頷く。「忘れないように、覚えておくよ」
「そんなに?」
「うん。おいしい思い出なんて、僕には滅多にないことなんだから」 
 ファルロスは目を伏せ、口元を緩ませた。僕はトレイを抱えたまま、彼の横に腰掛ける。本来の目的だったはずのコーヒーを入れたマグを渡すと、「ありがとう」と彼は両手で受け取った。未知の味に挑戦する彼を横目に、僕は林檎の砂糖漬けを口にする。ざらりとした感触と甘酸っぱい味が、舌の上に広がった。
 きっと僕は、林檎を見る度に君を思い出す。





Unidentified Flavorful Object / Mili


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