駆け落ち、ふたり
十二月。高くそびえた不気味な塔は、明るく穏やかな綾時にそぐわない場所だった。僕は、薄く開いた彼の唇を見ていた。躊躇うような吐息が零れ、また閉じる。彼はゆるく目を伏せていたが、少しして意を決したようにこちらを向いた。
「あの、さ」と綾時は言ったものの、言葉を続けられずに、再び黙り込む。だから、僕が彼の言葉を続けた。
「連れて行ってくれる?」
「え」驚く顔をした彼の、丸い目を見る。
「運命なんて関係ない、何もないどこか遠くへ、連れて行ってよ」
ね、どうかな?と、僕は彼の真似をして窺うように顔を覗き込んだ。
「どうって言われても」
「ダメ?」
「ダメとかじゃなくて、それは不可能なことだよ。君が一番よく分かっているはずだ」
「だけど、さっき君が言おうとしたことはこれでしょ」
「そんなこと」
「なくないよね」
僕は綾時のマフラーを引いて、顔を寄せた。青い瞳に、無表情な僕が映る。「君が僕のことを分かるように、僕だって君のことが分かるよ」
あまり怖い顔をしているのも良くないかと思って、少しだけ笑ってから僕は手を離した。「それで、君はどうする?」
彼に選択を委ねる。綾時は僕が触っていたマフラーをぎゅっと握って、険しい顔のまま、考えるように目を閉じた。僕は彼の答えが聞けるまで、いつまででも待つ覚悟だった。
今日の綾時は、いつもと違う雰囲気で、表情も声も硬く、それが僕には厳格であろうと振る舞っているように見えた。君にそうさせる世界を、僕は変えたかった。僕にとってニ回目の、高校二年生の十二月。最初から強くても、先の出来事を知っていても、ひとりでタルタロスを登れても、結局世界は変わらなかった。君は同じように、僕らに死に方の選択肢だけを与えて、約束の日まで消えようとした。だけど、そんなの、ずるい。みんなが前を向き始めているのに僕だけ取り残されていて、気がついた時には、ひとりでタルタロスを訪れていた。直感的に、上まで行けば君に会えると分かっていたから、ひとりでできる限り上を目指した。僕が倒れるのが先か、君が見ていられなくなるのが先か。結果は目に見えていて、予想通り先に耐えられなくなった綾時の方が、僕の前に現れた。
僕は彼の優しさに付け込むわるい人だった。
僕はじっと彼を見つめた。どれぐらい経ったかは分からないけど、決して退屈はしなかった。彼をこの目で見て、声を聞くことができて?それだけで、 僕は満ち足りて、ひどく安心できた。
綾時の伏せられた睫毛が揺れて、宇宙みたいに不思議な青が姿を現す。僕は彼の出した結論に、耳を澄ませる。
「一晩」彼は言う。「一晩だけ、君の時間を僕に頂戴」
「一晩だけなの?」
「それでも贅沢すぎるぐらいだよ。本当は大晦日まで会わないつもりだったんだから」綾時は口を尖らせる。「まさか君がこんな無茶して追いかけてくるなんて、思わなかった」
「そんな僕が、一晩で満足すると思う?」
今の僕は、少し意地悪だったかも。いや、今だけじゃなくて、今日はずっと。だけど綾時は、僕の甘えを責めることはしなかった。
「本当は、どっちだって良いんでしょ?」彼は、ふふっと笑う。いつもの、包み込むような柔らかな声だった。「君は、とてもやさしい人だ。逃げたいっていうのも、本気でそう思っているわけじゃない。いつかは向き合うべきことだと分かっているし、その覚悟もできてる。ただちょっと、拗ねちゃったのかな?」
綾時は小さい子にでも話しかけるような調子で、くすくすと笑っている。
「綾時がそう思いたいだけじゃない?」
「君のことは、まるで自分のことのようによく分かる。それは君が一番よく知っているはずさ」
彼がはっきりとそう言い切るのを聞いて、僕は思わず顔が緩んだ。彼の言う通り、今ここでどんな答えが返ってきたとしても、僕はそれに従うつもりだった。世界を置いて逃げよう、なんてこと綾時は許さないって、僕は分かっていて聞いたのだ。このまま大人しく二回目の約束の日を迎えるのが、何だか少し、嫌だった。
ただ、それだけ。
◇
数日後、月が眩しい夜。僕は綾時との約束の場所——月光館学園の前に向かった。寮のみんなのことを思うと足が止まったが、帰ってからきちんと怒られようと思い直す。冬が始まってから目に見えて落ち込む僕を、みんなが気遣ってくれていること、僕が誰より一番知っている。最低限の荷物だけをもって、そっと寮を抜け出した。
約束の時間まであまり余裕がなくて、僕は少しだけ駆け足で学校へと向かう。ちょうど正門が見えたあたりで、世界がぐるりと変わる感覚がした。目の前の学園は跡形もなく消え去って、月に向かって高くそびえる不気味な塔へと姿を変える。タルタロスの前に、見慣れた黄色のマフラーを見つけて、「綾時」と声をかけた。
「ちゃんと来てくれたんだね」
「そりゃね」
彼は小さく笑った。「それで、どこに行くかは決めてあるの?」
「うん。とりあえず、駅に行こう」
綾時は不思議そうにしながらも、僕の横を並んで歩く。異様なほど明るい月が、道を照らす。ぽつぽつと立ち並ぶ棺を避けて、僕たちは静かな街を歩いた。
「駅に行くと言っても、今は影時間だよ?」
「知ってる」
「どうするの?」
「隣の駅までは、線路を歩く」
彼はあぁと明るく声をあげた。「前にみんなとやってたやつだね」
うん、と僕は頷く。「せっかくだから、いつもと違うことできたらなって」
くすくす、と綾時が笑う声が聞こえた。
しばらくして、僕たちは無事に駅へと辿り着いた。学園からここまで、街に潜むシャドウに襲われることは一度もなかった。おそらく、綾時が側に居るからだと思う。ひそひそと影が僕らを避けて、身を潜める。まるで、僕らが世界の王様みたいな気分だった。
機能していない改札を抜けて、駅のホームへと向かう。時刻は十二時を指したまま。僕は躊躇うことなく、線路へと飛び降りた。思ったよりも高さがあって、足の裏がじんとなった。
「ほら」僕は上に居る綾時に手を差し出す。彼は、遠慮がちに僕の手を握って、ゆっくりと線路へと降りてきた。手のひらの温度が、奪われていく。暗い世界に、揺れる黄色はよく目立った。
「行こう」僕はそのまま彼の手を引いて、夜の線路を歩き始めた。綾時は、僕の数歩後ろから引っ張られるようについて来て、話しかける時、ちらりと後ろを見る必要がある手間が少しだけ億劫だった。だけどそれは、話しかけない理由にはならない。途切れ途切れの僕らの会話と、砂利を踏む足音だけが世界に広がる。僕は彼を置いて行ってしまわないように、彼がひとりで消えないように、しっかりと手を握り直す。
「ねぇ」綾時が口を開く。前を向いて歩く僕は、咄嗟に彼の顔を窺うことはできなかった。
「なに?」
「手、このままで良いの?」
それを聞いた僕は立ち止まり、彼の方を振り返った。予想外だったのか、片手で首元のマフラーをいじりながらも、驚いた顔をしていた。
「嫌だった?」僕が訊ねると、彼はさらに目を丸くした。
「そ、そんなことない」思ったより大きな声が響く。綾時は恥ずかしそうに目を逸らした。
「だろうね」
「じゃあ、なんでそんな聞き方したの?」
「君が寂しいこと言うから」
「思ってもないくせに」
「そんなことないよ」
僕は機嫌良く、歌うように答えた。「君の方こそ、隣を歩いてはくれないの?」
綾時はううんと唸り、口をもごもごとさせて言葉を探しているようだった。
「歩きにくいし、喋りにくい」僕は思っていることをそのまま口にする。「それに、君の顔が見えない。今は、僕と君しか居ないのに」
綾時ははっとした顔をした。それから少し躊躇った後、一歩、二歩と彼は進み、僕のすぐ隣に来る。後ろに引かれていた腕が、元に戻る。僕は自分より少し上にある彼の目を見て、満足そうに笑って見せた。
「行こう」僕はもう一度言う。少しずつ歩きだすと、彼はぴったり僕の隣に来るように、歩き出した。僕らは互いに歩幅を揃えて、再び線路をなぞって駅に向かう。影時間が明ける気配は、まだない。この調子なら、無事に駅まで辿り着けるだろう。
僕が対向に見える列車を眺めていた時、「あのさ」と綾時は切り出した。「僕は、君の隣を歩いて良いのかな?」
こんなこと、許されるのかな?と言う綾時の声はとても小さく、だけど静かな今の時間では、はっきりと聞き取れた。
「誰がそんなこと言うの?」
「世界とか。君とか?」
「言わないよ、そんなこと」
僕が一歩進むと、繋がれた手が後ろに引かれる。僕が少し振り返ると、綾時は立ち止まり、険しい顔で僕の方を向いていた。
「君はもっと、僕に怒って良い。お前のせいだって掴みかかっても良い。こんな僕に、優しくしなくて良い。対等に、扱おうとしなくて良いんだ」
そう言って彼は繋いだ手を離そうと力を抜いた。すかさず僕は、彼の手の甲を抑えるように、上からさらに強く握った。
「離さないよ、絶対」まっすぐ彼だけを見つめる。「別に僕は、君に怒ってないし嫌になってもない。もしそうなら、居るかも分からない君を探しに行って、誘わないでしょ」
「でも」と言い出す綾時に被せるように、僕は続ける。「優しくしようと思って、手を握っているわけでもない。どれもこれも全部、僕が好きでやっていることだ」
「だけど、君も分かっているはずさ」綾時の声は、少し震えていた。「君をこんな風になるまで追い込んだのは、僕のせいだ。結局、僕はいつも君から貰ってばかりいる。今もこうして、繋いだ手から君の体温を奪って……外はこんなにも寒いのに」僕は視線を手元に落とす。たしかに僕の手は、長く彼と触れ合っているくせに、冷たいままだ。薄々分かってはいたけれど、綾時にはもう体温という概念がないのだろう。「何もかも君とは違う僕が、君の隣にいて良いの?」
綾時は、泣きそうな顔をしていた。だけど彼の目が潤むことも、丸い瞳から涙が溢れ落ちることもない。僕は、今の彼に届く言葉を必死で探した。彼が消えてしまわないように、強く手を掴む。たっぷりと息を吸って、吐き出して、両の目で彼を捉える。
「でも僕は、君が良い」
綾時は静かに瞬きをした。小さく息を溢す音が、聞こえる。「どうして?」
「友だちに会いたいなって思うのに、いちいち理由が必要?」
僕は小さな子どもに話しかけるみたいに、笑った。「いい?これは僕の我儘だ。僕が君に会いたいと思ったから行った。君と遠くへ行きたいと思ったから誘った。君に隣に居て欲しかったから、頼んだ。それだけだよ」
「そんなの」
「納得できない?」
綾時はうんと頷く。
「じゃあこうしよう。僕は少しも思ってないけど、もし君に罪悪感があるとするなら、償いのために僕に付き合ってよ」
「何、すれば良いの?」
「今夜だけ、僕の我儘聞いて。海まで駆け落ちしよ」
「そんなの、最初の予定通りだよ」
「だから、僕は最初からそう言ってる」
綾時は目をさまよわせる。僕より背の高いはずの彼が、今は迷子の子どもみたいに小さく見えた。「そもそも、そんなこと言うならなんで君は一晩だけ、僕の時間を持っていったの?」
「それは、君が」
「僕が?」
「君が、そうしたいって思っているのが伝わってきたから、つい。僕にできることを、君にしてやりたかった」
綾時はだんだんと声を窄ませながらも、白状した。それを聞いた僕は、堪え切れずに口元が緩み始める。それじゃあ、一体何を悩む必要があったのか。それも含めて、彼の人柄なのだと思うけれど、それにしても。「なら、最初からやることは決まってるね」と、不思議そうな顔をする彼に言った。「今夜は僕と一緒に過ごす。君は僕のお願いを聞いて、できる限り叶えてよ」
ね、そうでしょ?と僕は彼の顔色を窺った。
綾時はたっぷりと間を開けてから、はぁと大きくため息をついた。
「分かったよ」彼の言い方は苦々しいものだったけど、その声は案外、やさしいものだった。
「じゃあ、堂々巡りのこの話は、もうおしまい」僕は無理やり話題を断ち切る。「もし、僕の手が冷たいのが気になるなら、君もちゃんと握り返してよ」
「え」
「そうしたら、ここに僕の体温を閉じ込めことができそうじゃない?」
そう言って僕は、もう一度手を握り直す。今度は指を絡めて、やさしく掴んだ。綾時は困ったような、うれしそうな顔をしながらも、先ほどよりも強く、握り返してくれた。手の感触を確かめてから僕はまた「行こう」と口にする。
僕らは歩幅を合わせて、線路を歩き始めた。
影時間が明ける前に、僕らはどうにか次の駅へとたどり着いた。思っていたよりも距離が遠くて、少し足が疲れた。あれ以降、僕らは手を繋いだまま時々ゆるりと話を始めて、黙って。そんなことを繰り返しながら、のんびりと歩き続けて来た。
線路から再びホームへと上がり、僕らは改札を抜ける。影時間が明け、世界が動きだしてから、僕らは切符を買った。
「切符、買う必要あったかな?」
「下車できなくなるでしょ」
「そっか」綾時は素直に納得する。開いたベンチに腰掛けると、プラスチック製の冷たさが服越しに這い上がってきて、体の芯から寒さを感じた。綾時の手なんかより、こっちの方がよほど冷たい。ちらりと隣を見やると、彼は落ち着かない様子で周囲を見渡していた。さっきまではあんなに、世界に溶け込んでいて、まるで世界は僕たちのもののように思えていたのに、スーツの大人が疎らに居るホームに、僕ら二人の子どもは明らかに浮いていた。
今日の最終列車が到着し、僕らは乗り込む。選び放題な座席の中で、僕は隅っこの席に座った。その隣、窓のすぐそばに綾時も腰掛ける。扉が閉まり、列車は動き出す。ガタガタと心地よい揺れが、僕らを包んだ。
「海に行くって言っていたけど、どこまで乗るの?」
「この列車の終点まで」
「へぇ、そうなんだ。知らなかったな」
「僕も」
「え」
「今日のために、海まで一番近いところ、調べて来た」
「ふふ、そっか」
彼の声が思ったよりもやわらかだったから、僕は思わず顔をあげる。綾時は目元の黒子に皺をよせ、目尻を下げてへにゃりと笑っていた。「そんなにおかしい?」
「いいや、ちっとも」
「でも、すごく笑ってる」
「うれしくて、だよ」
ふぅん、と僕は興味のないふりをして、思いのままに瞼を閉じる。少し、眠たかった。綾時は僕の髪の隙間から、耳を触った。「耳、ちょっと赤いよ」
「うるさい」
くすくす、と笑う声が、少し上から聞こえる。彼はそのまま、僕の頬を触って、目の下を親指でそっと撫でた。「眠たいのなら、眠って良いよ。どうせ僕は眠らないから、着いたら起こしてあげる」
そう言って彼は僕の体を自分の方へと寄せた。僕は抗おうかと思ったけれど、思考に靄がかかったように眠たくて、あたたかくて、心地よくて、彼にされるがままでいた。
微睡の中、「おやすみ」の声が聞こえて、ついに僕は意識を手放した。
◇
体が不自然に揺さぶられて、意識が急激に浮上する。
「着いたよ、起きて」
うん、と声にもならない音をあげて、僕は何度か瞬きをした。ぼやける視界のピントを合わせる。こんなに深く眠れたのは、随分と久しぶりのことに思えた。開いたドアから流れる風が冷たくて、少しずつ目が覚めてくる。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。ありがとう」
正真正銘、最後の乗客である僕らは、しんと静まる車内を降りて、出口へと向かう。冬の夜はとても冷えて、海も近いならなおさら、凍えるような風が吹き抜けた。改札に切符を吸い込ませ外に出ると、真っ暗で静かな世界が広がっていた。輝く星々が、いつもよりはっきりと見える。息を吸うと、透き通った冬の空気が胸いっぱいに広がった。
「思ったよりも暗いね」
「街の方からは、少しはずれた場所だからね」
街灯が点々と照らす道を、僕らは並んで歩き始める。事前に調べて記憶した道を何となく辿り続けると、次第に風の冷たさが増して、潮の香りが届いて来た。
「あ」綾時が声をあげる。「あれ、海じゃない?」
「おお」
道路を渡った向こう側、防波堤の先に、黒く静かな海が見えた。車通りの少ない道だけれど、綾時は左右を見てから横断歩道を渡る。開けた視界に見えた海は夜空と溶け合い、混ざり込み、ほとんど見境がつかない。絶えず聞こえる波の音と、眩しい月の光のおかげで、かろうじて海の場所が分かる程度だった。周囲には人ひとり居ない、静かな場所だ。
「思ったよりも寂しい場所だね」僕は言う。
「そうかな?静かで落ち着く場所だと思うよ」
何事も前向きに捉える姿勢は、綾時の美徳だと僕は思う。僕の中で育ったはずなのに、随分と違うひとが生まれたものだ。僕にはここが、暗くて恐ろしい場所にも思えた。ひとりだったら、どうなっていただろうか、と想像する。すぐに浮かんだのは、夜の海に沈む自分の姿だった。あったかもしれない未来を考えると、胸の内に不安が渦巻き、ゾッとする。今の僕には、隣に綾時が居たから、怖いものはなかった。
浜辺に降り立った僕らは、特に何かをするでもなく、海に沿って歩き始めた。月の光が足元を照らす。あまり波打ち際には行き過ぎないように気をつけながら、行く当てもなく歩き続ける。数歩先を行く綾時の背中を、僕は追いかけるように進んだ。海風になびく黄色は、灯台のように僕の行く先を指し示す目印のようだった。
しばらく歩き続けていると、おもむろに綾時が地面にしゃがみ込んだ。マフラーの先が砂に触れるのも気にせず、彼は地面をいじっている。
「何かあった?」僕が口を開くと、白い息が上がった。
「あった」彼は何かを拾い上げ、軽く砂を払う。「ほら、見える?」
彼の手のひらには、青くて半透明の欠片が置かれていた。
「シーグラスだ」
「シーグラス?海の硝子ってこと?」
「硝子が海に呑まれて、削れたものだよ」
「へぇ」彼は欠片を月光にかざす。「綺麗だね」
「うん」僕は彼横顔を見る。
綾時は欠片から目を離し、僕の方を向いた。硝子と同じ青い目が、僕を捉える。「これ、君にあげるよ」
不意をつかれた僕は、えっと小さく声をあげた。
「ね?」彼は僕の手をやさしく掬って、手のひらに青いシーグラスを握らせた。そのまま両方の手で、包み込む。「どうか、君に持っていて欲しいんだ」
僕は自分の拳を眺める。角が削られやわらかくなった硝子の、ざらりとした感触。冬の風と海ですっかりと冷えた欠片を握りながら、「分かったよ」と僕は答えた。
彼はふわりと笑って、手を離した。僕はシーグラスを失くさないよう、手と一緒にポケットの中に入れる。ころりとした欠片を指先で触って遊ばせながら、また歩き出した。今度は綾時に倣って、足元を眺めながら前に進んでみたが、夜道は暗く、そう簡単に宝物は見つけられそうになかった。
それからしばらく、僕らまた歩き出した。明かりの少ない海辺は、月と星の光だけが頼りだった。二人とも常に話すわけではなくて、ぽつぽつと何かを溢す程度で、穏やかな波の音が耳に残る。このままでは、海岸の端から端まで歩き尽くしてしまうのではないかと思っていた頃、ふと足音がひとり分しか聞こえないことに気がついた。僕はすぐに足を止め、振り返る。
「綾時?」声をかけたけれど、彼は遠くを見つめて立ったまま、こちらを振り向くことはなかった。ゆっくりと彼の方へと歩み寄り、もう一度声をかける。
「綾時、何みてるの?」
黙り込んだ彼が、食い入るように見つめる先を僕も見てみる。あっという声はあげなかったものの、僕は静かに息を呑んだ。
月が明るくて、風の控えめな夜。黒く、深く、穏やかな海に、沈みかけの月が近づく。水面に月光が反射して、月まで届く一本の光の道が海の上に現れていた。
ムーンロード。この現象の名前が、僕の頭に浮かんで消える。綾時が囚われているのはこれだと、すぐに分かった。
月は、いつか彼が還る場所だから。
月までの道筋が、今、開かれている。無表情な彼の横顔を見て、僕は形容しがたい不安に襲われた。冷たい鉛のようなものが胸の辺りで沈んで、腹が締め付けられるような感覚がする。
気づいた時には、彼の手首を掴んでいて、僕は海の方へと歩き始めた。
「え、どうしたの?」綾時は慌てた声をあげる。
「行こう」
「え?」
「月の方。もっと近くに」
「そんな、危ないよ」
「大丈夫」僕は何の根拠もなくそう言い切った。ばしゃばしゃと水を割きながら、海の中まで足を進める。氷のように冷たい水のせいで、身体の芯まで凍える。浮いてきた靴は海の中で脱ぎ捨てて、目の前の月の光を辿った。
「ねぇ、待って。待ってよ。ねぇってば」綾時の叫ぶような声も、僕らの服が濡れるのも気にせず、前へと進む。冷たい。綾時に何か声をかけようとしたけれど、唇が震えて、うまく声は出なかった。白い靄だけが、僕の口から吐き出される。
「もうやめて」綾時は片方の手で、僕の腕を強く掴んだ。がくんと体が引かれて、足元で水飛沫が上がる。転びそうになる僕を、綾時は支えてくれた。ちょうど、膝の辺りまで海水が上がってきている所だった。
「やめてって、何度も言ってるでしょ」彼は泣いているようにも怒っているようにも見えた。「なんて、話、聞いてくれないの」震える声で彼は続ける。
僕は返事をしようとしたけれど、寒くて、寒くて、言葉の形をした音をうまく出せなかった。
「あぁもうこんなに冷たく震えて」綾時は自分のマフラーを外して、僕の首に巻きつける。「僕は寒さを感じないし、死にはしないけど、君は違うんだよ?」
彼は僕の体を寄せて、抱きしめるようにして、肩や背中を摩った。「ねぇ、ちゃんと分かってる?僕、君に死なれたら困るんだけど」
「やってみなきゃ分かんないだろ」
「分かりきっていることだよ」
綾時は少しだけ体を離して、僕の顔を覗き込んだ。
「帰ろう」彼は、やさしい声でそう言った。
「月に?」
「ううん。陸に」綾時は指を絡めて、僕の手を握った。「ここは寒くて、凍えちゃうから。ほら、今だって僕の方があたたかいかも」
「君はずっとあたたかいよ」
綾時は返事をせずに、曖昧に笑って見せた。僕は彼に引きずられるようにして、浜辺へと戻される。抵抗する気はなくて、暗闇をした水面をぼんやりと眺める。月の道は影になって、見えなくなってしまった。僕らの動きに合わせて水面が揺れる。僕は自分に巻かれたマフラーを、首元を触った。繋がれた手は、生ぬるかった。
「ほら、あったよ」
綾時はぐしょぐしょに濡れた僕の靴を持って、防波堤に座る僕の方へとやって来た。風と波で、彼の髪は少し崩れていて、手足の袖を折り返し、マフラーは外されている。いつもと違う姿は新鮮で、少し変な気持ちがした。一方の僕は、首に黄色のマフラーが巻いてあって、彼が買って来たあたたかいココアを両手で握っているような、間抜けな状態だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って彼は、僕の側に靴を置いて、そのまま僕の隣に腰掛ける。「靴まで捨てちゃうなんて、びっくりだよ」
「ごめんって」
「一体、どうやって帰るつもりだったの?」
「考えてなかった」
「バカ」
僕は何も言い返す言葉がなかったから、そのまま黙り込んだ。潮水を含んだズボンは、ベタベタと張り付いて、冷たくて気持ちが悪い。素足でいるのも寒かったけれど、濡れた靴下を履いているよりは何倍もマシだった。綾時の言うように、今の僕らじゃ当分帰れそうにない。
僕はもう一度、海を眺めた。月の道はいまだに、暗い水面を照らしている。真っ直ぐ、一本だけ引かれた輝く光は、僕らが進むべき道筋のように思えた。
「ねぇ」綾時が声をかけるので、僕は海から目を離して、彼の方を向く。「なんで急に、あんなことしたの?」
あぁ、と僕は呟く。綾時が月を見ていたから、なんて答えてしまっては、まるで彼が悪いみたいに聞こえてしまいそうで、僕は言葉を選び直す。どうして?と言われても、ぴったりと当てはまるような言葉がうまく思いつかなくて、しばらくの間黙り込んでしまった。そんな僕を、綾時は急かすことはせず、かといって「言わなくて良いよ」なんて甘い台詞を投げることもしなかった。僕は首元にあるマフラーを触る。
僕らの間に沈黙が続いて、波のさざめく音だけが響く。
「下見、かも」たっぷりと間をおいて、僕が出した答えはそれだった。
「下見?」綾時は、不思議そうな声をあげる。
「月は、君がいつか還る場所でしょう?」
彼は息を詰まらせた。
「それで、たぶん、これから僕が行く先でもある」
「え?」
「前回はそうだった。たぶん、今回もそうする」僕は、彼がくれたココアの缶を強く握った。生ぬるい。「だから、今のうちに見ておこうと思って」
「冬の、夜の海を渡ってまで?」
「そう」
綾時は大きくため息を吐く。ため息と言うより、呆れや怒りを込めた音のようだった。「ねぇ、分かってる?一歩間違えたら、君、死んじゃうところだったんだよ」
「うん」
「本当に分かってる?」
うん、と僕は頷く。「だってそれは、いつだってそうだろ」
死はいつも、僕らの側にある。
「だけど今日は、君が居る」僕は綾時の方を向いて、少しだけ笑った。
「僕?」
「君は、少なくとも大晦日まで、僕に死んで欲しくないでしょう?」
綾時は不満そうに、低く唸った。
「だから、どうしてもやばくなる前には止めてくれるだろうって、信じてた」
ついに彼は両手で顔を覆って、深く息を吐いた。「最悪」
「うん」
「最低」
「そうだね」
「ひとでなし」
「僕もそう思う」僕はぬるくなったココアを一口飲んだ後、マフラーに顔をうずめた。「だけど、君にたくさん心配をかけて、不安にさせちゃったのは、悪かったと思ってるよ」
綾時は手を下ろし、じろりとにらむようにこちらを向いた。
「本当に?」
「本当だよ」僕はしっかりと彼の目を見た。「ごめんね」
彼は目をぎゅっと瞑って、ううんと唸った。「いいよ、とは言えないかも」
それだけのことをした自覚はある。僕は緩く頷いて、彼の言葉に耳を傾けた。
「だから、一つ僕のお願いを聞いて」
「お願い?」
「今日のこと、忘れて」
声にならない息が、僕の口から零れ落ちた。真剣な彼の目が、声が、冗談なんかじゃないことと、言外に伝えて来る。呆然とする僕の少し濡れた髪を、君は優しく撫でた。
「僕らの約束は、“今夜だけ”だ。僕はやっぱり、感情や思い出に振り回されない正しい選択を、君にしてもらいたい」
「もしかして、最初からそのつもりだった?」
彼は否定しなかった。列車に乗ったあの時みたいに、彼は僕の頬を撫でて、指で目の下をなぞった。
「隈、少しなくなったね」
「え」僕は小さく声をあげる。
「あの日あった時も、随分とひどい顔をしていたんだよ。知らなかったでしょ?」綾時は微笑む。「だから、一晩だけ、君のことを連れ出した」
「でも、忘れたら意味がない」
「たとえ記憶がなくたって、今日過ごした時間が消えるわけじゃない」
「そう、だけど」
「君ならもう、大丈夫だよ」そう言って綾時は、手を離した。「帰ろう」
「どこに?」
「君の、居るべき場所に」
◇
ぱっと深い眠りから醒める。体は軽く、気分も良い。こんなに深く眠れたのは、随分と久しぶりのことだった。自室の時計を見ると、いつもより少し早い時間に目が覚めたようで、だけど二度寝をするには少し足りない。冬の底冷えした空気が心地よくて、僕はそのままベッドから起きあがることにした。カーテンを開くと部屋に朝日が差し込んで、少し眩しい。視界の端に、何かがきらりと輝いた気がして、僕は光のする方を向いた。ベッドの側のランプの下に、見覚えのない青い欠片がある。
それは、小さなシーグラスだった。拾い上げると、曇りガラスのようなざらりとした感触がして、朝日に透かすととても綺麗に輝いていた。いくら記憶を辿っても、海へ行った記憶も、誰かから貰った覚えもない。だけどなぜか、とても大切なものだと思った。僕にとって、とても大切なもの。僕は引き出しからやわらかなハンカチを取り出し、シーグラスを包んだ。失くさないように、傷がつかないように。
ふと、首元を触ったけれど、そこには何もなかった。
波の音が、耳の奥に残っている。